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イエスの立つ岸辺

2023.5.21.主日礼拝

エゼキエル47:8-10、ヨハネ21:1-

「イエスが立つ岸辺」浅原一泰

 

彼は私に言った。「これらの水は、東の地域に流れ出て、アラバに下り、海、すなわち汚れた水の海に入る。するとその水は癒やされる。川が流れて行く所はどこでも、そこに群がるすべての生き物は生き、魚が非常に多くなる。この水が入ると、そこの水が癒やされ、この川が流れる所では、すべてのものが生きるからである。漁師たちがそのほとりに立ち、エン・ゲディからエン・エグライムまで、引き網を広げる所となる。そこの魚は大海の魚のように種類が増え、非常に多くなる。

 

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「私は漁に出る」と言うと、彼らは「私たちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何も取れなかった。すでに夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と言われると、彼らは、「捕れません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

 

 

アウシュヴィッツ収容所の生き残りであるエリ・ヴィーゼルが『夜』というタイトルのドキュメンタリー小説を書いている。現実にアウシュビッツを目で見て、肌で感じた彼の文章は息詰まらされるものがある。収容所に入るや否やガス室送りになる者とそうでない者とが選別されていく。貨物列車の荷台に積み上げられたユダヤ人の幼子たちがそのまま炎が燃え盛る穴の中に投げ落とされていく。収容所からの脱出を図ったユダヤ人が捕えられると、囚人たちは全員集合させられ、彼らの目の前で絞首刑が執行され、その囚人の死に顔を囚人たち全員が班ごとに行進しながら直視しなければならない。ドイツの敗色が濃くなると、攻め寄せるロシア軍から遠ざかるために囚人たちは極寒の中、別の収容所へと強制移動させられる。のろのろ歩くことは許されず走らされる。体力の限界を迎えて蹲る者、立ち上がれなくなった者、病気で倒れた者は即座に銃殺されてしまう。これが人間にすることなのか、と目を疑うような場面がまだまだ続くのだがこの辺でやめておきたい。

 

なぜ『夜』と言うタイトルなのか。著者のエリ・ヴィーゼルは、ホロコーストという『夜』から人間はどうすれば立ち上がれるのかを問いかけ続けているからだ、と書評か何かに書かれていた。「地は混沌として闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」神が天地創造の業を始められる前の風景である。そこで神は第一声を挙げられる。「光あれ。」そして「神は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」と創世記は伝えている。これが聖書で言う「夜」の由来である。聖書のいう闇が深淵の面にある状態である「夜」。神なき世界が広がるのが「夜」。そうであるならば、今サミットが開かれている広島も長崎も78年前、原爆が落とされた瞬間にすべては闇となり「夜」となった。そして未だに夜が続いている。そうではないだろうか。昨年二月からのウクライナも、大地震に見舞われたトルコ・シリアも、また内戦のために多くの人命が危機に曝されているスーダンでも「夜」が続いている。コロナ禍の三年間もある意味そうであったかもしれない。そこで必死に人命救助の為に身をささげている方々や医療従事者たちには本当に頭の下がる思いであるが、そのような人たちは限られている。むしろ口に出さないだけで本音では自分がそこにいなくて良かった、と多くの人間は考えてしまってはいないだろうか。被爆地広島で歴史上初のサミットが開かれたと言っても、それで世界から本当に核がなくなる、と単純に考える人間が一体どれだけいるというのだろうか。それは「夜」が続いているからなのだと。光がないからあなたがたはそう考えるのだと聖書は告げているとしたら、「ホロコーストという『夜』から人間はどうすれば立ち上がれるのか」というあの問いは、ユダヤ人だけではなく私たち自身にも向けられているように思う。

 

「光に逆らう者たちがいる。彼らは光の道を知らず、その道にとどまらない。人殺しは夜明け前に起き、苦しむ人と貧しい人を殺し、夜には盗人になる。姦淫する者の目は夕暮れを待ち、『誰の目も私を見ていない』と言って顔を覆う。暗闇の中で家々に忍び込み、昼は閉じこもって、光を知らない。彼らにとって朝は死の陰に等しい。死の陰の恐怖を彼らはよく知っているからだ。」(ヨブ24:13-17)

ヨブ記24章に出て来る光なき世界の人間たちの姿である。まさしくそれも混沌とした闇の世界であり、そこから抜け出そうとしても抜け出せず、世界を変えようとしても変えられないで苦しんでいる人間たちに向けても、否、そのような者たちに向けてこそ神は「光あれ」と言われていたのかもしれない。

 

先ほどのヨハネ21章にペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、そしてあと二人の弟子たちが登場していた。ペトロが「私は漁に出る」というと、他の者たちも「一緒に行こう」と声を合わせ、彼らは同じ舟に乗り込んで漁に出る。しかしながら、「その夜は」彼らは何も取れないまま戻って来る。それは「夜」の出来事であった、と書かれていた。

因みにイスカリオテのユダがイエスを裏切る行為に踏み出す場面が、この福音書では13:21以下に描かれている。イエスと弟子たちが食事の席に着いていた時、すべてを見抜いているイエスがパン切れをユダに渡し、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と告げるとサタンがユダの中に入り、彼はその場を去って行く。13:30にはその時が「夜であった」と明記されている。ユダの裏切りには色々な背景、理由が考えられて来たが、イエスのしようとしていることが非現実的であり(この世的な意味で、であるが)、イエスの言うままに従っていたら自分の身を守れなくなってしまう、という極度の不安にユダが圧し潰されそうになっていたから、ということは言えるかと思う。しかしイエスは、13章の弟子たちの足を洗う場面でユダの足をも既に洗っていたことを覚えておきたい。ユダが裏切りへと走ったのも、人間がわが身可愛さに神から遠ざかろうとする「夜」に起きたことだった。ユダだけではない。全ての人間が同じであることをイエスは見抜いており、生前にこう明言していた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(12:35-36)。この主の言葉を我々クリスチャンは信じたい。しかしその一方で、信じきれない自分がいることを多くの方が感じておられるのではないだろうか。それも「夜」だからかもしれない。闇に覆われているからかもしれない。だからこそ今もなお神はあの言葉を語り続けておられるのではないか。「光あれ」と。

