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光は闇の中でも

2023.6.25.

民数記13:30-33、ルカ15:1-7 「光は闇の中でも」 浅原一泰

  

カレブは民を静め、モーセに向かって「私たちはぜひとも上って行くべきです。そこを手に入れましょう。私たちには必ずできます」と言った。だが、彼と一緒に上って行った者たちは「いや、あの民に向かって上ることなどできません。彼らは私たちよりも強いからです」と言い、偵察した地について、イスラエルの人々の間に悪い噂を広めて言った。「私たちが偵察のために行き巡った地は、そこに住もうとする者を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民は皆、巨人だった。私たちはそこでネフィリムを見た。アナク人はネフィリム出身なのだ。私たちの目には自分がばったのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」

 

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている」と文句を言った。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し歩かないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」

 

 

ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に、有名なミケランジェロの最後の審判が描かれている。ご覧になったことのある方もおられるだろう。私は実物は見たことはないが、今まで写真で何度も目にしてきた。聖書によれば、時間というものはただ漫然と流れて行くものではない。なぜなら神が歴史を始められたからだ。神が歴史を始められる前は、本能のままに、自分の欲求を満たすためならば他者を踏みにじることも厭わない生き方しかできなかった人間たちがうごめく闇と混沌の世界が広がっていた。しかし神は、「光あれ」という言葉によって天地万物すべてのものを新たに創造し、最後には、神の似姿として、神の愛に生かされる新しい人間を造ることによってそれまでとは違う世界を、闇ではなく光に照らされた世界、神の栄光が輝く世界の歴史を始められる。創世記1章は、闇の世を見捨てることなく新たに造り直される神の御業が始まったことを伝えている。しかし、共にその歴史を築き上げていくパートナーとして神がご自分の姿形に似せて造られた人間は、その直後に罪に屈してしまう。そのために人間は神を忘れて再び本能に走り、欲に溺れ、自然を破壊し、他の生き物たちの生命を奪い、人間同士が憎み合い、自分が生き残るためには敵を滅ぼすのもやぶさかではないと暴力に走り、戦争という名の殺し合いを繰り返している。

歴史という時の流れは、聖書によるならば、神が始めた歴史を人間が踏みにじり、闇と混沌へと引き戻そうと飽くことなく試み続けるこの世界を、神だけは決して見捨てず、見放さず、諦めずに光に満ち溢れる世界へ、本能と憎しみと敵意が渦巻く闇の世界から誰もが神を褒めたたえ、隣人を自分のように愛して止まない愛に溢れる神の国へと生まれ変わらせようとする、終わりなき神の働きかけが繰り広げられる舞台である。人間を神の姿形に似せて造っても上手く行かなかったのなら、自らが人間の姿形を取ることを神は決意する。具体的には二千年前、イエスという人間としてこの世に来られ、神に背き隣人を憎むことしか出来ない者すべての身代わりとなって十字架にかかった。神によって死からよみがえったイエスは信じた者の救い主、キリストとなった。復活のキリストは聖霊の働きを通して、闇に生きることしか出来なかった者たちを光の世界へと生まれ変わらせようと、そうしていつの日か全ての者を生まれ変わらせて神の国を完成させようと休むことなく働きかけておられる。それが今現在という時であると聖書は言う。しかしその時には必ず終わりが来る。復活したキリストは再びこの世にやって来られ、神の愛に生かされて生きる者たちを救いへと招き寄せ、隣人を憎み欲望のままに生きることしか出来ない闇の人間たちは滅びへと追いやって、完全なる神の国を完成される。再びやって来られるキリストによって最後に行われるその審判。それがミケランジェロの作品が描こうとしたものである。

 

作品の上の部分には光を浴びて、喜びと希望に満ち溢れた表情の者たちがいる一方で、その遥か下には、闇に覆われ憎しみと恨みと苦悶の表情しか浮かべられない者たちが描かれている。救いと滅び。光と闇。さて、皆さんは自分がどちらに属する、とお考えだろうか。神の憐れみと慈しみのおかげで、キリストの身代わりの十字架の血潮のおかげで、自分は光の世界にいる、と思われるだろうか。しかしそう思われる前に少し、立ち止まってよく考えていただきたい。神がそう言われたのだろうか。それは本当に神がその人に与えている答えだろうか。その人がキリストの十字架を持ち出すことによって自分で自分を慰め、自分で自分に赦しを与えているだけ、という可能性はないであろうか。

