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神の愛はいずこへ

9月24日 主日礼拝

イザヤ56:6-8、ヨハネ17:21-26 

「神の愛はいずこへ」(浅原一泰)

 

また、主に仕え、主の名を愛し、その僕となった主に連なる僕の子ら、安息日を守り、これを汚すことのないすべての人が私の契約を固く守るなら、私は彼らを私の聖なる山に導き、私の祈りの家で喜ばせよう。彼らの焼き尽くすいけにえと会食のいけにえは私の祭壇の上で受け入れられる。私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。イスラエルの追い散らされた者たちを集められる主なる神の仰せ―私はさらに人々を集め、すでに集められた者たちに加えよう。

 

父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。父よ、私に与えて下さった人々を、私のいる所に、共にいるようにしてください。天地創造の前から私を愛して、与えて下さった私の栄光を、彼らに見させてください。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。

 

 

 

水と油は相いれない。では戦争と平和はどうであろうか。善と悪はどうだろうか。邪悪と正義はどうだろうか。それらが決して相いれないものであることを人間は頭では分かっている。しかし現実を見て欲しい。私たちを取り巻いているのは、邪悪と正義が入り混じったままの世界ではないだろうか。ある場所では見た目だけの平和が維持されていても、世界のどこかで戦争が起こっている。この世は歩んできたのは、そういう歴史だったのではないだろうか。先週は国連でSDGsに関する会合が開かれたというニュースが流れたが、8年前の2015年に、2030年までの完成を目指して17項目の風呂敷を広げたのは結構だとしても、丁度折り返し点となる今年は、未だ15%程度しか達成していないことをグティエレス事務総長が深刻な面持ちで嘆いていた。確かにコンビニやスーパーでレジ袋を受け取らなくなった。ファストフード店で使うストローやフォーク・スプーンもプラスチックではなくなった。しかしその程度では変わらないのだろう。理由なしに平和を壊し、ウクライナ侵攻を始めたロシアのような国が存在する以上、達成どころかむしろ逆行しているかもしれない。安全保障会議にはウクライナのゼレンスキー大統領が出席し、常任理事国に拒否権を与えていることが却って悲惨な戦争に終止符を打たせず平和を壊し続けていると必死に国連に改革の必要性を訴えていたが、同席していたロシアのラブロフ外務大臣は「拒否権は国連憲章に定められた正当な権利だ」と主張するばかりで一歩も譲らない。水と油、邪悪と正義が一切かみ合うことなく、対立したままただ混在しているだけの世界がそこにあることを改めて思い知らされた。

 

話は変わるが、これまで中学二年生にあのバベルの塔の話を解説してきたが、今年初めてある試みをした。傲慢にも天にまで届く塔を建てようとするバベルの人々を嘆いた神は、彼らの言葉を混乱させて塔の建築を止めさせ、全地に散らしたというあの物語をこれまでは、これは実話ではない、と言い続けて来た。しかし今年の夏、イギリスの聖書学者の論文を読んでふとこんなことを思った。皆さんは、「地は混沌として闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という創世記の言葉を御存じだろう。そこに向かって「光あれ」と語ったというのが神の第一声である。その前のあの「混沌とした世界」とは何であったのか。天も地もなく、形あるものが何もない状態だった、ということではない。その昔、今から2600年近く前にイスラエルの国は完全に滅ぼされた歴史を持つ。細かくは2700年前に、イスラエルの北半分が当時の大国アッシリアに滅ぼされ、その百数十年後に南半分がバビロニアに滅ぼされた。バビロニアは、征服した地域のイスラエルの民を生け捕りにして自分の国へと強制移住させる。世にいうバビロン捕囚である。しかしアッシリアがしたことは全く異なっていた。征服したイスラエルの領土に他の征服地の住民を強制移住させ、元々のイスラエルの民を四方八方に散らしたのである。なぜバベルの塔の物語が聖書に盛り込まれたのか。それはかつてこのような歴史をイスラエル民族が味わっていたからではないか、と生徒たちに話してみたのである。聖書は、その悲惨な結末をむしろ神の業の始まりとして描く。バラバラになった人類を再び一つにするために神は無名の若者アブラハムに声をかけ、イスラエル民族を成立させるからである。

