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福音を恥としない

「福音を恥としない」ハバクク214、ローマ11617

2023910日(左近深恵子)

 

 私は小学校は公立に通い、中学から高校まではキリスト教主義の学校に通いました。中学に進む時、ある期待を抱きました。キリスト教主義の学校だから、教会に行っていることを学校の友人に言い易くなるのではないか、という期待です。それまでは日曜日に何かしようと誘われる度、日曜日の、特に午前中は行けないことを説明することにややこしさを味わっていました。日曜日は教会に行くからと言えば、初めて聞く相手は大抵驚きました。珍しいものを見るようなまなざしだけでなく、怪しい人を見るような反応もありました。その後に興味本位の詮索が続くことも度々で、教会に行っていることを揶揄されることもありました。そのようなことをまた味わうのではないかという思いが、日曜日は教会に行くからと言おうとする時によぎり、躊躇を覚えました。パウロがローマの信徒への手紙で述べる「私は福音を恥としません」という言葉は、私自身が問われてきた言葉であります。

 

教会に行っていると他者に言うことは、趣味や好きなことを聞かれて答えるようにはゆきません。教会に通うことを大切にしていると他者に伝えることは、教会が伝える福音のメッセージが自分にとって大切なものなのだと表明することに等しいと言えるでしょう。福音は自分にとって、一時的な関心や、あっても無くても良いことではありません。あれば嬉しいけれど、無ければそれはそれに変わる楽しみをまた見つけられるようなものではありません。自分の生き方の本質に関わることです。だから、自分が教会に行っていることをこれまで伝えたことの無い相手に伝える時には、力を必要とします。

 

パウロはローマの教会の人々に宛てた手紙のこれから本題に入る部分で、自分がこれから述べようとする福音に対して、自分の姿勢を述べます。自分は「福音を恥としない」と。そう記さなければならない危うさがローマの人々の中にあることを知っているのでしょう。自分も同じだと。だから自分と共に「福音を恥としない」ところに立とうと、呼び掛けるのです。

 

「恥としない」という言葉は、キリスト者にとって特別な重みがあります。この時代の教会の信仰告白の文の中で、この言葉が用いられました。「恥とする」とは、人がイエス・キリストから離れることを意味しました。それは、主が人々から離れることも意味しました。マルコによる福音書の838で主が述べられていることと通じます。主イエスは8章でご自分の死と復活を初めて弟子たちに告げられます。そして「神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」と言われます。人の罪深い性質が至るところに浸食している世で、人がキリストに従おうとする時、困難や犠牲は避けがたいことを主はご存知です。しかしその困難や犠牲に勝る命をあなたがたは見出すと、だからご自分に従うことを不安に思ったり、恥じたりする必要は無いと語り掛けられます。人の心には、困難や犠牲の大きさは迫ってくるようによく見えるけれど、神さまのご意志やなさることははっきりと見ることができません。しかし人の心の目がその値を測ることのできない永遠の命に生きることを、ご自分に従うことにおいて求めなさいとキリストは呼び掛けます。このキリストの呼びかけにお応えして、教会は福音を恥としないと、信仰を言い表しました。パウロはローマの教会の人々に、自分たちもキリストから離れてしまわないようにしようと、自分と共に歩もうと呼びかけるのです。

 

キリストから離れてしまう危うさは、主に従うことを求める誰もが感じるものでありましょう。日本のようなキリスト者が少数者である社会だけでなく、キリスト教徒が大勢いる国であっても、ドラマや映画、雑誌などで信仰に生きる者の姿が揶揄されたり、不十分な理解によって批判されたりすることは少なからずあります。このような世の傾向に不安を覚えて、福音を自分の核とする生き方がぶれてしまうことも起こり得るでしょう。それは、私たちのために独り子を世に与えてくださった神さまよりも恐れるべき相手がいるのだと、独り子の命によってもたらされた救いよりも自分にとって値高いものを、神ではないものから受けることができるのだと、自分にとってその相手の方が神なのだと、してしまうことであります。「私は福音を恥としない」とのパウロの言葉は、私たちが今、十字架を背負われゴルゴタの丘へと向かってくださったキリストの背中を見つめているのか、その道に今自分自身を置いているのか、私たちに問いかけます。

