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苦しみを受け

申命記212223、ヘブライ21418、「苦しみを受け」(使徒信条)

2023716日(左近深恵子)

 

礼拝の中で使徒信条の言葉を取り上げ、その言葉の土台となっている聖書の言葉に耳を傾けることをしています。このところは、子なる神であるキリストについて、教会は何を信じるのか述べる箇所に聞いています。キリストのご生涯については、誕生と死のことしか述べられていないということを、先週受け止めました。使徒信条のキリストの捉え方が偏っているのではありません。主イエスのご生涯を語る4つの福音書が、そのように述べていることを受けてのことです。福音書に記されていることの大半は、主イエスのご生涯の最後の数年間のことであります。とりわけ、エルサレムの都に入られ、十字架刑に処せられる、ご生涯の最後の7日間のことを伝えるために、言葉を重ねています。この聖書の語り方に倣って使徒信条も、主イエスの誕生を述べた後は一気に十字架の出来事へと飛びます。それもただ「十字架に付けられ」と述べるのではなく、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられ」と、一人の人物の名前を挙げて述べるのです。

 

使徒信条において名前が挙げられている人間は、主イエスの他にはマリアとこのポンテオ・ピラトとの二人だけです。マリアは主イエスの生涯の始まりにおいて決定的な関りを与えられ、その後も主イエスの生涯に渡って主イエスとの結びつきを与えられました。主イエスを死刑に引き渡したピラトは、主の生涯の終わりにおいて決定的な関りを与えられました。二人だけが主イエスの生涯に関わりを持ったわけではありません。誕生において関わった者、その後のお働きに関わった者、最後の7日間に関わった者、大勢の人々が主と出会っていますが、この二人は特にキリストと人との関りの在り方を象徴する人物と言えます。ピラトについて言えば、ピラトは、主イエスを十字架にかけることに関わった人の代表と言えるでしょう。

 

ピラトは、当時のユダヤ人の世界を支配していたローマ帝国によってこの地域の総督とされていた人物です。ローマ皇帝の権威を代表する総督ピラトは、ユダヤの民にとって、自分たちが暮らすこの世の最高権力者であり、この世界の最も高い地位にいる裁判官でありました。

 

ピラトの他にも、主イエスを十字架に架けることに関わった人々は、大勢いました。主イエスの弟子でありながら主イエスを裏切ったユダや、民の信仰を導く立場にあり、主イエスの言葉と業を民に先立って受け止めるべきでありながら、主イエスを殺す計画を練り続けていた民の指導者たちなどです。彼らの方がピラトよりも主イエスを十字架に架けることを強く求めていました。ピラトはイエスというこのユダヤ人に、罪は何一つ無いことを知っていました。主イエスが訴えられた背後に、策謀があることにも気づいていました。何とか死刑判決を避けようとまでしました。しかし煽動された群衆たちの反応を恐れて、結局、主イエスを一方的に断罪するユダヤ人指導者たちの証言に基づいて有罪としました。その決定の背後には、当時のその地域特有の政治的状況、その支配構造ゆえの力関係、決して安泰ではないピラトの総督としての地位といった事情がありました。このような状況の中、ピラトは主イエスが死刑に処せられることを回避する力も委ねられていながら、自分の立場を守ることを優先させ、良心に反して主を十字架刑へと引き渡しました。同様にして、社会的、政治的な状況の中で、自分なりの事情があり、主イエスに対する思惑は色々でありながら、結局主イエスを十字架の死に引き渡すことに加わってしまったすべての人が、ピラトに代表されているのです。

 

主イエスの時代の人々だけではありません。誰もが自分が置かれているその時代なりの、その地域独特な状況の中にあり、誰もがその人なりの事情を抱えています。自分の力の及ばない具体的な制約があり、自分を守るにはどうしたら良いのかと、自分の世界、自分の領域を守るにはどうしたら良いのかと、道を求めています。神さまに傍にいて欲しいという思いがあり、神さまに信頼し、神さまが遣わされた主イエスの告げられることが正しいことに信頼を置く思いがありながら、そのことと、自分が築いてきた自分の世界に、主イエスに入ってこられることとは別であるという思いがあります。まして自分の世界の主が、自分ではなく主イエスである、神さまであるということは、受け入れたくない思いがあります。そのような人々の思いが絡み合い、人はいつの時代も主イエスを退けようとしているのです。

 

