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神は思い直され

ヨナ3110、ルカ112932「主は思い直され」

2023312日(左近深恵子)

 

 礼拝において今年度は主に旧約聖書から聞いてまいりました。今日はその最後となります。今日の礼拝に与えられた箇所はヨナ書です。平易な語り口でダイナミックに次々と話が展開し、奇想天外な出来事も起こりながら、ヨナという人に自分を重ね見ることを促される、魅力的な物語です。

 

 私たちがヨナに自分を重ね見るのは、ヨナが思い通りにゆかない出来事に何度も直面するからかもしれません。たった4章という短い文書の中で、ヨナは毎章のように、思うようにゆかないことにぶつかります。そこでヨナの取る態度に、親近感を覚えます。頑なにこれが我が道だと思う方に突き進もうとしたり、怒ってふてくされたりするヨナの姿に苦笑しつつ、自分自身を突き付けられているようで、笑うに笑えない苦い思いを抱いたりします。

 

 ヨナは最初に神さまから、ニネベに行って、彼らの悪が神さまの前に届いていることを告げよと命じられます。ニネベは、アッシリア帝国の都です。強大なアッシリア帝国の動きは、小さな勢力であるイスラエルにとって、深刻な脅威でした。自分たちを苦しめる者たちであり、自分たちイスラエルの民から見れば異邦人の民であるアッシリアの、真の神を知らない人々に、彼らの悪を明らかにする神さまの言葉を告げるよう、神さまはお命じなります。

 

これは、ヨナが自分の人生に望み見ていたものとは全く違う道へと、ヨナを連れていくものだったのでしょう。だからといってヨナは「一体何故私なのですか」と神さまに問うのでもなければ、「私には無理です。できません」と訴えるのでもなく、ただ無言で神さまから逃げようと町を出ます。そうしてヤッファの港に辿り着くと、ちょうどニネベとは別の方向に向かう船が見つかったので、乗り込んだのでした。

 

 神さまはこのヨナを諦めません。ヨナが乗りこんだ船が進む海へと、大風を放たれます。海は大荒れとなり、船は今にも砕け散らんばかりです。異邦人である船乗りたちが、自分たちの国の神々に叫び祈ったり、船の積み荷を海に投げ捨てて船を軽くしたりと、嵐の中で奮闘している中、ヨナは船底に降りてゆき、眠り込んでいます。神さまが示されるのとは異なる方に向かう船に自分の人生を委ね、船底へと降りて、神さまも他の人々も起きていることもすべて締め出し、一人の世界で自分の眠りの中に沈み込んでいこうとします。

 

しかしそうはさせじと皆の所にヨナは引っ張り出されます。そしてこの災難が、神さまに背を向けているヨナのせいであることが明らかになります。行く先を神さまによって阻まれるあなたはどういう者なのかと問われ、ヨナは「私はヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と明かします。自分の手足を縛って海に放り込めば、海と陸とを創造された神は海を鎮められるだろうと、自分を海に入れるように言います。自分の罪が他の人々も巻き込んでいることを認め、他の人々を救おうとする、勇敢な言葉のようにも聞こえます。しかしヨナはこの時も、神さまの赦しを願うのでも、神さまに助けを求めるのでもありません。「私は・・・主を畏れる者だ」と言いながら、主の前に立とうとしません。危機から救われる道を神さまに問うのではなく、自分の死によって道を切り開けると結論づけます。船乗りたちはヨナを海に放り込むのではなく他の手段で危機を脱しようとしますが、できることは全てし尽くしても、なおも大波は静まらず、ついにヨナの求めに従うことを決意し、祈りを捧げます。祈っても、祈っても、救うことのできない自分たちの国の神々ではなく、ヨナから教えられたイスラエルの神を仰いで、祈りを捧げます。そしてヨナを海に放り込むと、荒れ狂っていた海は静まります。船乗りたちは大いに主を畏れ、主を礼拝します。言葉では「私は・・・主を畏れる者だ」と言いながら、主と関りを持たずに自分の生涯の終わりを自分で決めようとするヨナと、ヨナから教えられた主こそ真の主であると信じ、深く畏れ、主に祈り、主を礼拝する者となった異邦の民の姿が対照的な出来事です。