 

確かに神は傲慢なバベルの人々を全地に散らした。神との約束を守らず得手勝手な判断をしたアダムを神はエデンの園から追放した。アダムと同じ過ちを繰り返し続けるイスラエルの民を神は北と南に分裂させ、アッシリアとバビロンを使って民を滅ぼさせた。人間の感覚なら、それは二度と繰り返してはならない過去であり、再発防止の為にどうすべきかを考えさせる反面教師的な役割を持つ。しかし聖書の教えはそれとはまったく違う。聖書は反省せよとか再発防止のために何かをせよ、と求めているようには私にはどうしても思えない。むしろ聖書は、そのような悲惨のどん底においてこそ神の業が始まることを証ししているのではないか。「光あれ」という神の第一声は、滅亡して復興の望みなくカオスとなったイスラエルの地に向けられていたのではないか。

 

創世記1章を念頭に起きながらヨハネ福音書の1章は書かれた、と言われる。その書き出しはこうである。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇はこれに勝たなかった」(ヨハネ11-5)。

言とはイエス・キリストのことである。イエス・キリストの内に、肉の命とは相いれない永遠の命が溢れているのであり、その命は人間を照らす光であった、とこの福音書は告げている。更には、神と共にあった言、神そのものであった言が「肉となって私たちの間に宿った」とまで宣言する。この福音書が伝えるクリスマスの出来事がそこにある。それを「教会の内に宿った」と言い換えても良いと思う。そこで今、改めて「教会」とは何かを考えてみたい。

 

「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいて他に神々があってはならない」(出20:2-)。神がモーセを通して民に与えた十戒の冒頭の言葉である。「私をおいて他に神々があってはならない」。この一言がユダヤ教徒とキリスト教徒を引き裂く根源、と言っても過言ではないかもしれない。神は唯一の神であって、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてこの主なる神だけを愛さなければならない、とユダヤ教徒は固く信じているからである。キリスト教徒は、父なる神と御子なるキリストは同じ神である、と信じている。皆さんもそうだろう。ただ、ヨーロッパのキリスト教徒はかつて、キリストを神と認めないユダヤ教徒を許すべからずと思い込んでユダヤ人を憎み、遠ざけた。その成れの果てがナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺であったと言って良いかもしれない。

かつては同胞であったロシア人とウクライナ人が分裂し、殺し合いを始めるまで引き裂かれてしまっているとするならば、ユダヤ教徒とキリスト教徒を引き裂いた分裂はそれ以上の深刻な暗闇を抱え、数えきれない程多くの人間の血を流し続け、命を奪って来た。両者の間の溝は決して埋まることはあり得ない。この問題を深く知れば知るほどそう結論づけざるを得ない。

 

しかしながら、人間が不可能だと、終わったと判断せざるを得なかったところから神の業は始まっていた。先ほど読んでいただいた聖書は、十字架にかかる時が遂に来たことを察知したイエスがその直前に、弟子たちのためにささげた祈りである。

「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」

 

