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愛は全てを結ぶ帯

「愛はすべてを結ぶ帯」創世記12628、コロサイ31217

20231119日(左近深恵子)

 

 パウロはユダヤ人だけでなく他の民にも福音を宣べ伝えました。そのパウロの伝道をパウロから引き継いだ者の1人、エパフラスは、パウロが伝道の拠点としたエフェソから東の地域を巡って伝道しました。現代のトルコ西部の地域です。その結果いくつかの教会が生まれました。コロサイという町の教会もその一つです。主要都市エフェソから東に向かう交易通商道路沿いにあるコロサイは、かつては大きな町として知られていましたが、教会が生まれた時代には他の町が政治的にも経済的にも発展しており、コロサイはローマ帝国にとってはさほど重要ではない、小さな町となっていました。しかしキリスト者同士の結びつきの中で、教会は町や教会の大きさによって重要度が変わることはありません。コロサイの教会は決して小さな存在ではありません。手紙の冒頭で手紙の書き手は、いつもコロサイの教会のために祈っていると、コロサイの人々のキリスト・イエスにある信仰と、すべての信仰者たちに対するコロサイの人々の愛について耳にして、父なる神に感謝していると記しています。

 

 書き手は、感謝と賛美だけでなく、他に伝えたいことがありました。キリストだけが教会の頭であると言うことです。教会はキリストの体であるということをコロサイの人々も受け止めていたことでしょう。教会がキリストの体なら、教会の頭がキリストであることは自明のことのようですが、そうとは言い切れないのが人の実態です。コロサイの教会の外で偽りの教えが展開されていました。キリストのみを礼拝するだけでは不十分であると、キリストと共に特別に霊的な力を礼拝することを求めていたようです。この手紙の218に「あなたがたは自分を卑下したり、天使を礼拝したりする者たちから、不利な判断を下されてはなりません」とあるので、コロサイの教会を脅かしていた者たちは天使を礼拝していたようです。教会は外からこの偽りの教えに揺さぶられていただけではありません。キリストを礼拝することも否定せず、自分たちをキリスト教の一つだと主張するそのような者たちの教えを教会の中に取り入れようとする動きが内側でも起きていました。教会は教会であることが脅かされていました。教会はキリストの体と言われますが、頭をキリストの他にも持とうとする体は、真にキリストの体であり続けられなくなります。それは、キリストの体のようでありながら、キリストに全てを委ねきれず、天使など他のものに希望を置く集団へと変質してしまうのです。

 

 このような誘惑に脅かされるのは、コロサイの教会だけではありません。キリストのことを大切にしていないわけではない、キリストによって与えられている恵みを感謝している、キリストの後に続く人生を生きていきたいと思っている。でも他にも頼れるものがあったらより心強いではないか、そのような思いは、思い悩むことの材料に事欠かない私たちの心を惹きつけます。そのような一人一人の不安と、より具体的な力、より目に見える成果を求める思いが共鳴すれば、教会の頭にキリストでないものまで掲げようとしてしまうかもしれません。頭であるキリストの横に誰か特定の人物を並べ掲げてしまうこと、あるいは正しい行動が自分自身を救うのだという主張を掲げてしまうことは、歴史の中でも、1人の信仰者の人生の中でも、繰り返されてきたのではないでしょうか。このことについて思い巡らしている内に、ギリシャ神話に登場する怪物を思い出しました。ヒュドラーという名の怪物で、頭を幾つも持つ水蛇です。英雄ヘラクレスがこの蛇と戦いました。ヘラクレスはヒュドラーの頭を何度も何度も切り落としますが、その度にすぐに新たな頭が生え出てきてしまうので、最後は松明の火で切り口を焼いてヒュドラ―を退治したという話です。英雄も苦戦したこのヒュドラ―に、偽りの教えに引きずられる人々や、キリストに並べて他のものを神としたがる私たちの姿が重なるような気がしました。勿論、キリストは神さまが世に与えてくださった方で、神さまが教会の頭としてくださった方です。私たちが生え出させることなどできません。そうであると知りながら、気づけばキリストの横に世の特別に見える力や自分自身を並べようとしてしまう、それらをキリストに並び立つことができるかのように思ってしまう私たちのこころは、幾つもの頭を持つこの怪物のようであります。

 

