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主は生きておられる

「主は生きておられる」ルカ24112

202349日(イースター礼拝、左近深恵子)

 

日曜日の朝、婦人たちは主イエスの元に向かっていました。この人々は主イエスがガリラヤで福音を宣べ伝えておられた頃から主イエスに従ってきた弟子たちでした。主イエスの十字架の死の後直ぐに安息日に入り、外出を控えなければならなかった婦人たちは、安息日が明け、朝が訪れると直ぐに家を出ました。この人々が向かったのはお墓です。手にしているのは遺体に施す香料です。主イエスの元に向かおうとしていますが、向かう先はお墓であり、お墓の中に横たえられているはずの主イエスの遺体です。この婦人たちにとって主イエスはもはや主の体であります。この婦人たちが主イエスの元に向かう理由は、主を更に丁寧に葬るためです。

 

婦人たちにとって、主イエスは死んでしまわれた方でありました。死んでしまわれて、自分たちが再びそのもとへと向かうことが出来るようになった方。もう生きてはおられないけれど、自分たちの手が届く所に帰ってこられた方、そのような思いで墓に向かったのではないでしょうか。

 

主が逮捕されてから、主は婦人たちには太刀打ちできない大きな力に覆われてしまいました。弟子の一人の裏切りによってユダヤの指導者たちに引き渡され、夜通し取り調べや裁判のために引き回され、ことはどんどん死刑に向かって進んでゆく、その流れを止める力など、ユダヤの議員でもローマの総督でも無いこの婦人たちにあるはずがありません。婦人たちは胸が潰れるような思いで、ただ見つめるだけであったでしょう。支配国ローマの総督と、被支配国のユダヤの民や指導者、本来対立しているはずの両者が、責任は相手に擦り付け合いながら、主イエスを十字架で殺すことにおいては一つの流れとなってゆき、突き進んでゆく様は、どんなに恐ろしいものだったでしょう。

 

けれど婦人たちは、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないいのです」と、ご自分を見捨て、苦しめ、殺そうとしている人々のために祈られた言葉を、また、並んで十字架にかけられた犯罪人の一人に、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、罪の赦しと祝福を約束された言葉を聞いたことでしょう。最後の瞬間には、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言われ、ご自分の息も命も、霊も力も、すべて父なる神に委ねて、息を引き取られたその姿を見つめ、「本当に、この人は正しい人だった」と語った百人隊長の言葉を胸に深く刻んだことでしょう。主イエスは、主イエスに対して「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と侮辱した人々が言うような、“口ほどにも無い、無力な、自分を救うことができなかった者”ではなく、本当に神さまのみ心に適う、正しい人だったのだと、知ることができたことでしょう。真に正しい方の死を深く嘆きながら安息日の間過ごしたことでしょう。三日目が来て、安息日が明けても、婦人たちにとって主イエスは、正しい素晴らしい方であり、死んでしまわれた死者のままであります。だから死者の中に主イエスを探しに出かけたのです。

 

主イエスが十字架の上で苦しんでおられる姿を、どうすることもできず見つめて来た婦人たちは、嘆き悲しみながらも、どこかホッとしていたかもしれません。もう主イエスが苦しまなくて良いことに、そして強大な力に引き渡されてしまった主イエスが、自分たちの手の届くところに戻ってこられたことに。もう逮捕も裁判も処刑もありません。もう主イエスが自分たちの傍から奪い去られることはありません。逮捕以降、主イエスが受けられた残酷な苦しみはあまりに重たく、その中で僅かな言葉以外ほとんど沈黙を貫かれた主イエスのみ心は捉えがたく、その時全地を闇が覆い、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた主イエスの死はあまりに大きな出来事で、他の弟子たちがそうであったように、婦人たちにも受け止めきれないことの連続であったでしょう。ただ、主が死んでしまわれたことだけはよく分かったのでしょう。これまで自分たちが体験してきた身近な人々との死別と並べるように、主の死の出来事と向き合おうとしました。安息日が明けるのを待って、主イエスの遺体を丁寧に葬ることで、主イエスとの別れに何とか折り合いをつける道を見いだそうとしました。主イエスの死を、一人の人間の死としてのみ捉え、主の死を自分たちの理解が及ぶ中へと、自分たちの手の内へと引き寄せてしまっている。この先もそのように主を思ってゆこうとしています。真に正しい特別な方ではあったけれど、もはや生きてはおられない、あくまでも一人の人間としてのみ、主を慕ってゆこうとしています。

 

人の思いだけでは、主を知ることに限界があります。婦人たちはお墓に辿り着きますが、そこで途方に暮れてしまいます。「途方に暮れる」と訳されている言葉には、「道や手段を失う」という意味があります。それまで継続して辿って来た道や手段が途絶えてしまい、その先を確認することができない状態です。自分たちの思う主を求めてお墓まで来た婦人たちは、主を見つけられず、自分たちの道も手段も見失い、お墓の中から外に出ることもできなくなってしまうほど、途方に暮れたのです。