 

パウロがこの言葉を述べた時代、パウロやローマの人々が感じ取っていた危うさは、非常に直接的な、具体的なものであったと思われます。パウロも、ローマの教会も、ローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国やその民は、ローマが世界だと自負していました。誰もがローマ皇帝に跪かなければならないと考えられていた時代でした。その只中で、福音は、ローマ皇帝の権威の下で死刑に処せられたイエスこそが、世を治める真の王であり、すべての人がこの方の前に跪くと告げます。パウロもフィリピの教会の人々に宛てた手紙でこのように述べています、「神はキリストを高く挙げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスのみ名によって、天上のもの、地上のもの、地下のもの全てが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神が崇められるためです」(フィリピ2910)。人は誰でも、自分や自分が属するものが、他の人や他のものに優って特別な存在だと思うことに喜びを覚えます。自分が特別とされる根拠が自分の中にあると、それが自分の命や存在の意味に確かさを与えると思いたがります。ローマの時代帝国は、ローマ皇帝こそが特別な存在であると主張しました。ローマの民には、このローマ皇帝に跪く特別な民であることに満足感を覚えるようにと、教えました。けれど福音は、皇帝の権威の下で処刑されたイエスという方こそが主であると、すべての人が膝を屈め、告白するのだと、ローマ皇帝も例外では無いのだと、告げるのです。

 

ローマ帝国が支配する前に長く世界を支配してきたギリシア人たちも、自分たちが特別であると考えてきました。自分たちとそれ以外の民を分け、自分たち以外の民を「未開の人」と呼んだほどです。このように自分たちの出自を特別視し、他の人々を見下す考え方がギリシア人だけに特別なものでは無いことを、私たちは日本の歴史や世界の歴史を振り返る時思い知り、また現在も続いているのだと認めざるを得ません。

 

パウロはこのような考え方が浸透しているギリシアの地で、福音を嘲られる経験をしました。知識に溢れ教養が豊かだと自他ともに認めるギリシア人、その中でも学問の中心地であることを自負するアテネの人々やその町に暮らす人々は、絶えず新しいことを話したり聞いたりすることだけで時を過ごしていたと使徒言行録にあります。このアテネの人々はパウロが新しい教えを携えてやってきたと思い、パウロに語るように求めます。しかし新しい知識を得たい、教養の足しとしたいとパウロの話に興味を持っただけで、福音を受け容れるつもりのない彼らはパウロに対して、「ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」とあります(使徒1732)。彼らがこのような拒絶する態度を取り始めたのは、パウロが死者の復活を語った時でありました。人の世のはかなさを悲しみ、死ぬことの無い命を情熱的に求めるギリシアの人々でありましたが、復活を死体が生き返ることとしてのみとらえ、不条理だと、愚かな話だと、軽蔑した仕方で遮ったのです。

 

パウロはギリシア人からだけでなく、自分と同じユダヤの人々からも、福音に対する反発を浴びてきました。狂信的に自分をメシアと自称し、自分たちの訴えによって処刑されたイエスが、自分たちに救いをもたらす救い主だと、神さまが預言者たちを通して告げてこられた真のメシアだと、神の子だと、この方が自分たちの罪の赦しのために十字架にお架かりになったと告げる福音は、ユダヤの民にとって躓きでした。パウロは行く先々でユダヤの民から罵倒され、時に暴力を振るわれ、投獄されました。命を賭けて福音を宣べ伝えました。誰よりもパウロ自身が、かつて福音に躓き、福音を恥とし、そのような主張は神を冒涜するものであることを思い知らせるため、主イエスをキリストと信じる人々を迫害する先頭に立っていました。そのパウロを復活の主は、福音を宣べ伝える働きの先頭に立てられました。今やパウロは、ローマ帝国の首都にいるキリスト者たちに、「私は福音を恥としない」と断言する者となっているのです。

