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土の器と宝

イザヤ402731、Ⅱコリ4715「土の器と宝」

20231015日(左近深恵子)

 

 パウロは教会から遣わされて三度に渡る宣教旅行をしました。第二次宣教旅行の時にコリントの町にパウロが福音を伝えたことで、この町にも教会が成立しました。パウロはそれぞれの地を離れても自分が関わりをもって生まれた教会のことを思い、祈り続けました。パウロが記した手紙や使徒言行録は、パウロがその後それらの教会を再訪して人々を励ましたこと、訪問できていない教会もいつか訪ねたいと願っていたことを伝えています。コリントの教会のこともパウロは思い続けていました。コリントの教会の中に問題が生じていたので、手紙を送って指導し、力づけました。それが先々週と先週、礼拝でその一部を聞きましたコリントの信徒への第一の手紙でした。第一の手紙を書いた後、エフェソの町を出発してコリントに向かうつもりであったパウロでしたが、訪問の道が阻まれてしまいます。その間にもまた教会の外から教会の中に入り込んできた教えが、教会の中で影響力を持つようになりました。その教えを説いていた人々は自分たちの力強さを誇り、パウロの弱さを批判し、人々に、パウロの使徒としての資質について疑問を抱かせました。人間の偉大さ、優秀さによってキリスト者を基礎づけようとするこの教えに教会は揺さぶられていました。そこでパウロはこの第二の手紙を送り、自分の礎、キリスト者の礎は何であるのか、語ったのです。ですから今日お聞きしました箇所で、「私たち」とパウロが述べる時、それは自らを含めた使徒を指しています。なぜ使徒たちがキリストを宣べ伝えるのか、語り続ける力はどこから来るのか、説いています。しかし使徒たちだけでなくキリスト者は皆、キリストを宣べ伝える者であるので、「私たち」をキリスト者全体に広げて聞くことは、パウロが伝えようとしていることとつながります。この手紙はその後コリントの教会だけでなく地域全体にも伝わったと言われています。信仰が揺さぶられる危機を知らずにキリストの後に従い続けられる人はいないのであり、多くの人がパウロの言葉によって、教会の礎、自分の礎を見つめ直したことと思います。

 

 パウロは、自分たちのことを「土の器」と表現します。旧約聖書の表現を受け継いでいます。創世記の創造物語は、神さまが人間を、大地の塵からお造りになったと語ります。預言者イザヤは、陶工によって造られる陶器を通して、人間を語ります。イザヤは自分たちがどのような者であるのか見失い、神さまに信頼する道を見失った人々のことをこう嘆きます、「災いあれ、陶器のかけらにすぎないのに/陶工や、自分を造った者と言い争う者に。/粘土が自分を形づくった者に/「あなたは何を作るのか」と言ったり/「あなたの作ったものには取っ手がない」/と言ったりするだろうか。」(イザヤ459)。人々の生活と深く結びついていた陶芸のイメージを用いて、神さまのみ業が語られてきました。パウロの時代も陶器は、水やオリーブ油、食品を入れておく容器として、また食器として、人々の日常生活に欠かせないものでした。そしてパウロの手紙の送り先であるコリントの地は、陶器の生産地として有名であったそうです。コリントで作られる陶器には、他では見られないような美しい図柄が表面に描かれ、彩色が施され、美術品と呼べるものでした。交通、貿易の要所であり、有数の商業都市でもあったコリントから各地に陶器が運ばれ、高い評価を受けていたそうです。

 

 パウロはかつてコリントを訪れた時、コリント文化と経済の豊かさを映し出すようなこれらの陶器に目を見張ったことでしょう。しかしパウロが手紙で用いた「土の器」という言葉は、素焼きの器を指します。焼かれた土の色そのもので、耐水性があまりない、普段使いの日用品です。自分たちコリントの陶芸家の画力や技能の高さを世に知らしめる美術品のような壺ではなく、素焼きの器を、人間を表現するために用いるパウロの言葉に、コリントの人々は驚きを覚えたのではないでしょうか。人間の偉大さ、優秀さが、パウロや他の使徒たちを使徒たらしめているのではありません。人々がキリスト者に自他ともに期待している、キリスト者ならこうあるべきという能力や言動が、キリスト者をキリスト者たらしめているのでもありません。パウロもコリントの人々も私たちも、陶工である神さまの手によって形造られ、火で精錬されて、この世に二つとない器として造られています。神さまのみ業に依って、パウロ達は使徒とされ、人々はキリスト者とされているのです。

 

