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たとえ私が

エレミヤ1410、Ⅰコリント13113「たとえ私が」

2023108日(左近深恵子)

 

 パウロはコリントの教会の人々に宛てた手紙の中で、「たとえ、〇〇でも」と、素晴らしい行いを挙げてゆきます。最初に述べられる異言とは、人間には理解できないけれど神さまと語る言葉と言われています。預言や知識と共に、当時のコリントの教会で重んじられていたものです。神さまの恵みを何の妨げも無くほめたたえることのできる舌、神さまから託された言葉をもっと真っすぐに、大胆に、世に響くように語る力、神さまのあらゆる秘儀に通じる深い知識、主イエスが山をも移すと言われたような完全な信仰(マルコ112224)を、私も喉から手が出るくらい欲しいと思います。パウロは更に、全財産を他者のために差し出すほどの行いや、財産だけでなく自分自身を差し出す行いも挙げます。「焼かれる」という表現は、殉教の死を指すと言う解釈、あるいは焼きごてで奴隷のしるしを付けられるという解釈もあります。困窮する他者のために自分を奴隷として売る行為を指しているという理解です。これも、主イエスが言われたことを思い起こさせます。主イエスのもとに走り寄って来て、永遠の命を受け継ぐには何をすれば良いでしょう、十戒で教えられているようなことは、自分は幼い時からずっと守ってきましたと、主イエスに答を求めた裕福な男に主は、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから私に従いなさい」と言われました。すると顔を曇らせながら主のもとを立ち去った、なぜなら沢山の財産を持っていたからだと、マルコによる福音書は伝えています(101722)。神さまの言葉に生きたいと願い、自分は最大限神さまの言葉に生きていると高ぶりながら、求めていたのとは異なる言葉を告げられるとそこまではできないと主に従う道を避けようとする、私たちの姿がこの人に重なります。けれどそのような普通なら抱える限界を超えて、自分の全てを、財産も人生も命も捧げることができるとしたら、それが人間として最も優れた行為では無いかと、私たちは思います。パウロは第13章を、「私は、最も優れた道をあなたがたに示しましょう」と言ってから語り始めています。ならばここに最も優れた道があるではないかと、思うのです。

 

けれど、何を語っても、何を捧げても、そこに愛が欠けていることがあり得ることを、パウロは聞き手に思い出させます。語る言葉の中に愛がなければ騒がしいだけのどら、やかましいだけのシンバルになりかねない、これはみ言葉を取り次ぐ務めを委ねられた者全てにとって、非常に重たい言葉です。

 

ここで挙げられている素晴らしい行いは、第12章で、神さまから一人一人が与えられている賜物として、既に述べられたものです。コリントの教会の中で、ここで述べられていることができる人は評価され、できない人はあまり評価されない、そのようなことが起こっていました。世では、人をそのように何ができるか、何を捧げられるかといった物差しで評価することが当然のように為されてしまいます。生産性という言葉で人間の価値を測る考え方を、仕方がないと受け入れてしまう流れ、おかしいと思いながらおかしいと言える根拠が見つからず、黙認してしまう流れがあります。いつの時代も、そのような世の計りを教会の中に持ち込もうとする誘惑があります。

 

しかし神さまは一人一人に賜物を与えておられることを、聖書は教えます。第12章でパウロはこのように述べています、「恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、全ての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(1247)。神さまからいろいろな異なる賜物を与えられたいろいろな人がいて、ただお一人の主、頭なるキリストの、手や足として主に仕えるために賜物を捧げる、これがキリストの体である教会の姿なのだと、パウロは教えてきました。

 

けれど、教会の礼拝や活動のための働きであっても、また世にあって為す行動であっても、愛が欠けることがあり得るのだと、自分の心の中を覗けば気づかされるのではないでしょうか。自分が発揮することのできるこの賜物はどなたから与えられているのか、この賜物を用いるのは何のためなのか、互いに違いだらけの人々が何によって一つとされるのかといったことが欠けてしまいかねないことをパウロは知っています。この私も他の人もご自分の手や足としてくださった、キリストの十字架のみ言葉によってではなく、世の計りによって他の人のことも自分自身のことも評価しかねないのです。

 

 預言する力や豊かな知識は、神さまが人に与えてくださったいろいろな贈り物の内の一つです。それが与えられている人もいれば、別のものが与えられている人もいます。自分が与えられている賜物のために研鑽を積み、それを主に仕えるために用いるならば、それぞれの仕方で賜物の素晴らしさを発揮することができます。世の評価とは異なるところで、神さまの眼差しの中で、互いを見ることのできる神さまのご支配の中に、私たちは居るのです。