 

その神はイエスという人間の姿形を取って世に来られ、既に十字架の上で息を引き取られている。但しその方は、目には見えなくとも死から復活してマグダラのマリアに、そしてペトロやトマスと言った弟子たちにご自分を現された。そして先ほどのヨハネ21章では、その方は夜が明けた頃、ある岸辺に立って弟子たちに問いかけていた。「子たちよ、おかずになる物は何か取れたか」と。弟子たちは誰もそれが復活の主イエスとは気づいていない。あたかもそれは、毎週のように教会に来ていながら、目には見えなくともそこに確かにおられるイエスに気づかないまま現実の生活へと戻っていく我々のようでもある。この時、弟子たちは諦めとため息まじりに「何も捕れません」と答えたのだろう。すると主は彼らにこう語りかけられたという。「舟の右側に網を打て。そうすれば捕れるはずだ」。そう言われても弟子たちは、どうせ捕れないに決まっている、と思っていたと思う。しかし弟子たちがその通りにすると、捕れた魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかったと言う。

 

湖に浮かぶこの舟を教会と考えてみていただきたい。教会は主のからだである。教会のかしらは主イエス・キリストである。この舟がキリストのからだだとしたら、その舟の右側とはどこにあたるだろうか。人のからだにはやや左側に心臓があるが、右側とはどこを指しているのだろうか。それは「脇腹」ではないだろうか。19:34を見てもらいたい。そこにこう書かれていた。「兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」。お分かりいただけるだろうか。この血は聖餐の杯である。聖餐とは、教会のために十字架の死を遂げる直前にイエスが定められた、イエスの命に与らせるためにイエスが備えた食卓のことである。それは教会を教会たらしめるものであるが、イエスを我が主と告白した信者でなければ与れない。では水とは何か。4章でイエスを知らず、本当の神とも出会っていないサマリアの女とイエスが語り合う有名な場面があるが、彼女にイエスはこう言われていた。「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」のだと。7:37以下では、祭りに来ていた大勢の人々に向かってイエスは告げていた。「渇いている人はだれでも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる」のだと。イエスが与える水、永遠の命に至る水、生ける水。それは目に見えない神の働きかけであり、神の力であり、神が復活の主イエスを通して、信者であろうと未信者であろうと分け隔てなくすべての人に降り注がれる聖霊のことである。先ほど読まれたもう一か所の旧約聖書では、その川が流れるところではすべてのものが生き返り、魚も非常に多くなる、と預言者エゼキエルも告げていた。エゼキエルもまだ見ぬ主の神殿を幻として仰ぎ、その神殿の奥底から、キリストの体内からと言っても良いのかもしれないがそこから流れて来る水が汚れた水を、混沌たる世界を、闇に覆われ夜が続いているこの世を清め、魚を生き返らせることを預言していたのである。

 

改めで振り返ってみたい。弟子たちだけで漁に出かけても魚が捕れなかった海。それはこの世を指している。生ける水を知らず永遠の命も知らない世俗の世界であり、神が「光あれ」と語りかけられる以前の、まさに闇に覆われた「夜」の世界であり、人間の罪によって水が汚れてしまっている海を指している。その海に向かって人間の力だけで教会と言う舟を漕ぎ出しても何も捕れない。いくら工夫を凝らしても無駄であろう。しかし思い出して欲しい。教会という舟は、復活の主イエスなしには漕ぎ出せないし存在し得ない。見た目にはこの世にあるかもしれないが、見えないところで教会は頭なるキリストのからだとして、神の国のしるしとして神が建てられたものだ。そして、弟子たちも初めは気づいていなかったし、我々も気づいていないのだが、主の日毎にその舟は必ず夜が明けてから、復活の主が立っておられる岸辺から漕ぎ出されるのである。主のおられる岸辺とはこの世ではなく神の国である。つまり教会は、神の国からこの世に向かって主の日ごとに漕ぎ出される舟なのではないだろうか。人間の言葉ではない。人間の業でもない。復活の主の言葉が、聖霊という神の力が水をきれいにし、魚を生き返らせ、すべてのものを生き返らせるのである。我々はただ恵みによってこれまでも、そして今この時も、その舟の中に引き上げられている。そして神は舟の中から闇に包まれた夜のままのこの世に向かって今日も告げられている。「光あれ」と。そして既に舟に引き上げられた我々に主は告げておられる。「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。教会を通して主は「光あれ」との声を発せられ、クリスチャンであろうとノンクリスチャンであろうと分け隔てなく世の全ての人々にこう叫んでおられるに違いない。「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」。

 

 

「ホロコーストという『夜』から人間はどうすれば立ち上がれるのか」。あの問いは、夜が明けた神の国の岸辺に立っておられる復活の主によってこそ立ち上がらされる、そのことに我々の目を開かせるためにあるように思う。闇の中で輝き続ける復活の主の光を信じ、この方の言葉によって新たなる命を与えられて、世に向かって今週も主に導かれつつ歩み出す者でありたい。