過去の説教

過去の説教 · 2024/04/15
洗礼を願う者はそれぞれにヨハネと川の中に入ってゆき、水の中に全身を沈めて洗礼を受けていたのでしょう。川のほとりには、洗礼の順番を待つ大勢の人々がいたことでしょう。その日、その人々の中に主イエスがおられたことを福音書は伝えます。ガリラヤの地ナザレから荒れ野のヨルダン川のほとりにやって来られたのでしょう。他の人々と同じように順番が来るのを待ちながら、洗礼を受ける一人一人の姿を見つめておられたのかもしれません。これが、この福音書でクリスマスの出来事以来初めて、主イエスが登場される場面です。
過去の説教 · 2024/04/08
私たちは、神様の恵を心に受け止めること、心に留めることができなくなってしまうほど、不安や怒りや疑問に心が頑なになることがあります。心がささくれ立つようにイライラとしたり、何を見つめるべきなのか分からず、心の視線が定まらず、キリストの苦しみも死も、自分の人生と重なるところの無いものに思えてしまうこともあります。私たちの心はしばしば、岩や石や砂が広がり、緑は僅かしか育たず、水も栄養も保ち続けられない荒れ野のようです。荒れ野に風が吹けば砂埃が巻き起こるように、何か想定外の事が起これば心の中に恐れが湧き起こり、ザラザラとした不快な不安に被われ、視界が遮られてしまいます。  荒れ野のような日々は私たちにとって辛いものでありますが、自分の内側が荒れ野のようであると気づき、荒れ野のような自分であることを認めることができる時、神さまの言葉が初めてその意味をもって響いてくるということがあるように思います。
過去の説教 · 2024/04/01
ルソン島マニラの北にあるスモーキーマウンテンという劣悪なスラム街を訪問した。スモーキーマウンテンとはマニラ中のごみが積み上げられた山のことであるが、そこに家もなく仕事もなく収入を得る術もない人々が島中から集まり、バラックなどを作って住んでいる地域である。中でも余りの劣悪な環境に驚かされたのは、橋の下にどうにかこうにかバラックをこしらえてその中に数多くの家族が密集して住んでいたことだった。フィリピンは台風によく襲われる。大量の雨が降って川の水位が上がると橋の下は簡単に冠水してしまう。昨年だったか、バラックに住んでいた5,6歳の男の子が溺死してしまったと、最高齢の老婆が無表情で語っていた。その心の奥底には言葉にならない悔しさや悲しさ、過酷な現実を黙って受け入れるしかない空しさがうごめいていたようにも思う。
過去の説教 · 2024/03/26
たった数日の間に人々の間で、主イエスを歓迎し、その言葉やお働きに喜んで耳を傾ける思いよりも、自分の期待通りに行動を起こしてくれないことへの失望が、力を持つようになったのでしょうか。神さまの言葉を聞く喜びよりも、神さまの真理の言葉に自分の闇が明らかにされてしまうことへの抵抗の方が大きくなったのでしょうか。主イエスが居なくなることを望む人々の、死によって主イエスを消し去ろうとする潮流が町を席巻してゆきました。その流れに晒されながら、主イエスはある同じ言葉を、違う相手に、三度告げておられたことをマタイによる福音書は記しています。
過去の説教 · 2024/03/19
主イエスが十字架にお架かりになる前の晩、弟子たちと最後に囲まれた食卓は、通常の夕食ではありませんでした。過越しの祭りの期間、親しい人々で囲む過ぎ越しの食事でした。年に一度、多くの人々がエルサレムに集まって来て祝う過ぎ越しの祭りは、かつてファラオの力の下、奴隷とされていたイスラエルの民の叫びを受け止めた神さまが奴隷の地から民を救い出した出来事を思い起こす特別な時でした。初子を撃つ神さまのお力が、小羊の犠牲の血が塗られたイスラエルの家族の家は過ぎ越された、過越しの出来事を思い起こす一連の祭儀を通して、人々は、自分たちがどのような民であるのか、受け止め直したことでしょう。自分たちは神の民であるのだと、神さまが自分たちの神となられ、自分たちをご自分の民としてくださり、神さまとの契約に生きる道を与えてくださった民であることを新たに胸に刻み、今も共におられ、救いへと導いておられる神さまに感謝を捧げたのです。