 

 4節以降では、神さまの愛とはどのようなものであるのか、語られます。愛をキリストと読み替えると、キリストが言われた言葉、為さった御業、様々な出来事が思い起こされ、愛をより深く知ることができるように思います。けれどパウロはキリストを指し示すためだけにここで神さまの愛を語っているのではなく、私たち自身を見つめることを促すために語っているように思います。あらばと、ここで語られている「愛」を「自分は」に言い換えると、文の意味を逆にしなければ自分に当てはまらないことに気づかされます。愛は忍耐強い。けれど自分は忍耐強くいられないことがある。愛は情け深い。けれど自分は善意を持って接してくれるのではない相手に、善意を持って接し続けることができない。愛は妬まない。けれど自分は気づけば正しい思いよりも他者に引き目を感じたり、羨んだりする思いに自分のエネルギーを費やしてしまっている。愛は自慢しない、高ぶらない。けれど自分は実態よりもはるかにマシな者に見せようとしたがる。愛は礼を失せず、自分の利益を求めない。しかし自分は神さまの御心にお応えすることを忘れ、神様によって与えられた相手との繋がりの尊さを見失い、自分のことでいっぱいになって、相手への配慮を欠いてしまう。愛は怒らず、悪を企まない。けれど自分は本当に嘆き、怒らなければならないものから目を背け、苛立ちに自分を支配させてしまい、悪に加担してしまいかねない。「愛は悪をたくらまない」の「悪を企む」という言葉は、他者が自分に対してした悪を数え上げ、通帳にきっちりと付けるように心に留めるという意味です。愛はそのようなことをしない。けれど自分の心の中を覗くと、悪が記帳されていないどころか、悪の方が深く刻まれている可能性を否定し切れないのです。愛は不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。悪を心にきっちりと刻むことをしないというのは、不正を曖昧にし、見過ごすということではありません。けれど自分は不正を同情的に見過ごしてしまう、曖昧にしてしまう、他者が自分と同様悪に陥ってしまうことに安心だって覚えてしまいかねません。神さまがキリストによって私たちの救いを実現してくださった真理を喜ぶことよりも、不義や不正に共鳴してしまう者であります。7節以降は、ここまで述べてきたことを要約します。愛は全てを忍ぶ。けれど自分は諦めざるを得ない理由によって諦めただけでなく、意欲や頑張りが切れてしまった、エネルギーが足りなくなってしまった、そのようなことによってキリストが差し出してくださっている手を自分から離してしまいかねない、辛さに耐えきる十分な力を自分では持ち続けられない者です。愛は神さまこそ真の神であることを信じる。けれど自分は苦しい時や状況が悪化した時、神さまに従ってきた人々が危機に陥いる時、あるいは自分の行動にそれなりの成果がもたらされる時、神さまへの信頼が揺らぎ、他のものや自分に頼り始めかねません。愛は全てを望む。けれど自分は、「み心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」との祈りに、自分の存在すべてを注いで祈り、神さまの勝利に信頼することに、揺るぎなく居続けられない者です。愛は全てに耐える。どこまで行っても出口の見えない長いトンネルを、重い荷物を背負いながら手探りで行かねばならないような試練の中に置かれても、愛は力を落とさずに進み続けます。けれど自分は、闇の中で神さまの光を見つめ続けることも、共に重荷を担ってくださることに主に委ねることも、どの重荷を担うべきなのか見極める目を持つことも、揺らいでしまう者であります。

 

