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洗礼を受けるキリスト

マタイ31317、イザヤ4215「洗礼を受けるキリスト」

2024414日(左近深恵子)

その頃、ユダヤの人々がユダヤ全土から、大きな都エルサレムからも小さな町や村からも、荒れ野のヨルダン川のほとりにやって来ました。日本の風景に馴染んでいる私たちは、川と荒れ野が結びついた風景をなかなか思い浮かべられないかもしれませんが、ガリラヤの地域から、エルサレムなどがある死海周辺の地域へと、ヨルダン川を挟むようにして南北に谷が続いており、その大半は乾燥し、岩や石や砂ばかりの、緑は僅かしか育たない、日中の強い陽射しを遮るものがほとんど無い荒れ野でありました。その荒れ野で、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と人々に呼びかけていたのが洗礼者ヨハネでした。呼びかけに応えて人々はヨハネの所にやって来て、神さまのみ前に罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。ヨハネは、自分の後に、自分よりも力のある方が来られると、自分はその方の履き物をお脱がせする値打ちも無い者であり、自分は水で洗礼を授けているが、その方は神さまの霊と裁きの火を持って洗礼をお授けになるのだと、その方が神さまのご支配を私たちに近づけてくださるのだと語り、この方を私たちの内にお迎えするために、神さまのみ前に立ち帰り、罪の赦しを願う悔い改めをして備えよと呼びかけ、悔い改めに導く洗礼を授けていたのでした。

洗礼を願う者はそれぞれにヨハネと川の中に入ってゆき、水の中に全身を沈めて洗礼を受けていたのでしょう。川のほとりには、洗礼の順番を待つ大勢の人々がいたことでしょう。その日、その人々の中に主イエスがおられたことを福音書は伝えます。ガリラヤの地ナザレから荒れ野のヨルダン川のほとりにやって来られたのでしょう。他の人々と同じように順番が来るのを待ちながら、洗礼を受ける一人一人の姿を見つめておられたのかもしれません。これが、この福音書でクリスマスの出来事以来初めて、主イエスが登場される場面です。13節の「来られた」と訳されている言葉は「現れた」という意味の言葉です。31で「洗礼者ヨハネが現れて」と訳されている言葉と同じです。主イエスがただここに来られたというよりも、ここに現れてくださったのだと、最初に主イエスの先触れとしてのヨハネが現れ、ヨハネがその方のために備えを人々にさせてきて、とうとうその方が現れたのだと、二つの「現れた」という言葉の繰り返しは主イエスの登場に私たちの注意を向けさせます。そのようにして福音書が伝えようとする主イエスとはどのような方でしょうか。真っ先になさったのはどのようなことだったのでしょうか。主イエスはヨハネから洗礼を受けるためにナザレからやって来られ、人々の列の中におられる方であったのです。

主イエスにお会いしたヨハネは、主イエスが自身から洗礼を受けるために来られたことを知り、主を思いとどまらせようとします。ヨハネの抵抗は当然でありましょう。ヨハネが人々に洗礼を受けるようにと呼び掛けてきたのは、それが人々を進むべき道へと背中を押すことになるからです。罪の支配からどうしても逃れられず、罪に囚われた混沌とした悲惨さの中にある人々を引き上げてくださる神さまの救いに人々が備えるために、神さまが本来与えてくださっている自分たちの本来の在り方へ回復される方へと向きを変えるために、生き方の方向を変えさせるために呼びかけ、洗礼を授けて来ました。そのヨハネの呼びかけに人々は心を動かされ、あらゆる町や村から集まって来て、洗礼を受けたいと願い出て、自分の順番が来るのを待っていました。罪に囚われた所から、何とか神さまの元へと立ち返りたい、生き方の方向を変えたいと望む人々の願いが伝わってくる情景です。

その人々と、主イエスは全く異なる方であることを、ヨハネはどのようにしてかは分かりませんが知ることができたのでしょう。自分が人々に語って来た、水だけでなく霊と火によって洗礼をお授けになる方はこの方であろうと、悔い改めの実を結ばない全ての罪に裁きを下すことができる方、その焼き尽くす火でもって洗礼をお授けになる方は、この方であろうと、主イエスが他の人々と全く異なる方であることを見て取ったのです。主イエスに罪は無いのではないか、罪が無いのに罪を悔い改め、神さまの元に立ち返る必要がある方があるのかどうか、などという、人間同士の評価の延長のような問いを遥かに超えた所におられる方、人の罪を裁く方であることを受け止めたのです。ヨハネは、預言者イザヤがかつて告げた「主の道を備えよ/その道筋を真っ直ぐにせよ」との神さまの言葉のように、人々に主の道を真っすぐに進む備えをするよう、呼び掛けてきました。そのヨハネの目の前に現れた方ご自身が、「主の道」と言える方であります。人々を神さまに結び付けるために、人々を神さまのもとへと導く道となるために、世に来られた方です。そのような方は他にいません。ヨハネも例外ではありません。ヨハネは、自分も、罪に囚われる悲惨さの中を生きてきた者であること、主の道を真っすぐに歩むために自分も罪の赦しが必要な者であることを知っている人でありました。だからこの方に自分が洗礼を授けるなど、できるはずがないと思ったのです。ヨハネは「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか」と抗うのです。