 

 逃亡の道を阻まれたヨナは、神さまに対して黙したまま、海底へと身を沈め、神さまがおられないところで自らを滅ぼそうとします。けれど神さまは巨大な魚に命じてヨナを呑み込ませ、このヨナの思いも阻まれます。魚が登場し、その中で三日三晩ヨナが過ごすという、面白い展開です。大風や魚だけでなく、ヨナの物語ではこの先、とうごまの木も、虫も、東風も、神さまが命じられる度にその通りに従い、役割を担います。人間でないものたちが神さまのお言葉に次々と応えていく不思議な情景の中で、一人頑ななヨナの姿が一層浮き彫りになります。

 

 その頑ななヨナに変化が起こります。神さまと断絶したまま消えて行こうとした道を、巨大な魚を用いて阻み、救ってくださった神さまに、三日三晩祈ります。神さまが裁きとしてもたらされた大波にどんどん頭上厚く覆われ、神さまから離れていくばかりのヨナは、陰府の底で助けを求めたと言います。ヨナは死んだわけではありません。しかし神さまとの交わりを自ら断ち、沈み、もはや神さまに助けを求めても届かないところ、神さまが呼び掛けてくださってもその声が届かない、死んだも同然のところで主のみ名を呼んだ自分の声を、主は聞いてくださり、滅びの穴から引き上げてくださったと祈ります。神さまがご自分との間を大水で永久に隔て、扉を閉ざした裁きの底で、その裁きを貫いて引き上げてくださる救いを知り、ヨナの頑なさは砕かれ、神さまとの交わりに導かれ、悔い改め、感謝する者へと変えられました。神もここにはおられない、そう思い一人息絶えようとしていたその所にも、神さまの救いがもたらされました。自分が神さまに対して思い描いてきた枠を、神さまは超える方であることを知ったのです。

 

 だからヨナは、神さまの言葉に従って魚が自分を陸地に吐き出すと、最初に告げられたのと同じことを神さまから命じられた途端、ニネベに行きます。丸一日、神さまの言葉を語るために歩き続けます。神さまから託されたのは、「後40日すれば、ニネベの都は滅びる」という、誰も聞きたいとは思わない厳しい言葉です。ニネベの人々に理解を示す言葉も、気休めの慰めもありません。よそ者の自分がこんなことを言っても相手が耳を傾けてくれそうにない、語るには大いに勇気を必要とする言葉に思えますが、ニネベの人々は、深くその言葉に耳を傾けます。王も民も、ヨナが語る言葉を、ヨナを通して神さまが告げておられる神さまの言葉と受け留め、断食によって悔い改めを表明します。民の上に君臨してきた王はその玉座から降り、王衣に変えて粗布をまとって灰の上に座します。王としての権威を脱ぎ捨て、自分も罪深い者の一人であることを告白し、民が誰一人、神さまに立ち帰ることから漏れてしまわないように、悔い改めを求める布告を都全体に出します。彼らはヨナの語る言葉に、厳しさだけでなく、悪から神さまの元へと彼らが立ち帰ることを願い続けた神さまのみ心、それが叶わない苦しみを味わい続けてこられた悲しみ、怒りもあることを受け留め、40日という猶予期間を神さまの恵みと受け止めたのではないでしょうか。神さまは、滅びを決断された今も、思い直す自由を持っておられる方であると信頼し、滅ぼされて当然の自分たちをどうか憐れんでください、滅びから引き揚げてくださいと、祈り続けました。たった一日で、その悪で名高かった異邦の民ニネベの人々に起きた変化です。それは同時に、神さまから逃げ続けていたヨナが悔い改めるまでに要した長い道のりを、思い起こさせます。