あの絵を描いたミケランジェロ自身はどう思っていただろう。実はあの作品の中に、ミケランジェロは自分自身を登場させている。光の子としてではない。キリストの弟子バルトロマイに握られた中身がなく生気を感じられない人間の生皮として、彼は自分自身を描いている。「先生、こいつはどうしましょうか」とバルトロマイは再臨のキリストを見つめて尋ねている。紛れもなくミケランジェロは、自分は光の子に値しない、闇へと堕落することしか出来ない人間だと、潔く認めていたのではないだろうか。

 

山上の説教という有名な教えの中でキリストは、「思い煩うな」とも言われた。そのためにも「刈り入れもせず、倉に収めもしない空の鳥を見るがよい」、また「働きもせず紡ぎもしない野の花を見るが良い」と。「そんな鳥をも神は養って下さり、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、栄華を極めてソロモンよりも神は美しく装って下さるのだから、あなたがたには尚更ではないか。だから思い煩うな」と。この教えもクリスチャンであるなら知らない方はいないであろう。しかし聞きたい。自分の命のことで思い煩わない、などということが出来るだろうか。空の鳥や野の花を見本にしようなどと、あなたは簡単に口に出せるだろうか。明日のことは思い煩わずに、ただ神の国と神の義だけを求めることなど果たしてどこの誰に出来るだろうか。コロナ禍の三年余り、神の国と神の義だけを求めて生き抜いた人間がいただろうか。銃声と爆弾の破裂音に脅かされ続けるしかないウクライナなどの戦場において、相手を倒して身を守ることを考えずに神の国と神の義だけを求める兵士が果たしていただろうか。死なないで済むように思い悩み、食べること、飲むこと、着ることにうつつを抜かし神などはるか遠くに忘れ去ってしまう。それが我々人間の偽らざる現実の生の姿なのではないだろうか。480年前、そのことに既に気づいて思い悩んだ末にミケランジェロは自分を生皮としか描けなかったのではないかと思う。

 

思い煩い。それは生きることへの不安でもある。不安を感じることのない人間など存在しないだろう。不安がないように、不安を見せないように自分を大きな人間として取り繕う人はいる。その一方で、不安に押しつぶされて恐怖の余り何もすることが出来ずにただ蹲ることしか出来ない人もいる。その両極端の中に私も皆さんも、全ての人間が挟まれているように思う。若い人は将来への不安、それなりの年齢に達している人は健康への不安、老後への不安、死に対する不安を感じている。世代を問わず、多くの人は金銭への不安を抱いている。先ほどは旧約民数記から、約束の地カナンにモーセが十二人の偵察を送る場面を読んでいただいた。偵察から戻って来た十二人の内、カレブとヨシュアという二人を除いては皆が、「あの地は恐ろしい、暴虐で残酷な人間たちがうごめいている。彼らは巨人だ。それに比べたら我々などバッタに過ぎない」としきりに悪い噂を流し、それが瞬く間に広まった。不安に縛られ、前に進めなくなり、もはや神から選ばれた民としての役割を果たせなくなっているイスラエルの民の姿がそこにある。誰が彼らのことを笑えよう。私は違う、などと誰が言えよう。不安のない人間など一人もいない。イエスの十二人の弟子とて同じであった。将来への不安があったからこそヤコブとヨハネは、我々をあなたの横に就かせて下さいとイエスに頼み込み、不安の余りにペトロはイエスを三度も否み、ユダはイエスを裏切った。教会につながっている我々とて同じであろう。たとえば会堂建築にあたって、ただ神の国と神の義を追い求めていればいい、思い煩わなくていい、などと皆さんは思えただろうか。神の似姿として造られたはずなのに、である。そもそもアダムとエバが神に背いたのも、死への不安を掻き消したかったからではなかったか。その末裔である我々も、自分の欲求を満たすためなら神に背くことも厭わない生き方しかできない闇の世界にいることを認めなければならないように思う。