ヨハネは自分の後に来られる方のことをこれまで、「私より力のある方」と語ってきました。ここでヨハネが言う「力がある」とは、私たちが普段「力」という言葉で意味しているもの、私たちが「力」として重んじているものと、同じではありません。腕力を指すのでは勿論無く、世が重んじる能力でも、世を動かすことのできる権力でも、人心を惹きつける影響力でもありません。「私より力のある方」という文を新共同訳聖書は「私より優れた方」と訳していました。元の言葉には、「強い、堅固な」といった意味があります。ヨハネはこの箇所で、神さまのみ心に適う正しさ、神さまの義に従うことにおける堅固さが自分に勝る、自分より優れている方だと言っているのでしょう。その主イエスがヨハネに、「すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです」と言われます。「すべてを正しく行う」という文は「すべての義を満たす」とも訳されます。「すべての義を成就する」という意味の文です。神さまの正しさ・義の中から、これは自分は行わなくて良いだろう、これは行っておこうかなどと、人間の側が差し引いたり残したりするのではなく、義なるもの一切を行っていくこと、実現していくことを、神さまはご自分の民に求めておられます。その神の民の中に立ってくださり、民を率いるようにして、義にまさるイエス・キリストは、全ての義を行うのだと、それがあなたと私にふさわしいことだと言われます。そしてキリストはこの後、ご自分の言葉通りに十字架に至るまで、神さまのご意志に完全に従い通されました。神さまに従い、義なるものの一切を成就するために世に降られ、人となられ、へりくだられたキリストは、死者の中にまで降られました。キリストによって神さまの救いのみ業は既に成就されたのですから、私たちも神さまのみ前にへりくだり、私たちの行いを神さまが必ず実を結ぶものとしてくださることに信頼して、行いでその信頼を証しすることが、私たちの進む道であります。神さまが私たちに求めておられるように、神さまのご意志を実現することを、キリストの後に続いて、求めていくのです。

ヨハネは主イエスを「力のある方」と語りました。私たちは、神さまのご意志に従って生きることを、「力のある」こと、「強いこと」と、本当に捉えているでしょうか。私たちは、神さまの義に生きる人、信仰に生きる人のことを本当に、「力のある人」と、「強い人」と、捉えているでしょうか。世は信仰に生きる人のことを、なかなか「強い」とは評価しません。まして、信仰のためにへりくだり、死んでいく人のことを、「強い」とは受け止めないのではないでしょうか。そのような生と死に憧れを抱くことはあっても、どこかで「愚かだ」「現実を見ないで理想だけを追っている」「非効率的だ」「結局得をしていないではないか」といった目で見る傾向があるのではないでしょうか。その見方に私たちも反論する言葉を見出せず、無言でいることによって世の見方を認めてしまっていることもあるかもしれません。けれど私たちを捉えており、私たちを不自由にしている罪を全てご存知である方、その罪を真に裁くことのできる神さまの正しさこそ真に正しいのであり、神さまの義を私たちは何よりも、罪に囚われた人たちを救うために救い主を世に与えて下さる神さまのみ業にこそ見出すことができます。赦しにふさわしい悔い改めの実を結びきれていない私たちの罪を神さまが赦される、それは最も愚かなこと、非現実的なこと、非効率的なこと、神さまにとって利益の無いことでありましょう。それでも神さまは救い主を与えてくださると、預言者たちを通して告げて来られたのです。主イエスが人々の前に現れたこの時点でヨハネは、神さまがどのように人々の罪を赦されるのか、どのようにして人々を救われるのか、その道のりを見通していたわけでは無いでしょう。ただ、主イエスが自分よりも義なる方であることは受け止めました。そして義なる方から、「全てを正しく行うのは、全ての義を成就するのは、我々にふさわしいことです」と告げられたのです。