 この手紙の書き手は、そのように様々なものを自分の神として頭上に掲げたがる人々に、キリストのみが「見えない神の形」であることを告げました。救いの根本は、神さまが独り子を通して与えてくださった贖いの業にあると、この救いの業を、神さまは和解として与えてくださったのだと、示しました。神さまでないものを次から次へと自分たちの頭に掲げ、そうすることで神さまが真の神であることを蔑ろにしてきた私たちに、神さまの側から和解の道を与えてくださいました。神さまとのつながりを蝕んできた私たちとの間に、神さまがキリストによって平和をもたらしてくださいました。この主キリスト・イエスを(あなたがたは)受け入れたのだから、キリストにあって歩みなさいと、手紙は2章で呼び掛けます(26)。キリストにあって歩むとはどういうことなのか、それは人間の言い伝えやこの世の様々な力のとりこにされてしまうことではなく、キリストの内に根を下ろし、使徒たちやエパフロスを通して教えられてきた福音によって強められながらその上に建て上げてゆくことだと述べます。あなたがたは洗礼を受けたのだと、それはこの世の諸々の力を纏っていた古い自分に、キリストと共に死に、それまで纏っていたものから離れることであり、そしてキリストと共に復活させられることなのだと語ります。洗礼によってキリストに結び付けられ、キリストにあって歩むということは、古い人を、古い人の行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着ることなのだと、服の脱ぎ着のイメージで語るのです。

 

 引き続き今日の箇所でも、手紙は人々に身に纏うことを求めます。何を纏うのか、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。これらのことは、教会でなくとも望ましい人間の態度として求められるようなことですが、手紙は一般論として勧めているのではありません。キリスト者が「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」だからです。コロサイの教会の人々は、空しい騙しごとの教えを主張する人々のとりこになってしまう危機にあります。また大半がユダヤ人から見れば真の神を知らなかった異邦人であったコロサイの人々は、自分たちの価値を低く見てしまうこともあったようです。しかし、周りの人々からどう見られようと、自身が自分をどう見なそうと、あなたがたは神さまの愛の内に有る者だと、神さまがご自分へと導いてくださり、キリストにつながることで罪を赦され、聖なる者とされた者なのだと告げます。神さまから愛を注がれ、神さまによって聖い者とされている、それが、キリスト者が憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に纏う理由です。神さまの愛の中にあることが、これらを身に纏うことのできる根拠です。新しい人を着るということを、曖昧なイメージに終わらせず、このような具体的な姿を手紙は示します。

 

 今日の箇所の直前、10節では、新しい人を着るということが、造り主のかたち、造り主の姿に従って、ますます新たにされ、真の知識に達するということだと述べられていました。創世記の創造物語で神さまは「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」と言われました(126)。「かたちに、造る」と訳されている部分、新共同訳聖書では「かたどり、造る」と訳されていた部分、この部分の翻訳に用いられているのと同じ言葉が、コロサイ書310節の「造り主のかたち、姿」という部分の「かたち、姿」に用いられています。手紙の書き手は、創造物語のこの神さまの言葉を思い起こさせる仕方で、新しい人を表現しているのです。キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に復活する洗礼は、神さまが人々を本来お造りくださり、祝福された在り方へと回復してくださる道です。新しい人を着る者とされ、着続けようと求める日々は、造り主のかたちにかたどられてゆく歩みです。神さまが人々を憐れまれ、慈愛を注がれ、神のみ子が父なる神の慈愛を実現するためにへりくだることを貫かれ、柔和であり、寛容であり続けてくださった、この神さまのかたちに従うのですから、私たちも纏い、キリストの後に続くことを願います。新しい服を着こなすように、キリストにあって私たちの一挙手一投足が新しくなってゆくことを、求めるのです。

 

 勧めは更に人の心の内へと迫ります。互いに耐え忍び、赦し合いなさいと言います。「互いに」という言葉も「赦し合う」と言う言葉も、これは一人に向けられた言葉ではなく、教会に連なるキリスト者たちに向けられた言葉であることを示します。教会に連なる人々は、キリストによって結び付けられているということ以外、互いに重なることが無くても何の不思議もありません。それまで暮らして来た環境や社会的立場、世代が違うかもしれません。政治的立場、健康状態、価値観が違うかもしれません。同じ福音を聞いても、感じ方、受け止め方は人それぞれであり、神さまから与えられている賜物も、教会で捧げている奉仕も、同じものは一つとして無いでしょう。キリスト者同士ならばいつも互いに何の不満も無いなどということはありません。キリストに従う生き方を真実に求めているからこそ、自分の生き方の核に関わることに適当なことなど言えない、いい加減なことなどできないと、それぞれが思っていて当然です。自分にとっても相手にとっても、神さまのみ前でどうでも良いことではないからこそ、同じキリストを信じる者とされたからこそ、相手が何を言っても行ってもどうでも良いとは思えない、相手に不満を抱くということがあり得ます。

 