 美術品としての壺は、何も入っていなくても芸術作品であり、鑑賞の対象となり、高値で売買されます。しかし素焼きの器は、何かを入れ、保存したり持ち運ばれたり食事で使われることが本来の在り方です。それぞれが神さまに造られた神さまの作品である私たちですが、置物ではなく器である私たちは、その中に何かを入れている状態が、創造主が願っておられる本来の在り方です。土の器という表現が、人間の弱さ、脆さを見事に言い表しているために、この言葉に出会うと、自分の弱さ、脆さに留まってしまう傾向を私たちは抱えています。自分はまさに、何か衝撃を受ければ容易くヒビが入ってしまう、縁が欠けてしまう者だと嘆いていることが、信仰深い者、敬虔な者の在り方であるかのように思い、浅い満足に陥ってしまいがちです。けれど今日の箇所のパウロの言葉は、力に溢れています。パウロが伝えたいのは自分の脆さを嘆く自分の姿ではなく、自分たち器の中に満ちている宝なのです。

 

 自分自身のことだけでなく他者の姿に、また他国の指導者たちの姿やその指導者たちの誤った指導に賛同する人々、あるいは黙認する人々の姿に、嘆きの言葉を発することに留まってしまう誘惑も、いつでも私たちを捉えようとしています。ハマスとイスラエル政府の間で凄惨な争いが起きています。キリストが苦難に満ちたご生涯を歩まれ、復活された地を含む地域で、巻き込まれてしまっている人々の現実に胸を痛めます。露わになってゆく人間の闇に、一体いつになったら解決へと向かうのだろうかと、苦しくなります。そして私たちは、本当に神様の平和を祈るために、私たちという器の中に注がれてきた宝を見つめなければならないと思わされます。歴史の中でイスラエルもパレスティナ自治政府も、寄留者としての苦しみを他の民にもまして味わってきました。この両者が舐めて来た辛酸に世界も責任を負っています。だからこそ私たちは、神さまが為してこられた救いの業とみ言葉に立ち帰らなければなりません。奴隷の地から導き出してくださったイスラエルの民に神さまは、「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである」(出239)と告げられました。私たちが皆神さまの言葉に立ち帰り、神さまの平和が世に為され、和解が実現するように、祈りを合わせることを心から願います。

 

 パウロが伝えたいのは、私たちという器の脆さではなく、私たちが内側に宿すべき宝です。私たちは神さまのみ手の業による特別な存在です。けれど神さまが世に与えてくださっている宝に比べれば、自分たちのことを豪華な壺などとは言えない、土の器としか言えない者です。土の器であるこの私たちに、こんな宝を神さまは与えてくださっていると、だから「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています」と45でパウロは宣べています。宝を、イエス・キリストの福音と言い換えることができるでしょう。キリストを宣べ伝える礎は私たち自身ではありません。私たちに与えられた福音です。福音を宣べ伝える者としてのふさわしさは私たち自身にあるのではなく、福音を内に抱いていることにあります。自分の弱さを理由に、福音を語ることの相応しさに疑問が示されることがあるかもしれません。自分自身がそのことに揺らぐことがあるかもしれません。しかし福音を語る相応しさは語る者自身にあるのではなく、福音を宿していることにあります。語り続ける力も語る者自身から湧いてくるのではなく、福音そのものから、この福音を与えてくださった神さまから与えられます。

 

 私たち自身が生み出す力には限界があります。四方から苦難を受ければ追い詰められ、途方に暮れてしまう状況の中では憔悴し、自分のみならず大切な人々の命も生活も危険にさらされれば、世界中から見捨てられたような孤独に陥り、倒されれば痛みと屈辱と疲れの中で立ち上がる力も失います。けれど内に福音を抱いているならば、神は真実な方である、その信頼に立ち帰ることができます。試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださる神さまに祈る力が回復されます。だから宝を宿した土の器は、追いつめられても行き詰まらず、途方に暮れても望みを失わず、迫害されても神さまは見捨てておられないことに信頼し、私たちを倒す力は、私たちを倒せても神さまから引き離して滅ぼすことはできないことに信頼するのです。

 

 パウロは今日の箇所で、何度も死に言及します。私たちが福音と言うものを思い浮かべて期待する言葉とは、“私たちの内に命が与えられている、だから私たちは生かされている”、そう述べるようなものではないでしょうか。しかしパウロは、「死にゆくイエスをいつもこの身に負って」いる、「イエスのために絶えず死に渡されてい」る、「こうして私たちの内には死が働」くと述べます。「死にゆくイエスをこの身に負う」と訳されている文は、新共同訳聖書では「イエスの死を体にまとっています」となっていました。元の文は「イエスの死を体をもって運びまわっている」ということを意味します。器である私たちは、いつでも主イエスの死を、自分の存在をもって運びまわっている、主イエスの死を持ち運んでいる、そのようにして日々を生きているということになるのです。

 