 

パウロは、福音は力だとも述べます。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」と述べています。他の地域の教会に宛てた手紙でも、福音が力であることをパウロは幾度も述べています。コリントの教会の人々に、「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かのものですが、私たち救われる者には神の力です」(Ⅰコリ118)と述べています。更にこう述べます、「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(Ⅰコリ12325)。「私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたの信仰が人の知恵に拠らないで、神の力によるものとなるためでした」(Ⅰコリ245)。自分の中に自分の特別さの根拠を求め、知識や知恵や教養を誇る人々、あるいは自分の生物学的な血筋を誇る人々に、神の力を語ります。滅んでゆく自分の中に、滅んでゆく誰かの言葉をため込んで自分を強めようとする人々に、滅ぼすのでは無く、救いをもたらす力を語ります。それは私たちの力でも、他人の力でも無く、神の力であると。

 

福音がどんな人をも救う神の力であるのは、福音にはどんな人も救う「神の義」が示されているからだとパウロは述べます。人がそれぞれ思う正しさがあります。それぞれが主張する正しさは、その人を正当化することができたとしても、他の人には当てはめられない、そのような不完全で不確かなものであります。けれど神さまのご意志とそれによって推し進められてきたことは、全ての人を救うのだと、それを神さまはみ子の命によって成し遂げられた、これが神さまの正しさだと、福音は告げます。世の流れの趨勢や私たちの不安、不信、不満、不確かさによって私たちそれぞれの正しさが揺さぶられても、神さまの正しさは絶対であるということです。測り得ない神さまの正しさが、キリストの十字架と復活において示されています。キリストの後に従う信仰が、神さまの命に生きることをその人に得させるのだと、福音は告げます。パウロは「正しい者は信仰によって生きる」と書いてある通りだと述べます。これはハバクク書24の引用です。「主よ、いつまで助けを求めて叫べば良いのですか。あなたは耳を傾けてくださらない・・・あなたは救ってくださらない」と、神さまの救いを叫び求める預言者に神さまは、「救いは必ず来る。たとえ、遅くなっても待ち望め。それは必ず来る。遅れることはない。見よ、高慢な者を。その心は正しくない」と語り掛けられます。神さまの約束に信頼することを妨げるのは、自分が属するところの特別さや、自分の力によって自分を生かすことができるとする高慢な心です。正しい人は神さまの約束に信頼する、その信仰によって生きると、主が預言者に告げられたように、私たちも神さまがご自分の正しさによってもたらしてくださった救いに信頼する信仰によって生きることができるのだと、パウロは呼び掛けるのです。

 

自分で自分を生かそうとし、高慢になってしまうところから、信仰によって生きることへと踏み出す時、神さまがもたらしてくださる力が私たちにおいて出来事となることを私たちは知ります。キリスト教主義の中学、高校にいる間も、キリスト教とは全く関係の無い大学の間も、思いもよらない出会いを与えられ、教会に共に通う友を与えられ、牧師になる召命を受けて神学校に進む時も、周りの人々の理解と協力に支えられました。

 

 

神のみ子であり、全てを支配する真の王が、救い主を騙った者として処刑され、死者の中にまで降られた、この、ある人には躓きであり、ある人には愚かさ以外のなにものでもないと思われる福音にこそ、信じる者すべてに救いをもたらす神さまの力があることを、キリストの後に従って歩んでみると、驚きと共に知るようになります。私たちの罪に曇った心では測り知れない仕方で、思いもよらない時に、神さまはお力を示してくださいます。危うさに勝る神さまの力に力づけられて、主の後を共に歩みたいと願います。