その互いを結び付けてくださっているキリストに拠って、赦し合うことが求められます。キリストに拠らなければ、本当に赦すことができない私たちでもあります。互いに、キリストの命の値によって罪を赦され、聖なる者とされています。聖なる者と神さまはしてくださったのに、誰もがなおも罪人です。誰もが他者の罪を見出すことに早い者ではありますが、自分が主の命をもってしなければ赦されない者であること、なおも主に従いきれない自分のことを、主ご自身が耐え忍び続けていることも、受け止めるに遅く、弱い者です。誰もが赦されなければならない者であり、そして主は赦してくださった、だから互いに耐え忍び、赦し合うことを手紙は求めます。自分の思いや自分の努力でそれを為そうとしても、挫折ばかりの私たちでありますが、キリストにあって赦す道が与えられています。新しい人を着るということは、自分を赦してくださるキリストの赦しを私たち自身が纏い、主のかたちにかたどられる者となることを、赦しにおいても祈り求めるのです。

 

 手紙は今日の箇所の後半でも、様々な勧めをします。キリストの平和があなたがたの心を支配するようにと言います。神さまでないものを次から次へと、神さまに並べるように自分たちの頭に掲げてしまい、神さまとのつながりを自らか細いもの、不確かなものにしてしまう私たちと、神さまの側から和解してくださり、神さまの側から平和をもたらしてくださったことを先に触れました。この既にもたらされている平和を、それぞれの心の内に満たしなさいと、神さまからの平和をどのような時もあなたがたの心の底に湛えていなさいと呼び掛けます。キリストの十字架のみ業によって実現されたこの平和に与からせるために、あなたがたは神さまから招かれ、キリストの体とされているのだと述べます。キリストの十字架によって、神さまと私たちの間を隔てていた壁は取り壊され、平和がもたらされました。だから、私たちが互いの間にそびえる壁に力が萎え、希望が潰えてしまったように思う時があっても、キリスト者はキリストにあって一つの体であり続けることを、諦めることはありません。ただお一人のキリストによって、私たちは互いの間の隔ての壁を崩され、一つのキリストの体とされたのですから、独りで祈るしかないような厳しい状況にある時にも独りではないことを知り、心の深みで平安を知ります。今互いを見ることはできなくとも、キリストによって一つの体とされている、どこかでただお一人の主を仰いで礼拝を捧げ、祈りを捧げている人々の存在に思いを馳せることができます。

 

 私たちの心にキリストの言葉を満たすようにとも勧められます。キリストの福音はどこよりも礼拝で語られ、聞いた言葉は心に蓄えられていきます。しかしそれで終わりではありません。受け止めた言葉を互いに教え合い、詩や歌に載せ、行動に表す、そのようにして私たちの言葉や行いを神さまに捧げます。そうやって私たちは互いにキリストの言葉に生かされ、キリストの言葉を味わいます。こうして一つ一つの言葉の豊かさを共に知ります。言葉は機械的に溜まっていつか消えてゆくのではなく、私たちの内側へと、私たちの体の隅々へと、染み渡っていきます。このような人のことを手紙は、主イエスによって父なる神に感謝する人と言い換えています。神さまからいただいている恵みに応答する言葉や行いは、神さまへの感謝となり、神さまへの感謝をもって他者と接することへとつながってゆくのです。

 

 

 新しい人を着るということは、神さまから与えられた溢れんばかりの恵みを受けて決断し、行動することへと促される、止むことの無い応答と言えます。聖書は、神さまが人々を救うために決断とみ業を重ねてこられ、とうとう独り子までも与えてくださったことを証します。この神さまの衣を纏う私たちも、神さまのかたちを自分の歩みを通して象ってゆくことを求めます。どう決断し、どう行動するのか、自由の内にその都度考え、選び取る私たちです。すべての人がいつも同じことを考え、行動するわけでは全くありません。自分一人のこれまでを振り返っても、考えや行動は首尾一貫していないものです。その私たちに、14節の言葉が力強く響きます。「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です」。私たちの思いと行動、全ての上に、愛をいつも冠のように着けるのです。「愛はすべてを完全に結ぶ帯」だからです。新共同訳では「愛は、すべてを完成させるきずなです」となっていました。「帯」とも「きずな」とも訳せる言葉ですが、手紙はこれまで脱ぎ着のイメージによって述べて来たので、聖書協会共同訳は「帯」の方を取ったのでしょう。自分の中で、また互いの間で、食い違っているように見えても、ボタンが掛け違っているように思えても、一貫していないことに不安を覚えても、大切なのは一人一人が、その時その時が、神さまの愛を仰いで、神さまの愛を冠としてそのことを考え、為しているのかであります。かみ合っているのかどうか私たちには判断がつかなくても、神さまの愛がいつも全ての上にあるのなら、私たちの言動は散り散りになって虚しく消えていくことはないと、互いに一つに結び合わされるのだと、主にあって信頼することができます。キリストに明らかになった神さまの愛が、私たちの迷いながらも重ねていく決断と行動の源であり目標であり、理由であり根拠であり、希望であり保証であります。「言葉であれ行いであれ、あなたがたのすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい」との締めくくりの言葉に導かれながら、今週の日々を歩んでまいりたいと思います。