 

主イエスが生きておられた名残によって、主イエスとの死別の衝撃に何とか耐えようとした、しかしその名残も失い、途方に暮れる婦人たちは、死の力に直面した人間の姿を露わにしています。誰にもやがては死の時が訪れます。完全な人生を生き切って、死んでいくことなど誰にもできません。私たちの罪は周りの人々との関係を行動においても心の内においても歪め、結果として誰かを悲しませ、苦しませ、そのことを償うこともできず、気づくことすら無く、自分の人生を完成させることができないまま、死の時が訪れます。死の現実を思えば、死は死の時に訪れるだけでなく、生きている日々にも影を落としていることを認めないわけにはいきません。日々の歩みに、時にうっすらと、時に圧倒的な現実として立ちはだかる死と、私たちの思いだけで折り合いをつけようとしても、道も手段も失い、途方に暮れてしまう私たちです。

 

主イエスは三日の間、人の死を、完全に死に通してくださいました。そして復活されました。途方に暮れている婦人たちに、輝く衣を着た二人の人、天使は、主はもう死者の中におられないことを告げます。「人の子は必ず、罪びとの手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と主イエスが言われたではないかと。これは主が既に言われていたことです。死からの復活も、主が死なれたことも、その死を苦しみの極みの中で死んでゆかれたことも、主が既に弟子たちに言われていたことであり、主の救いのみ業の中で起きたことです。

 

婦人の弟子たちは、生きておられる方を死者の中に探すという、見当違いなことをしていました。けれど見当違いであっても主イエスを求め、探すこの人々に、神さまはみ使いを通して応えてくださっています。主イエスは誰かに盗まれたのではなく、復活されたのだと告げられ、主を見つける道を示してくださいました。神さまが最初にキリストの復活を告げてくださったのは、主イエスを殺すことで、主イエスに勝利したと思い込んでいたユダヤの指導者たちでも、その権威の下で死刑が執行されたローマ帝国の総督ピラトに対してでもなく、弟子の筆頭と思われていたペトロでもなく、主イエスを探し求めて、お墓の入り口を塞いでいる大きな石をどかす当てもないまま、朝早く急ぎお墓にやってきた婦人たちでありました。

 

ルカによる福音書は、失われたものを探す譬えを、主が何度も語られたことを伝えています。主イエスは弟子たちに、99匹の羊を野原に残して見失った一匹の羊を探す人が、一匹を見つけ出す譬えを語られました(ルカ1517)。無くした銀貨を探す女性が銀貨を発見する譬え(15810)も、放蕩息子が帰ってくる譬え(151132)も語られました。探していた人は、見出す喜びを与えられ、喜びに満たされ、その喜びを誰かと分かち合わずにはいられないことも語られました。徴税人ザアカイとの出来事においては、主イエスご自身が、失われていたザアカイが神さまのもとへと帰ってきたことを喜ばれました。この時主は、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われました(1910)。失われていたのはザアカイであり、神さまのもとから離れ出てしまっていた一人一人の人間であります。探してくださるのは、羊飼い、女性、父親に譬えられる神さまであり、神のみ子であります。主イエスは、失われた一人一人を捜して救うために世に来られたのでした。

 

かつて主イエスは、弟子たちに祈ることを教えてくださった時、こう祈りなさいと「主の祈り」を教え、更にこう言われました、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と(ルカ11910)。人間の親が子どもに良いものを与えることをあなたがたは知っているであろう。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださるのだと、語られました。

 

死者の体という、主イエスが生きておられた名残の中に主を探す婦人たちに、主イエスを見つけることはできません。けれど、主を必死に求めるこの人々に、神さまはみ使いを遣わされ、主を見出す道を与えてくださいました。主を求める者、門をたたき続ける者は、見出すことができます。自分たちの思いや知恵だけでは、主に至る道が見出せず、死の力に呑み込まれ、途方に暮れてしまうこの人々が、神さまによって、生きておられる主を見つける道へと導かれたのです。

 