主イエスはこのような一人一人のために、父なる神の救いのご計画を成し遂げるご生涯を歩み通されました。そのためにご自分の民であるユダヤの宗教的指導者たちからも、支配国の人々からも、侮辱され、退けられ、不当な裁きで処刑される苦しみをその身に担ってくださいました。自分が主でいられる自分に都合の良い世界から真の主を締め出そうとする、ピラトに象徴されるこの世の力の下に、ご自分の全てを投げ出してくださいました。そうすることで主は先ず、同じようにこの世の力に拠って追い詰められ、身体的、精神的暴力に曝され、不当な仕方でその存在も命も無くて良いものであるかのように扱われている全ての人の只中に、ご自分を置いてくださったのです。

 

使徒信条によって「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と述べる時、主のご生涯を「苦しみ」とだけ言い表すことに、どこか抵抗を覚える思いがあるかもしれません。聖書は確かにその大半を最後の数年間、とりわけ最後の7日間を述べることに用いているとしても、主のご生涯にあったのは苦しみだけではなかったはずだという思いがあるかもしれません。弟子たちや、他の人々との食事の時を楽しまれた主イエス、子どもたちもご自分の傍へと来させて、その腕に幼子を抱いてくださった主イエス、友の死に涙を流された主イエスなど、私たちが大切に受け止めている主イエスの姿があります。そのようなお姿も示してくださった主イエスの方が、親しみが持てる、後に従いたくなる、私たちのために苦しまれたと述べるだけでは辛すぎる、そのように思うかもしれません。

 

けれど、主が私たちに与えてくださった恵みは、十字架にまで至る苦しみをお受けになること無くして成し遂げられなかったのです。十字架に至る途上で示してくださった喜びや悲しみは、十字架と復活の光に照らされて新たにその意味を示します。主が示してくださった喜びや悲しみはやがて消えゆく一時の感情ではないのだと。主イエスが苦しみの末に実現してくださった恵みによって、喜びは私たちの真の喜びを示すものとなりました。悲しみは慰めの中で悲しむことのできる悲しみとなったのです。

 

主イエスの苦しみは、苦しみと死で終わるものではありません。苦しみ、死んでくださったからこそ、私たちに助けを与えることができます。十字架は、世の支配者による裁きであるだけでなく、神さまのご計画による救いの出来事でありました。

 

ヘブライ書214は、主イエスが私たちと同じように血と肉を持つ方となってくださったと、つまりいつか朽ちて行く肉体において生きる人間になってくださったと述べます。人間が味わう苦しみを十字架の死に至るまで余すところなく苦しまれました。人間が味わう苦しみは、主も受けてくださった苦しみとなりました。人となられ、しかしまた永久に神のみ子である方がすべての苦しみを味わってくださったのです。いつの時代に命を与えられた者であっても、世の力に、他者の罪に、不当な仕方で苦しめられる苦しみは、主イエスが共に受けてくださる苦しみであります。苦難の中に置かれ続けると、他者が自分に向けてくれる思いや言葉を受け入れることも難しくなる時があります。自分が今味わっている苦しみを本当に理解することなど誰にもできないと、私たちは心を閉ざそうとします。けれど主が、苦しみの底で疲れ果てている私たちのところにまで降ってくださり、私たちの苦しみを共にしてくださることを知るのです。

 

主イエスが私たちと同じように血と肉を持つ方となってくださったのは、私たちを死の力から助けるためであると、ヘブライ書は主の助けが苦しみに喘ぐ私たちの視野を超えた大きなものであることを教えてくれます。死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放するために、主は苦しみを受けられました。私たちが認識している時も、目を背けている時も、私たちが味わう苦しみの背後にあるのは死の力です。死は、私たちに不安や恐れ、虚しさや諦めを抱かせるものの源にあります。主がそのために苦しんでくださったのは、人が本来必然的に迎える、自然に行き着くものとしての死ではありません。神さまに背かせる力に囚われ、神さまに背を向けたままの部分を抱えながら、押し流されるように死に至ってしまう死です。自分や自分の大切な人が歩んできた道のこの先は、神さまから離れたままの死、神さまに背いたままの死によって扉が閉ざされてしまうのだという絶望感から解放するために、生きているこの日々が既にそのような諦めによって侵食されてゆくことから救い出すために、主は苦しみを受けてくださったのです。

 