過去の説教 · 2024/03/14
今朝、与えられました聖書のみ言葉は、「それでもなお、命を お与えになられるのは神さま」であるということが示されております。  わたしたちは、命の糧を 神さまに日々、いただいて生きている。そのような者であります。そして、そうでありながら、その喜び、恵みを あたりまえのように 受け取り、だいじにすることができないでいます。 私たちが、命の糧を神さまに日々、いただいて生きていることをあらためて、感じる時とは、神さまを信じ、頼らせていただかなければ、 自分では、生きていけない、動けないことに ぶつかる。そのような時であるとも言えましょう。
過去の説教 · 2024/03/04
 今日共にお聞きしましたヨハネの黙示録の箇所は、新年の礼拝で読まれることがあります。これからの1年がこのような時であって欲しいという願いを持つ私たちの心に響き、新しい年の歩みを導く言葉がここにあります。  今日の箇所はそしてまた、葬りの中で特に読まれる箇所であります。逝去された方を覚えて捧げる葬儀の礼拝で、またその人の体とお別れする火葬場で、しばしば読まれます。棺を囲み、その人のことを、その人との間に与えられた交わりのことを思う時、その生涯の歩みを導いてくださった主が、その人も含めて人々に与えてくださっている、死を超える約束を示してくれる言葉がここにあります。
過去の説教 · 2024/02/27
マーティン・ルーサー・キングの自伝に「自由への大いなる歩み」という書物がある。黒人を差別するバスに乗ることを止めよう。キングの呼びかけによって始まったボイコット運動は次第に広まり、それによって次第にアメリカの社会が変化していくことになるのだが、その運動が実際に動き始めるまでには、幾重にも乗り越えなければならない壁が立ちはだかった。その壁の一つは、思わぬところから現れた。この運動が白人から反対されるのは火を見るよりも明らかだったが、同じ神に仕える黒人の牧師仲間の中にこの運動に賛同しない者達、白人にこびを売る者や、白人のご機嫌を損ねないように大人しくしていた方が賢明だと考える現実主義者が多くおり、それがキングの悩み苦しみであったという。  運動に賛同している多くの民衆の中にある老婆がいた。彼女はバスに乗らずに歩道を杖をつきながら歩いていた。たまたま通りがかったタクシーの黒人の運転手が彼女に声をかけた。「おばあちゃん、乗んなよ、無理して歩くことはないよ」と。その時、老婆はこのように答えた。「私は私自身の為に歩いてるんじゃないよ。私の子供や、私の孫の為に歩いているのさ」と。
過去の説教 · 2024/02/19
愛と聞いて私たちは先ず十字架を思い浮かべるでしょうか。どちらかと言うと、温かく私たちの全てを包み込むような優しさ、輝きといったイメージを思うのではないでしょうか。私たちが神さまに期待するのも、そのような愛のイメージと重なるものでありましょう。人々から理解されず、執拗な攻撃や揶揄する言葉を浴びせられ、死んで自分たちの社会から消えて欲しいと多くの人に望まれ、十字架上でまでも罵声を浴びせられた主イエスの出来事に、真っ先に愛を思い浮かべないかもしれません。その十字架によって、神さまの愛を私たちは知ることができるのだと、この手紙は言います。
過去の説教 · 2024/02/12
このペトロの手紙は、キリスト者として生きていくのが厳しい環境で暮らしている人々に向けて書かれています。 今日の箇所を聞き、受け取り手たちがそのような厳しい状況にあったということを、意外と感じるかもしれません。手紙は1、2節で、手紙の前置きとして挨拶と祈りを述べますが、それを述べ終えた途端、「私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように」と神さまを賛美し始めるからです。挨拶と祈りの後に先ずこれを伝えたい、そう願ってきた思いが溢れ出した、そのような勢いのある表現です。

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