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振り向かれる主

2023.3.19

ヨエル2:12-13、ルカ22:54-62 

「振り向かれる主」浅原一泰

 

主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け。」

あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ。」

 

人々はイエスを捕え、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「子も人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 

 

先週の日曜日。久しぶりに「笑点」を見ていたら、三遊亭好楽師匠が自慢気にこんなことを言っていた。「自分の特技はスノーボードとスキーと落語だ」と。「理由は」と司会者の春風亭笑太から尋ねられると彼は答えた。「俺はすべるのが得意だからだ」と。

この人は自虐ネタが多いことで知られている。私的な話で申し訳ないが私は非常に親近感を感じている。ある生徒から、先生は腰が低くて謙虚だと言われ、違う違う、私はそんな出来た人間ではないと全否定したら、横にいた別の生徒から、そうね、先生は自虐ネタばかり言うから卑屈なんだと思う、とずばり指摘された。私はぐうの音も出なかった。つい先々週の話である。牧師としても、学校の教師としても、また父親というか夫としても、私は失敗ばかり繰り返して来た。奥さんの大切にしていた食器を何枚割ってしまっただろう。三、四日前も奥さんのお気に入りのマグカップに傷をつけた。学校の何かを壊したこともあるので、ある生徒からは破壊王と呼ばれたこともある。そんな私が親近感を覚えるイエスの弟子がいる。ペトロである。

 

不謹慎とお叱りを受ける覚悟で申し上げる。もし聖書が落語の題材に取り上げられるとしたら、一番の題材となる人物はこのペトロではないか、と思っている。実際のペトロが愛嬌のある人間であったかどうかは分からないけれども、少なくとも聖書に記されているところから推察すれば明らかに彼は単純直情型であり、元は素朴な漁師であったがイエスに最初に呼ばれた弟子となってからは、でかい口を叩いてはその直後に鼻へし折られることを繰り返した人間だからである。

 

例えば、湖の上を歩いておられるイエスを見て、船にいた弟子の誰もが震え上がった時のことである。イエスが「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」と語りかけるとペトロは即座に、「こっちへ来いと命じて下さい。そしてそちらに行かせて下さい」とイエスに頼み込み、イエスが「来なさい」と言われるとすぐに水の上を歩き始めるが、強い風に気を取られて忽ち沈みそうになり、「主よ、助けて下さい」と喚きたててしまう。また先ほど読まれた61節には、「ペトロは『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した」と書かれていたが、その場面はすぐ前の22:31以下に記されている。そこではペトロは「主よ、御一緒になら、牢に入って死んでも良いと覚悟しております」とたいそう立派なことを言う。するとすべてを見抜いているイエスに「あなたは鶏が鳴く前に私を三度も否定する」と言われ、恥ずかしくもそれが見事に先ほどのところで実現してしまった、というわけである。何と無様で、格好悪い姿か。ああなったらおしまいだ。弟子としてあるまじき振舞いだ。周囲からそのように野次られ、非難されても仕方ない。よりによってイエスの弟子の無様な姿を聖書があからさまに伝えていることに、まるで「お前もそうなるのだ」と言われているような気がしてならないのは私だけだろうか。

 