 

神さまは悪の道を離れ、悔い改め、祈り続けるニネベの人々を見つめ、彼らに災いを下し、滅ぼすことを思い直されました。この先の4章を見ますと、ヨナは神さまが思い直されたことに大いに不満を持ち、怒ります。神の民イスラエルの一員であるヨナは、自分たちを苦しめて来て、神さまが滅ぼすことを決断されるほどその悪が深刻なものであったニネベは、滅びるべきだと思いながら、神さまの言葉を語っていたのかもしれません。それなのにこの滅びるべき者たちを許す神さまの心変わりに、納得できません。魚の腹の中で悔い改めの祈りへと導かれ、一旦は神さまの言葉に従う者となったヨナですが、再び強く抗います。怒りを露わにし、不満を神さまにぶつけながら、心を頑なにしていきます。

 

ヨナは、思った通りにならない道を神さまに示されてきました。神さまは、ヨナが思い描いていた人生の道筋とは全く異なる、ニネベに向かう人生を示されました。ニネベの人々に語れと言われるということは、神さまの約束からも、神さまが与えてくださった律法からも離れて生きて来た異邦人ニネベの人々も、神さまの言葉を受け止める価値のある者と神さまがされているということであり、それはヨナがニネベの人々に抱く思いと異なるものでした。神さま抜きに生き、神さま抜きに死んでいこうとしていたところから悔い改めへと導かれたヨナは、神さまの言葉をニネベの人々に伝えました。ニネベの人々が悔い改めたことも、神さまが滅びを思い直され、赦しと救いをニネベの民に与えられることも、ヨナの思いに反するものでありました。怒るヨナに、神さまは「お前は怒るが、それは正しいことか」と言われるのでした。

 

思った通りにならないことに、誰もが不満を抱き、怒りを覚えます。人と人とが関りをもって生活している日々の中で、全ての人と望むような関係を築けるわけではありません。互いの間に溝がある相手、互いの関係に不幸な過去や歴史がある相手、受け入れることに気持ちがついていかない相手と言うものが私たちにそれぞれあったとしてもおかしくありません。神さまが相手に与えておられる恵みに心から喜ぶことができない思い、相手の悪に神さまが今相応しい報いを下しておられないことにもやもやする思いが、誰の中にもあるのではないでしょうか。怒りを覚えることもあるでしょう。神さまは、私たちが思った通りに、私たちの人生の道筋を引いてくださるわけではありません。願うところを通らせてくださるわけではありません。神さまが為さることに、いつも、いつも、気持ちがついていくわけではありません。神さまはヨナに、「お前は怒ってはならない」と、感情を押し殺し、怒りも不満も抱いてはならないと、言われたわけではありません。その怒りは正しいのかと問うておられます。喜べない、納得いかない、腹が立つ、そのような感情が表すものをお前は正しいとしているが、それは本当に正しいのかと、他者の救いのために神さまが告げる言葉よりも、神さまが為さる業よりも、あなたの怒りは正しいのかと、問われます。神さまのご意志を知ろうと祈り求めることもせず、全てを見ることはできなくても神さまのみ業を見つめようとする内なる目を持つことも願わず、自分の感情を神さまよりも高みに置き、自分が思う公正さを神さまのご意志にまさる基準とするヨナの姿は、私たち自身でもあります。

 

神さまはヨナを遣わし、ニネベの民に、滅びという裁きを下さなければならないほど彼らの悪を嘆き悲しんでおられるみ心を告げられました。ヨナは、ニネベの人々に対して、神さまのご意志を示すしるし、神さまが真に神であることを示すしるしとなりました。この大切なしるしとして神さまが選び立てた人物が、自分の人生も他者の人生も、自分が正しく決定づけられるとする道を突き進もうとし、自分が思う道とは異なる道を行くように告げる神さまに自分を閉ざし、抗い続けたヨナであることに、私たちの物差しでは計り切れない、神さまの救いのみ業の一端を見る思いがします。