彼らとは弟子たちであり、今で言えば教会に連なるクリスチャンのことである。弟子たちの中には裏切り者もいれば、神の国では自分たちを特別扱いしてくれとせがむ兄弟もいて、内輪もめは日常茶飯事だっただろう。残念ながら教会も、突然罵声と怒号が飛び交うほど脆く壊れやすい集団であり、分裂の歴史を繰り返して来た。その為に教会を去った人々は少なくないし、信仰を捨ててしまった人もいる。先週の平田さんのお話から、この教会も過去にそのような痛みがあったことを教えられたし、同じことはどの教会にも起こっている。ただ、うんざりするしかないそのようなどん底へと突き落とされても、神の業はそこから始まると聖書は言う。ユダヤ教徒が認められなくても、「肉となった言は初めは神と共にあり、言は神であった」のだと、つまりキリストを世に遣わされた父なる神と、御子なるキリストは分かちがたく一つであると聖書は宣言する。そしてキリストは、「あなたが与えて下さった栄光を、私は彼らに与えました」と。そして「天地創造の前から私を愛して、与えて下さった私の栄光を、彼らに見させてください」と祈っていた。神がキリストを愛したように、キリストも教会を愛してきた、それは神とキリストが一つであるように、教会もまた完全に一つになるためだ、と祈っている。

 

だからこそ、教会の分裂などあってはならない、と真面目な信徒は考える。「互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」との主イエスの言葉を真面目な牧師たちは引き合いに出す。しかしそれで再発を防止できるのか。そうすれば教会は二度と過ちを犯さなくなるのか。そうは思えない。それは神にしか出来ないことだからである。誰もが首うなだれざるを得ないどん底の時こそ神の業が始まることを聖書は宣言している、と信じるからである。「互いに愛し合いなさい」と命じる前に主イエスは必ずこう言われていた。「私があなたがたを愛したように」(15:12)と。これせよ、あれせよ、ではなく、私の愛を受け止めよ、と主は求めたのである。その愛は、「天地創造の前から私を愛して、与えて下さった私の栄光を、彼らに見させてください」と祈られていたように、また「私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです」とあったように神の愛、アガペーであって人間の愛ではない。我々が安っぽくまねできるものでは全くない。

 

「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。イスラエルの追い散らされた者たちを集められる主なる神の仰せ―私はさらに人々を集め、すでに集められた者たちに加えよう。」

もう一か所の聖書でイザヤは、追い散らされたイスラエルの民を一つに集め、更にはそこに、イスラエル以外の異邦の民をも加えられる神の言葉を伝えていた。この神の愛を鮮やかに示し、教会に惜しみなく降り注ぐために、初めから神と共にあった言なるキリストは十字架にかかられた。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)と言われた自らの言葉を体現された。弟子たちに主ははっきりとこうも宣言されていた。「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい」と。「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる」のだと(15:9-10)。

 

父なる神が御子を愛したように御子キリストが教会に注ぐ愛。命を捨ててまで成し遂げて下さる愛。神から溢れ出るこの愛が肉の目には見えない御子を通して、聖霊の働きによって肉の耳には聞こえない音を立てて流れて来る場所。それが教会ではないだろうか。神の愛が元々は知り得なかった者たちを出会わせ、一つに結び合わせ、主の道を歩ませて下さる。その神の業こそが教会の交わり、なのではないだろうか。我々があれもする、これもしているから主のからだなる教会になる、というわけではないだろう。

ではなぜ主は惜しみなく愛を教会に注ぎ続けるのか。「そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります」と主は祈られていた。この世を振り向かせるためである。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」神だからである(3:16)。別のところで主はこうも言われていた。「私は良い羊飼いである。(中略)私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いの中に入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない」と(10:14-16)。

 

 

教会は、自分のためにあるのではない。我々キリスト者も自分のために信じているのではない。神が世を愛しておられるからである。かつてばらばらになった人類を一つにするためにアブラハムを選ばれたように、神を知らない世の人々を振り向かせ、一つにするために神は今、値なき我々一人一人を選んでいるのである。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(15:16)と主は言われた。それは「あなたがたが行って実を結び、その実が残るように」であるとも主は言われた。実を結ぶためにあれせよ、これせよ、と主は言われない。私の愛にとどまれ、と言われたのである。それによって死んでいた我々に命が与えられ、互いに愛し合う者へと整えられ、そのように罪人を生き返らせる主の愛が必ずや世を振り向かせる。この世を神の国に造り変える。これこそが世にはなき教会の交わりであることを、共に覚えたい。