確かに分別ある人間なら、出来もしないことを「出来る」などとは決して言わないのだろう。回りに迷惑をかけなくて済むしそれが賢明だとこの世では評価される。そのような分別はその人間が自分をよく理解している、弁えているからこそ出来るものだと思う。しかしながら、それが出来る余りにその人は神という存在を遠ざけてしまっているかもしれない。ペトロは自分だけを見ていたのではなかったように思う。彼は主イエスを見ていたし、イエスを通して神を仰ぎ見ようとしていた。イエスを求め、神を慕い求める姿勢を信仰と呼ぶのであれば、ペトロは間違いなくイエスを信じ、神を信じていた。ペトロだけはイエスが逮捕された後でも「遠く離れて従った」とこの福音書は伝えていた。イエスが捕えられるや否や、他の弟子たちがわが身可愛さの余り怖くなってイエスを見捨てて逃げ去ったのとは大違いである。それは彼が本当にイエスに忠実であろうとしていた、自分という人間の罪深さを潔く認めつつ神を、イエスを仰ぎ見て生きようとしていたことを証ししていると思う。ところが、である。信じるが故にこそ、信仰に踏みとどまろうとするが故にこそ襲いかかる試練があり苦しみがある。エデンの園でエバを陥れたあの蛇はこの時、大祭司の家の中庭でペトロに囁き続けていた。「イエスを知らないと言ってしまえ。そうすれば死なないで済むぞ。むしろイエスの弟子だと名乗れば間違いなく殺されるぞ。」逃げた弟子たちはとっくの昔にこの蛇の囁きに屈してイエスを見捨てていた。すると執念深き蛇は、逃げなかったペトロをこそ陥れようとしていた。まさしくこれは、信じるが故にこそ味わう苦難、教会に通い礼拝を大切に守っているクリスチャンにこそ重くのしかかって来る試練と相通ずるところがあるのではないかと思う。かつてイエスが荒れ野で悪魔から受けた誘惑も三回であったが、ここでもペトロはそこにいた女中や家来たちを通して、「お前はあの人の仲間だ」と三度も問い詰められる。しかし、イエスが三度の誘惑全てを振り切って神のみに仕える姿勢を貫いたのとは正反対にペトロはイエスが予言していた通り、「あの人と私は何の関係もない、あんな人は知らない」と三度も否定してしまったのである。

 

話は変わるが、多くの方がモーセの十戒をご存じかと思う。その第一の戒めは「あなたにはわたしを置いて他に神があってはならない」である。しかし皆さんお持ちの讃美歌にある交読文の十戒を見ると、それはこのような文章になっている。「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず。」そこにはなぜか「顔」という言葉が含まれている。「顔を見るまで分からない」という言い方があるが、顔を通してその相手を、神を本当の意味で認識できるということだ。だから聖書、特に旧約では時折、神は顔を見せてまでしてご自分の本質を示そうとされる。神など意識しない人、神の存在を否定する人は、せっかく神が顔を見せようとしているのに気づかない、見向きもしない、ということになる。逆に神に気づかされ、神との応答関係、人格的な関係に置かれたならば人はその時、神と顔と顔とを合わせた、ということになる。出エジプト33:11には、「主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」とある。その直前のところではあの金の子牛を神だと喚きたててしまった不信仰なイスラエルの民の中で、モーセだけには神は顔を通して、神と言う存在の本質を伝えていた、ということだ。

 