 

主イエスはこのヨナに触れて、「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」と言われました(ルカ1130 )。嵐に遭い、海に沈み、魚に呑み込まれた末、おそらくぼろぼろの姿となったヨナ、大国アッシリアに比べれば小さな勢力に過ぎないイスラエルの民の一人であるヨナの語る言葉を、都ニネベの人々は、神さまの言葉として聞き、深く悔い改めたことを思い起こさせます。

 

主はもう一つの旧約聖書の箇所にも触れます。南の国、シェバの女王が、「ソロモンの知恵」を聞くために、地の果てから来た出来事です。「ソロモンの知恵」を聞くということは、ソロモンを通して語られる神さまの言葉を聞くということであります。神さまの言葉を聞き、神さまの言葉を語るソロモンを王として立てられた神さまのみ業を賛美するために、女王は来たことを述べられます。

 

神の民が神から離れた者たちだと、神さまの恵みを受けるにふさわしくない者と見ていた異邦人であるニネベの人々も、やはり異邦人である南の国の女王も、イスラエルの民に神さまを真に示す役割を果たしました。神さまは人の常識や思いにまさる人々を立て、立てられた人自身の思いも超える仕方で彼らを用いて、ご自身を示し、全ての民にもたらされる救いを示してくださいました。

 

そして神さまは、「人の子」イエス・キリストを、ご自身を示すしるしとして世に与えてくださいました。ソロモンがもたらしたものにまさり、ヨナが語ったことにまさる恵みを、主イエスは十字架の死に至るご生涯において示してくださいました。しるしなるキリストは、その言葉を神さまの言葉として聞き、その業を神さまのみ業として見る者に、ご自身を遣わされた神さまを示されます。十字架上の一つの出来事が思い起こされます。主イエスの両脇で、やはり十字架につけられていた二人の犯罪人の内、一人は、神さまを恐れようとせず、神さまがおられない死を死んでいくのだと、それで自分は構わないと、自分の人生を自分の終わりを決定づけようとしていました。その人は、隣の主イエスを、お前はメシアだ王だと呼ばれながら、自分のことも救えない者と罵り、主イエスの死も嘲りました。しかしもう一人は、神さまを恐れ、この死は自分の罪の故であることを受け止めていました。十字架上で主イエスに出会ったことで、罪人である自分を諦めることから、神さまのみ前へと引き戻されました。悔い改め、主イエスに「あなたのみ国においでになるときには、私を思い出してください」と願いました。肉体の命の灯が消えかかっている人生の最後の時に、十字架上の主イエスに、罪から人々を救うしるしを見出すことができたのです。苦しい息の中から罪の赦しを祈り求めるその人に、「あなたは今日私と一緒にいる」と、キリストは告げてくださいました。死刑に処せられるほどの犯罪者にも、ご自分の十字架の死によって罪許され、み国に入ることを約束してくださったのです。

 

 

神さまの救いのみ業は、私たちが当然と思っている枠を超えて、私たちが神様にまで押し付けたがる自分の思う正しさを越えて、推し進められてきました。ヨナのように、神さまが導き招き続けてこられた道のりを振り返ることがないまま、自分のことは棚上げにしたまま、他者に与えられた憐れみに怒り、神さまに抗う私たちです。そうでありながら、私たちが他者から見れば相応しくない者であっても、救いを求め続ける者の祈りに主は耳を傾け、悔い改める姿を見つめ、思い直してくださり、その私たちをも、福音を証しする働きを担う者としてくださいます。今日もここから、それぞれを主が遣わされます。神さまの憐れみと赦し、キリストの十字架と復活によって、主と共に生き、主を通して他者を思う生涯を与えられています。主が共にいてくださり、み言葉によって道を指し示してくださることに信頼し、主の道を歩んでまいりましょう。