 実際、パウロの伝道の歩みは死に付きまとわれるようなものでありました。かつてキリスト者たち追いつめ、迫害し、倒していたパウロが、復活の主によって導かれ、福音を宣べ伝える教会の働きの先頭に立って福音を語るのです。パウロの言葉に深く耳を傾けることのできない人々が大勢いました。パウロの言葉に、神の民として生きて来た自分たちの生き方が否定されていると反発し、神がモーセを通して与えられた律法をパウロは守っていないと怒り、パウロを追いつめ、迫害し、倒し、投獄し、断罪しようとしました。パウロや使徒たちは、福音を宣べ伝えるために、主イエスが地上で歩まれたような苦難多き道を歩みました。この伝道者たちの働きによって、キリスト者たちは命の福音を聞くことができ、新たな地に新たな教会が生まれていきました。「私たちの内に死が働き、あなたがたの内には命が働くのです」と述べたパウロの言葉は、このことを指しています。パウロはこの手紙の書きだしにおいても、「私たちが苦難に遭うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです」(16)と述べていました。主イエスのように死の危険に晒されながら生涯を伝道のために捧げたパウロや他の使徒たちによって、私たちの内にも真の慰めを告げる福音が与えられていることを思います。

 

 けれどパウロは、たとえ主イエスと同じような苦難、投獄、処刑という歩みを辿ることがなかったとしても、自分の存在、自分の歩みを、主イエスの死との関りにおいて受け止め続けたことでしょう。人々の罪を贖うための死に至る苦しみと、死に打ち勝たれた復活が、福音の核心であるからです。苦難の中に追い込まれると、人は土の器であること、弱く脆いものであることを露呈していきます。けれど人はただ何かの形を持って存在しているのではなく、神さまによって、神さまの慈しみと祝福を映し出し、神さまの福音を宿すものとして形づくられた者です。ヒビが入ればそのヒビの隙間から、縁が欠ければその欠けたところから自分の内側に神さまの福音があることを証しすることができる者です。こんなに追い詰められているのに、八方塞がりであるのに、途方に暮れているのに、迫害を受けているのに、倒れているのに、なぜ神さまへの信頼という、常識ではこの状況で持つことのできない力を持ち続けることができているのか、それは、この人自身の力ではなく、この人の内側に与えられている福音の力であると証しすることができるのがキリスト者です。私たちのために十字架にお架かりになり、その死に打ち勝たれた主の力が、この身のヒビや欠けを通して示されます。新共同訳では「いつもイエスの死を体にまとっています」と訳されていた文を、聖書協会共同訳は「死にゆくイエスをいつもこの身に負っています」と訳しました。「イエスの死」を「死にゆくイエス」と訳したのは、この元の言葉が通常死に用いられる言葉ではなく、死の動作を意味する言葉であるからでしょう。過去の十字架を過去のこととして振り返るだけでなく、今、苦しみの中にあるこの自分のためにも、主は死んでくださった、そのように日々、十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かわれる主イエスの背中を見つめるようにして苦難の中を歩んだからではないでしょうか。死にゆく主イエスの十字架によって、今日も自分において罪の贖いが実現している、主の後に従う歩みが力づけられている、そう日々感謝を新たにしていたからではないでしょうか。

 

 既に主イエスは私たちのために十字架の死を死んでくださいました。今も私たちはこの主の死によって赦され続けています。主の復活と私たちに約束されている復活によって日々救われています。ならばこの主を世にあるかぎり宣べ伝えようと願います。その思いをパウロが13節で、詩編11610を引用して語ります。日本語の翻訳の元になっている版とは異なる版をパウロは用いているので、言葉が少し違っています。パウロはこう述べます、「『私は信じた。それゆえに語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それゆえに語ってもいるのです」。語る力は自分が救われている、その感謝から来ます。詩編の詩人がそうであったように、感謝の思いによって、語らずにはいられないというのです。

                                                       

 

器である私たちが福音を宿せば、福音は私たちの内側の粗い表面の凸凹の間にも、最も奥深くの弱いところにも、傷だらけで最も触れられたくないところにまでも、福音が届いています。世にあってはマイナスとしてばかり捕らえるそのようなところにおいても、私たちは福音の力を知ります。内に宿す宝によって、世の評価に捕らわれない、世の想定を覆す歩みを辿ります。疲れることなく、弱ることの無い、その英知は究め難い方である主が、疲れた者に力を与え、勢いのない者に強さを加えられると述べた預言者イザヤの言葉が思い起こされます。主が約束された終わりの日を、主のみ前に共に立たせていただく救いの完成の日を待ち望む者は、新たな力を得、鷲のように翼を広げて舞い上がります。私たちという器は衰えてゆきます。しかしこの身に福音を宿しているなら、この身を通して、日々の生活を通して、キリストの死と命とを証しすることにおいては、弱ることが無く、疲れることも無いのです。