 罪に引きずられたままの私たちは、愛からこんなにも遠い者です。私たちは神さまのことを部分的にしか知っておらず、神さまを部分的にしか語ることができません。私たちの生み出す部分的なものは、神さまの救いのみ業が完成される時、その座を全て神さまに明け渡します。幼子のように未熟な理解、古代の金属の鏡の表面が朧げな像しか映し出せないように、神さまを朧げにしか映し出せない言葉や行為、私たちが生み出すこれらは、神さまのみ前に立つ終わりの時、もはや必要の無いものとなってゆきます。神さまは聖書を通して神さまの言葉と知識を十分に与えてくださっています。しかし聖書を、また聖霊なる神のお働きを、完全に理解することも受け止めることもできない私たちが生み出すものは、私たちの土台とはなりません。それらではなく、それらが指し示す信仰、希望、愛が、私たちの土台です。神さまを部分的にしか知らない私たちの言葉と行いではなく、私たちの全てを知っておられる神さまの救いのみ業が土台です。その中で最も大いなるものは愛であるとパウロは述べます。愛こそが、信仰、希望、御業、全てのものの源にあります。その神さまに愛されている者は、自分が罪に囚われてきた現実を知るだけでなく、神さまの愛に応えるこのような生き方もできるということも、パウロは4節以下で示そうとしているのだと思われます。預言者エレミヤの口に神さまが授けられた言葉は、人々を「建て、植える」ためだけの言葉ではなく、しかし、「引き抜き、壊し、滅ぼし、破壊」するためだけの言葉でもありません。「引き抜き、壊し、滅ぼし、破壊」し、そして「建て、植える」ための言葉であります。神さまがもたされる救いがどのようなものであるのか知るということは、神さまに知られてきた自分がどのようなものであったのか自分でも知り、そこから新しくされることであります。キリストによって罪から引き抜かれ、古い自分を滅ぼしていただいた私たちは、洗礼においてキリストと共に新しい命に生きる者とされ、キリストが歩まれた愛の道を自分も歩むことを求めることができる者とされる、神さまの愛にお応えする自分の業が、建て、植えることに神さまによって用いられると、望み見ることができるのです。

 神さまの愛にお応えしようと私たちがそれぞれに生み出すものは、様々な形を取ります。そこに愛が欠けることはあり得ないと、愛が私たちの源であり、道であるのだと、パウロは気づかせます。パウロはコロサイの信徒への手紙でも、「愛はすべてを完全に結ぶ帯」(コロサイ314)と述べています。私たちがそれぞれに生み出す、時にバラバラに見える言葉や行いの全てを、愛が完全に結び合わせるのです。

 

この愛を私たちは神さまからいただきます。ヨハネの第一の手紙もこう記します、「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。・・・神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現わされました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物としてみ子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4710)。私たちがそれぞれに与えられている異なる賜物は、世の価値観や時には教会が置かれている状況によって、周囲から受ける評価が変わることがあり得ます。神さまからいただく愛に対しても世は、必ずしも必要ない、愛は現実において力を持たないという評価を下したがります。言葉や行いの中に愛が有ろうと無かろうと、世がその時重んじる言葉や行いを発する者を、世は高く評価しがちです。私たちに愛を価値無きものと思わせようとする流れ、愛を欠いて良いと思わせる力、愛があっても虚しいと思わせる罪の力にキリストは勝利され、愛を奪われ、虚しさに陥っていた私たちを、ご自身の命をささげる愛をもって救い出してくださいました。私たちが神さまを愛することができずにいたのに、自分の全てを委ねることのできる土台を見出せず、神さまのみ心に背いていたのに、その私たちは既に神さまから愛されていたのだと、私たちは驚きをもって神さまの愛を知ります。独り子キリストを与えるほどに私たちを愛されたみ心で、神さまは今も私たちを愛し続けておられます。

 

 廃れることも絶えることも無い神さまの愛を知って、私たちは初めて、本当に心から安らぐことができます。この神さまからの愛を語る誰かの言葉や生き方によって、私たちは神さまと言う土台に導かれた経験をそれぞれに持っています。私たちにそれらを伝えてくれた人々との地上の別れが、いつかは来ます。その人々が発した言葉や生き方を、記憶している人の数はやがて減り、その人々について記された文字やその人々が捧げたものに他の人が触れる機会も減っていくかもしれません。けれど、自分の存在をもって言葉や日々を捧げたその一人一人は、死を超える、いつまでも消えることの無い神さまの愛に生きたのです。死を超える愛によって、死は永遠の別れではもはやなくなりました。教会で結びつきを与えられたその人々と終わりの時に再び会う望みが与えられています。キリストが十字架で実現してくださった私たちの救いを、神さまは完成してくださるとの信仰によって、この希望が与えられています。死を超えて私たちを結び合わせているのは、血の繋がりでも、親しさの深さでも、共に過ごした期間の長さでもなく、その人々も言葉と行いによって示してくれた神さまの愛です。たとえ私たちの言葉や行いが周りから評価されるようなものでなくても、私たちの交わりが願いかなわず短いものとなってしまっても、キリストによって与えられる結びつきは死を超える永遠のものであることに、神さまの愛によって信頼することができるのです。