私たちは、自分の思いや自分の持つ手段では見出すことのできなかった道に続く門を神さまによって開かれ、天の喜び、誰かと分かち合わずにはいられない喜びを見いだすことへと導かれます。私たちの想定も、私たちの常識も超えた天のみ業は、人にとってしばしば直ぐに喜びとは受け止められないものであります。“1匹失っても99匹はまだいるのだから、1匹の羊を探しに行かなくても良いのではないか”、“1枚失っても銀貨はまだ9枚あるのだから、見つかるまで家中掃くことまではしなくても良いではないか”、そのように残っているものと失ったものを天秤にかける思いが私たちの中にあるかもしれません。放蕩息子の譬えでも、弟が父の家に帰ってきたことを父がとても喜ぶ、その父の喜びを兄は受け入れることができません。神さまが失われていた私たち一人一人をそうまでして探し出すみ心を、探し出すために為してくださってきたみ業を、私たちの思いや知恵や手段だけでは、受け止めることができません。婦人たちがみ使いから主イエスの復活を告げられた時、そこに婦人たちの喜びは記されていません。更に婦人たちからお墓での出来事を聞いた他の弟子たちは、この話をたわ言のように思い、婦人たちを信じなかったとあります。「たわ言」と訳されている言葉は、聖書協会共同訳では「馬鹿げたこと」と訳されています。元の言葉には「うわごと、無意味な話、冗談」といった意味があります。今の時代に生きる私たちだけでなく、古代のこの時代に人々にとっても、死者がよみがえったというのは、たわ言、馬鹿げたこと、冗談と取られる話です。それでも、そのように取られることを十分知りながら、婦人たちは一部始終を弟子たちに知らせました。なぜ話すことができたのでしょう。その直前にみ使いから、「あの方が・・・まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい」と促された婦人たちは、「イエスの言葉を思い出した」とあります。主イエスの言葉を思い出したから、主イエスがおっしゃっていたことが実現しているのだと、僅かでも受け止めることができました。主イエスの言葉があったから、婦人たちは到底喜びにまで至っていませんが、今も驚き恐れの中にありますが、他の弟子たちの所に戻り、見たこと、告げられたこと、知っている限りのことを伝えることができました。感情も理解もついていかなくても、主の言葉が成し遂げられているのだと、自分たちが見失ったと思った道は神さまによって開かれ、続けられていたのだと、神さまが命の道を与えてくださっているのだと信頼していたからでありましょう。み言葉によって道を示し、み言葉を成し遂げてくださる神さまへの信頼によって、暗いお墓の中で、死の力の中で立ち尽くしていたところから、命の道を辿ることへと方向転換をする力が与えられたのでしょう。

 

たわ言、馬鹿げたことと取られながらも、主の復活の知らせを分かち合おうとした婦人たちの行動は、ペトロの中にも新しい道へと向かう力を与えます。ペトロは立ち上がってお墓へと走ります。ただ「たわ言」と婦人たちの言葉を退けるのではなく、言葉の通りなのか確認をしに行きます。そしてお墓が空であることを見出します。驚きつつ、戻ります。理解し難い、あり得ないという思いを抱きながらも、ペトロはこの時から、主の復活と言う不思議な出来事への驚きを抱えつつ、歩み始めたのです。

 

信仰の力の源は、私たちであろうと他の人々であろうと、その人の意思や感情の強さではなく、神さまが人に与えてくださった言葉であります。婦人たちも含め弟子たちの心の中に、既に主イエスから言葉が与えられていた。その言葉をみ使いたちによって婦人たちは思い起こすことができました。この婦人たちによって、ペトロや他の弟子たちも、次第に思い起こすことへと導かれます。さっきまで道を見失って、闇の中で茫然としていた婦人たちが、主の復活を告げる最初のメッセンジャーとなりました。そのメッセージがペトロに受け止められ、他の弟子たちに受け止められ、そして2,000年以上の年月を越えて、私たちの所にも届いているのです。

 

み使いが告げた主イエスの言葉に、「人の子は必ず、罪びとの手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」(7節)とあります。「必ず・・・ことになっている」との表現は、神さまが既に決められた道であることを告げています。主イエスのご受難も死も復活も、神さまのご計画の中にありました。主イエスはそのご計画のために、自らこの道を進まれました。預言者イザヤを通して告げられていた言葉のように、キリストは多くの人が正しい者とされるために、多くの人の過ちを担ってくださり、背いた者のために執り成しをするために、自らを投げ打って、罪びとの一人に数えられる死を死んでくださいました。それまでの主イエスとの交わりも語られた言葉も、弟子たちの心からすべて吹き飛んでしまうような圧倒的な死の力の中にあっても、弟子たちが主イエスを見捨て、諦め、死の闇に呑み込まれていた時にも、神さまの救いのご計画は進められていました。そして神さまが遣わされた者の働きによって、「必ず・・・なっている」との神さまの言葉が、再び弟子たちの人生に響き始めたのです。

 

キリストにおいて、神さまの「必ず」は成し遂げられました。だからキリストによって、私たちの罪は必ず赦されます。罪による死の只中から私たちが命の道へと救い出されるということは、必ず起こります。今も生きておられ、聖霊において私たちと共におられるキリストの後に私たちが従い、死によって断ち切られることも、塞がれることも無い命の道を歩む救いは、必ず私たちにももたらされるのです。