 

しかし、だからこそ神が人間の姿かたちを取ってこの世に来られた。イエスという人間の姿形を取られた神は、そういう我々をどこまでも探し求め、追い求めておられるのだと。先ほど読まれたもう一か所の聖書ルカ15章はそのことを伝えている。不安に苛まれ、思い悩み続けてありもしない妄想に溺れてしまう、そういうことしか出来ない人間だからこそイエス・キリストは、不安から解放された99人を荒れ野に残してでも、不安に悩まされ続ける最後の一匹を見つけ出そうと、その一匹を真の自由へと解き放つまで捜し歩き続けるのであると。「光あれ」と言われた神の第一声はイエス・キリストとなって、闇の世界の中でも決して消えることなく輝き続けるのである。その時、イエスのもとに来ていたのは、社会から除け者にされていた徴税人や罪人であった。それを見たファリサイ派と律法学者が文句を言う。さて、不安に駆られていたのはどちらであろうか。ファリサイ派である。神に義と認められているのは自分たちの筈なのに、神であるイエスが徴税人と組んでしまったら、自分たちの正しさが揺らいでしまうではないか。不安に駆られて彼らは神であるイエスを非難し、徴税人たちを見下し、深い闇へと益々沈んでいた。しかし「そういうあなたこそが見失った羊なのだ」とイエスが告げた時、ファリサイ派や律法学者たちの心に、不安とは異なる「神への畏れ」が芽生え始めてはいなかっただろうか。

 

悪魔は人間を不安へ、闇へと突き落とす。そのように目論み続ける。不安へと突き落とされた人間は自分だけそうなるのはたまったものではないと、周りの誰かをも巻き込んで道連れにする。そうして皆が闇へと沈んでいく現実の世の中で、人間を不安から解放できるのは、思い煩いから解き放てるのは神しかいない。そのために神自ら人となり真の羊飼いとして世に来られたイエス・キリストしかいない。そしてイエスは見失った一匹を捜し求め続けている。神の国を完成させるために、一人も欠けることなく、滅びへと投げ出さないためにこれまでも今もこれからも、休むことなく追い求め続けている。

 

礼拝が終わってしまえば、教会から一歩外へ出れば、我々自身も「この先はどうなってしまうのだろう」と、新たな不安を感じ始めるのではないだろうか。迷い始めるのではないだろうか。人間は迷うことしか出来ない。迷った者は、「自分だけではいやだ」と道連れを増やすことしか出来ない。不安は新たなる不安を次々に発生させる。不安に縛られている間は、決して「神への畏れ」は芽生えない。不安にがんじがらめに縛られているその束縛から解き放たれて初めて、人は神への畏れを抱くのではないか。不安、思い煩いから解き放たれてこそ本当の人間らしさを、あるべき姿形である「神の似姿」を、取り戻せるのではないか。だからこそ、単に「あなたは救われている」とぬか喜びさせるためなんかではなく、「あなたは罪人だ」と裁くためでもなく、まことの「神への畏れ」を我々の心に呼び起こすために今、神は私たちと同じ人間の姿かたちを取ってまでして、私たちの為に十字架の死を受け入れてまでして、死から復活したキリストとなって神は今、私たちをこの礼拝へと集めて下さっているのではないか。神の国は、99人が神への畏れを抱いていれば残りの一人は切り捨てるようなこの世とは違う。たった一人でも、残された最後の一人が神への畏れを抱くまで、神の国は完成しない。だからこそ見つかった時の喜びは大きいのだと先ほどの聖書は伝えていた。神の国が完成するまで、キリストによって闇の世にもたらされた神の光は決して消えることはない。むしろ、教会というキリストの体において、復活のキリストがおられるところにおいて光は輝き続けている。神の国は始まっている。神の国の完成を目指して教会を成長させ続けるその終わりなきキリストの働きの中に、神の御業の中に、我々は振り向かされ、招き入れられ、生かされている。そのことを今、心の奥深くまで神によって刻み込まれたい。