主イエスはヨハネに「我々に」と言われました。ヨハネにとってこれほど嬉しい言葉はなかったのではないでしょうか。神さまのご意志に適う正しさにおいて劣る自分の働きを、主イエスはご自分と共にあるものとしておられます。ヨハネは自分の後に来られる「力ある」方のために、人々の期待にも好奇の目にも自分を曝しながら、遮るもののほとんどない荒れ野で悔い改めを呼び掛けてきました。主イエスはこの自分の働きを、ご自分と共にあるものとしてくださっていたことを知るのです。その方の言葉に背中を押され、義を実現するために、ヨハネは主イエスに洗礼を授けます。ヨルダン川へと入ってゆかれた主イエスは、他の人々と同じように、罪を洗い清めるように全身を水の中に沈めてくださり、それから水の中から立ち上がられました。罪を清め、悔い改めるため洗礼を受けることによって人々の群れに加わってくださった主イエスですが、この方が他に並ぶ者のいない方であることを、この時神さまが示されました。天から聖霊が主イエスの上に降られました。ヨハネが授けていた水による洗礼が、水と聖霊による洗礼とされました。授けたのは主イエスよりも劣っているヨハネという人間であっても、それは聖霊なる神が働かれた洗礼となったのです。そして、父なる神もみ子と共におられることを、神さまが天からの語り掛けによって示してくださいました。他の福音書よりもマタイによる福音書は、その時天から降った声が、そこにいた人々に向けられたことに重きを置いています。主イエスのためにというよりも、そこに居た人々のために、そして私たちのために、「これは私の愛する子」だと、主イエスは私の子、神の子であるのだと、神さまは教えてくださいました。こうして子なる神の洗礼に、聖霊なる神が降られ、父なる神が語り掛けられました。霊を受け、「私の愛する子」と告げられた子なる神は、聖霊なる神、父なる神と一つであることが示されました。

天からの声に人々は、詩篇第2篇(7節)の言葉と、イザヤ書42章(1節)の言葉を思い起こしたことでしょう。「これは私の愛する子」という言葉は、神さまが、ご自分の代わりにご自分の民を支配する者として選び立てた民の王に、「私の子」と呼びかける詩篇第2編からの言葉です。この詩編の言葉に、「愛する」という言葉が加えられています。父なる神と子なる神イエス・キリストの、愛に満ちた深い結びつきが伝わってきます。「私の心に適う者」という言葉は、神の民としてのイスラエルに預言者イザヤを通して神さまが語り掛けられた、「私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者」との言葉が重なります。神さまは、あらゆる民の贖いのために、「僕」と呼ばれるものを召し出されました。神さまが支えられ、神さまが喜ばれ、神さまのみ心に適う「僕」を指し示し、このものを見るようにと人々に呼び掛けられた、その呼びかけを思い起こさせる表現で、主イエスを人々に指し示します。人々に混じるようにして洗礼を受けられ、天から霊と声を注がれるこの主イエスは、人間の期待が生み出した、人間の願いを実現してくれる者ではなく、人々の贖いのために神さまのご意志を実現する方であるのです。

 

マタイによる福音書は、他の福音書もそうでありますが、イエス・キリストはどのような方なのか、証しするものです。福音書の初めから終わりまで、語ることを重ねつつ、語りきれない、描ききれないその姿を解き明かしていきます。当時の人々も福音書を聞く私たちも、主イエスの先触れである洗礼者ヨハネを通して、どのような方であるのか知らされます。「悔い改めよ、天の国は近づいた」と荒れ野で叫んだヨハネのメッセージは、後にキリストご自身が人々に告げられます。ご自分の弟子たちにもこう語りなさいとこのメッセージを与えられます。この福音書を貫くメッセージであり、主の弟子である教会に主が託されたメッセージであります。このメッセージに、イエス・キリストによって私たちにもたらされている恵が示されています。主イエスが世に来られたことによって、天の国が、つまり神さまのご支配が、私たちの間に決定的にもたらされたのだと、それはもう起きているのだと、ヨハネは人々に告げてきました。罪によって自分の本来の在り方を失い、進むべき道が分からず、踏み出す力も失いつつある人間の状況の中にご自身も身を沈めてくださったキリストによって、恵みが私たちの奥底にまでもたらされています。人々の状況に思いを寄せ、憐れみを注ぐことと、その中にご自身も身を置くことが、主イエスにおいては一つのことでありました。私たちも隣人のためにそうありたいと願い、誰かにそうして欲しいとも願います。けれど誰かにそうしたいと願い、誰かにそうして欲しいと願いながら、誰も完全に他者の罪による苦しみを共にはできない私たちであります。私たちに神さまが与えてくださった救い主は、罪による苦しみの底にまで身を沈めてくださり、洗礼を共に受けてくださり、神さまの救いのみ業を成し遂げてくださいました。

 

キリストは、わたしたちが為すべきことである悔い改めを私たちの先頭に立ってしてくださり、洗礼を受けてくださいました。その洗礼を、神さまはご自分のみ言葉と霊による洗礼としてくださいました。十字架の死と復活を通して、天と地の一切の権能を授かっている方であること、私たちに洗礼を授ける権威を持つ方であることを明らかにされたキリストが、今度は弟子たちに、つまり私たち教会に、洗礼を授けることを命じておられます。福音書の最後でこのように告げておられます、「あなたがたは行って、全ての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって、洗礼を授け、あなたがたに命じたすべてを守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(281920)。私たちの為すべきことは、ヨルダン川のほとりに人々に混じって現れてくださったキリストによって示されています。キリストの後に続いて踏み出す一週間となりますように、主の導きを祈ります。