主はポンテオ・ピラトのもとで十字架に架けられましたが、そこで為されたのは世の支配者による裁きである以上に、神さまの裁きでありました。神のみ子イエスを裁く権威など全くなく、その裁きも不当なものであったこの世の裁きの下で、主イエスが裁かれることによって、真の審判者である神さまの裁きがなされました。罪の無い方が、私たちの代わりに裁かれるために、世の力による不当な裁きに服してくださいました。全てをご存知である神さまは、真に公正な裁きをなさいます。その神さまのみ前で有罪とならない人間は誰もいません。私たちは皆、その罪を問われます。その私たちが神さまのみ前に無罪とされるために、主イエスは私たちの罪の値をご自分の命によって私たちの代わりに払ってくださいました。ピラトという世の支配者の裁きから逃れることなど容易かったであろう主イエスが、世の支配者の裁きに服してくださったのは、ご自分の命を持ってしなければ代わりに私たちの罪の値を払うことができないことをご存知であったからです。私たちの罪に対する神さまの怒りをその身に負うために、私たちの誰1人として耐えることのできない、神さまに自分の罪を裁かれる苦しみを、主イエスは受けてくださいました。その上私たちが向き合いきれない私たちの罪の裁きをその身に負うために、私たちと同じ血と肉を持つ者となられ、私たちの罪の結果としての死を、ご自分の死によって滅ぼしてくださいました。だから私たちを苦しみの底から救い上げることができるのです。

 

私たちは、苦しんでいる誰かを救いたいと願っても、そのためにできる限り時間を捻出し、傍らに寄り添い、その苦しみのいくらかを共に味わうことができたとしても、その人を本当に救うことはできません。神さまから離れたままの死を死んでいくことから、自分を救い出すことのできない私たちは、その人を救い出すことはできません。それでも私たちは、救い出すことのできる方に祈ることができます。ヘブライ書218が述べるように、主イエスは「ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできにな」ります。救い主に大切な人のことを祈り、委ねることができるのです。

 

この方をヘブライ書は神の憐れみ深い大祭司とも呼びます。人間の大祭司は、あらゆる動物の中から選び抜いた犠牲の動物の血を流すことで、自分自身の罪をも含めた罪の赦しを神さまに求めます。しかし神であり、血と肉を持つ全き人間となってくださりながら、この世の裁きを受ける必要の全くない罪無き方である主ご自身が犠牲となられ、血を流してくださいました。神の憐れみ深い大祭司である主イエスは、人々の罪に対する神さまの裁きを代わりに受け、ご自分の命によって私たちの救いの道を切り開いてくださいました。こうして主によって救い出された私たちは、神さまがご自分の民の基とされたアブラハムに信仰によってつながる者とされます。ユダヤ人でなくても、互いに生物学的な血縁関係に無くても、ここで「アブラハムの子孫」と呼ばれているすべてのキリスト者たちは、主によって、互いに神の家族とされているのです。

 

キリストの苦しみを新約聖書の他の箇所では、「私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い」出すためのものであったと言い表しています(ガラテヤ3 :13)。呪われているという言葉に戸惑いを覚えるかもしれませんが、神さまとの関係が断たれてしまうこと、神さまとの交わりの中にいないこと、神さまの祝福の外に出てしまっていることであります。ガラテヤ書のこの記述は、旧約聖書に記されている裁きとの関連で受け止めることができます。申命記21章の22節以下に、「木にかけられた者は、神に呪われた者だからである」とあります。死刑に当たる罪を犯して処刑され、その遺体が見せしめとして木にかけられた死体は、神に呪われたものとされており、その死体を翌日まで放置しておくことは、神さまが嗣業の血として与えてくださった土地を汚すことになると、だからその日の内に埋葬しなければならないと定められています。その日の内にとは、ユダヤの暦では日没までに、ということです。

 

十字架という木にかけられて殺される死は、最も残酷な処刑法による死であるだけでなく、神さまの呪いの象徴でありました。神さまに背を向けているところを抱え続け、神さまとの結びつきから離れ出て、神さまの祝福の外へと出てしまう私たちが受けるはずであった、呪いの死を死ぬ苦しみを、主が引き受けてくださいました。それは、主の遺体が日没までに急いで埋葬されたことにも現れています。

 

 

私たちの代わりに苦しみをその身に引き受けてくださったキリストの十字架のもとに、私たちが心から安らぐことのできる憩いの場があります。十字架の主を見つめ、この方こそ私たちの救い主と仰ぐ者にとって、神さまの呪いはもはやありません。神のみ子が代わりに一切の呪いを受けてくださり、その上助けを与えてくださっています。罪が生み出す悲惨と亀裂、罪が絡み合って増す世のうねりの中に、十字架を打ち立ててくださったキリストは、キリストを信じて生きる中で私たちが味わう試練を共に苦しんでくださり、そこから救い出してくださるのです。