しかしながら、神との約束を破った直後のアダムとエバは、神が園の中を歩く音が聞こえると神の顔を避けて園の木の間に隠れたと創世記3章は伝えている。弟アベルの献げ物だけが神に喜ばれ、自分の献げ物は喜んでもらえない悔しさ、妬み、怒りに震えていた兄カインに神はこう語りかけていた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と。神の顔を避けたアダムも、顔を伏せたカインも、そうすることで神に心を開くことを拒んだのである。ペトロは初めはイエスを求め、神を求めていた。信じる者なら誰だってそうしたいと望むだろう。しかしそこに悪魔は追って来る。大祭司の家の中庭で、その悪魔からの執拗なる追求に遂に屈してペトロはイエスを拒み、これ以上ないほど無様で格好悪い、恥ずべき姿を曝してしまう。「お前はイエスの知り合いだ」と周囲からの白い目に曝され、それを否定し続けたペトロもアダムのように、またカインのように自分の顔を伏せていた。イエスを、神を自分の中から消してしまった。弟子として、クリスチャンとしても普通に考えれば一巻の終わりである。しかしその時、イエスは動かれた。そのようにペトロがずたずたに踏みにじられ、もはや立ち直れない状態に陥っていたからこそ、何とイエスは振り向かれた。顔を伏せていたペトロに、イエスは敢えてご自分の顔を見させた。ご自分の顔を通して、神の顔を見させたのである。かつてイエスは「丈夫な人に医者はいらない。医者を必要とするのは病人である」と語っていた。「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだ」ともイエスは語っていた。まさしくこの時のイエスにおいて、迷っていない99匹を置いてでも、迷い出て遠くに逃げていたペトロ一人をどこまでも追い求め、捜し当てようとするあの羊飼いの姿があった。振り向いてペトロを見つめたことでイエスはペトロを捜し当てた。その眼差しには、「なぜ逃げたのか」、「なぜ私を知らないなどと言ったのか」、「なぜ顔を伏せたのか」、などといったペトロへの非難、容赦なく裁く怒りの視線はこれっぽっちも込められていなかったと思う。顔を背けたペトロを、それでも赦す、それでも私はあなたを信じる、というイエスの思いがその眼差しには溢れていた。先ほどもご紹介した三度もペトロがイエスを否定することをイエスが予告した場面で、その初めに(22:31)イエスは語っていた。「シモン(ペトロのこと)、シモン、サタンはあなたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」と。「私はあなたのために祈っている」。イエスの眼差しは無言でペトロにそう伝えていた。ペトロが激しく泣いたのは、そのためであったに違いないのではないだろうか。私自身も似たような記憶がかすかにあるのだが、幼い子供が迷子になり、心細くなって不安に押しつぶされそうになっている内は恐怖と不安に圧倒されて涙も出てこない。逆に母親に捜し出されて抱きしめられた途端に、ものすごい声で泣きじゃくり始めた幼子を見たことがある。同じように主イエスが振り向くまでは、もっと言えば主が振り向かれることで自分がイエスの前に、神の御前に立ち帰らされるまではペトロも泣いてなどいなかった。どうすれば自分がこの危機をしのげるのか、捕えられずに逃げ切れるか、そんな自分の身の安全ばかりに心奪われ、神に対しイエスに対してペトロは顔を伏せていた。その彼が突然、激しく泣きだしたのは他でもない。振り向かれた主イエスに探し求められ、見つけ出されたからである。しかも情けない自分の弱さ、醜さ、貧しさのすべてを裁かれるのではなく赦されている、と気づかされ、あなたは立ち直れる、と言われた主イエスの言葉を思い出したからである。もしかしたらそれは、ペトロが真の礼拝者へと立ち帰らされた瞬間ではなかっただろうか。世にまみれ、世に流されて生きている我々は本当にイエスを求めているだろうか。神を求められているだろうか。口では何とでも言える。そのような振舞いや姿勢を演じることだってできる。しかしそれが本当の我々の姿だろうか。無意識の内に、演じるだけで済ませてしまっているところがあるのではないだろうか。そうなってしまっている我々の顔を上げさせようとして主イエスが、神が、我らの方へと繰り返し振り向いて下さる。神の方から、イエスの方からご自分の顔を見せようと何度も働きかけて下さる。主の日ごとに備えられる礼拝、神の業なる礼拝とは、本当はそのようなものなのではないだろうか。

 

民数記6章に有名なアロンの祝祷がある(民62426)。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。

主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」

 

普段の礼拝では、涙を流すことなど正直、余程のことがない限りはめったにないことだと思う。しかしもしかしたらそれは、我々が日常の世俗の生活に心奪われるあまり、顔を伏せてしまっているからかもしれない。しかしその過ちを何度繰り返そうとも神は、神だけは御顔を向けて下さっている。それどころか神は世に来られ、イエスと言う人間の姿形をとってまでしてご自分の声を、思いを語りかけて下さる。それでも顔を上げられない我々に神は御子イエスに十字架を背負わせて我々の代わりに裁き、イエスをよみがえらせることで主の日の礼拝が始まった。そうして、神と共に生きる光の道を歩み始めるようにと招き続けるために神は今この時も我々を礼拝へと召し集め、御顔を向けておられる。主イエスが振り向いておられる。我々は決して自分で礼拝を守っているのではない。その神に、イエスに、捜し当てられたからこそ今、ここで礼拝者とされているのだと思う。それがどれほど深い神の慈しみであり恵みであることか。レントの時だからこそそのことを深く考えさせられたい。そしていつの日か、涙を流さずにはいられないほどの純粋素朴な信仰へと、主によって導かれたいと願う。