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徴税人ザアカイ

「徴税人ザアカイ」ルカ19:1~10

2023年2月19日 柳沼大輝

 

 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。「失われたもの」この言葉は、聖書では本来あるべき神の御もとから、背を向けて遠く離れてしまっているものたちのことを言います。本日の箇所にも一人の「失われたもの」がいました。その名はザアカイ。彼は、徴税人の頭でした。

徴税人とは、当時、イスラエルを支配していたローマ帝国のもとで、同胞であるユダヤ人たちから税金を取り立て、その差額で自らの私腹を満たしていた人たちでした。当然、ユダヤ人たちからは、非難され、嫌われ、軽蔑されていました。また、宗教的にも異邦人たちと深い関わりを持ち、神とは離れた生活を送っていました。彼は、そのような神に背き、神から離れた生き方を「徴税人」になる道を自らで選び取った人物でありました。徴税人という職業は、世襲制のように親から受け継いだり、誰かから依頼をされたりして就く仕事ではありません。徴税人になるには、地方の監督者、総督がその地域の徴税人を募集する際に「徴税人」としての権利をまるで現代のオークションであるかのように誰よりも高額で入札する必要があります。つまり、ザアカイは自らの意志で「徴税人」になることを決断し、選択したのです。彼は、仲間たちから非難されようとも、軽蔑されようとも、金持ちになることを強く求めたのです。神や、他人のことなど信用できない、信用できるのは自分、そしてお金だけである。彼にとってはお金がすべてで、唯一の心の拠り所、自らが生きていくうえでの一番の支えであった。そうやって、彼は、神に背を向ける生き方を、神から離れいく生き方を自らで選び取ったのです。「ザアカイ」その名前に本来、込められた「義しい人」「純な人」とは、程遠い「失われたもの」としてのザアカイの姿がここにありました。

 

しかし、そんなザアカイの生き方を180°変える出来事が起こります。ある日、ザアカイは主イエスという人物が、自分が住んでいるエリコの町にやってくるという噂を聞きつけます。そして、彼は自分もその人をぜひ一目、見てみたいと願いました。新共同訳聖書では「イエスをどんな人か見ようとした」とありますが、厳密に訳すと「イエスを見ることを強く求めた、切望した」とあります。彼は、徴税人たちのネットワークを駆使してイエスという人物が、今までに成し遂げられた出来事や奇跡、お語りになった言葉をいくらか聞き集めていたのでしょう。どうやら、主イエスという人物が召し出した12人の弟子たちのなかには自分と同じレビという徴税人がいるということ。主イエスという人物は、罪人や徴税人たちを招いて一緒に食事をしているということ。さらに主イエスがお語りになった羊飼いが99匹の羊を残して、失われた1匹を見つけ出すまで捜し回り、その失った1匹を見つけ出したら皆で喜ぶという譬話。失くした1枚の銀貨を見つけたら、近所の者たちを皆、呼んで共に喜ぶという譬話。金持ちが、神の国に入るのは、駱駝が針の穴を通り抜けるのよりも難しいという譬話。そして、自らの涙と髪の毛で主イエスの足をぬぐった罪の女が赦されたという救いの出来事。徴税人の仲間たちから掻き集めたこれら主イエスの驚くべき行動や言葉を聞いたとき、ザアカイ、彼のなかには、何か心揺さぶられるものがありました。今までの自分であったら、お金さえあれば、自分の心は十分に満たされていた。何にも心動かされるようなことはなかった。たとえ、仲間たちから非難されようとも、軽蔑されようとも、まるで平気であった。神など、まるで自分の人生とは関係ない存在だと思っていた。けれども、いまは違う。主イエスというお方の話を聞くと、どうも心が落ち着かない。心が騒ぐ。この心のざわめきはいったい何だろうか。主イエスというお方を一目でよいから見てみたい!そのような魂の呻きを覚えながら、彼は「今日」という日を迎えました。聖書では、この途中のプロセスを一切、記していません。後は、その人物が取った行動によって判断せよ、と聖書は私たちに語ります。今日という日、彼は、主イエスとは、いったいどのようなお方であるのか、どうしても一目、見てみたいと強く願いました。そうしてザアカイは、さぞかし立派であったろう自らの豪邸を飛び出して、主イエスのもとへと急いで駆け出していったのです。

けれども、いざ、通りに着くと、そこには、もうすでに大勢の群衆が押し寄せていました。ザアカイは、群衆に遮られ、主イエスを見ることができません。彼は背が低かったからです。そんなザアカイに場所を譲ろうとする者は誰もいませんでした。ここにザアカイと群衆との関係性がよく現れています。日頃から、彼を憎み、嫌っていた多くの群衆が、ザアカイの前に立ちはだかって大きな「壁」となっています。けっして自分の力では越えることのできない「壁」となっています。そこで仕方なく彼はその壁を避け、急いで走って先回りし、大きな枝を張るいちじく桑の木の上によじ登りました。

ここに主イエスをどうしても一目見てみたいと強く願いながらも、それでも主イエスと直接、出会おうとはしないザアカイの姿があります。彼は、このとき、強引に群衆の波をかきわけて、主イエスに近づくこともできたかもしれません。直前の18章に登場する一人の盲人のように「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」としきりに大声で叫び続け、主イエスを呼ぶこともできたかもしれません。しかし、彼はそのような大胆な行動に出ることはしませんでした。ただ遠くから、程よい距離に隠れて、一目、主イエスを見ることができれば、ただそれだけで、彼は十分であった。ザアカイは、このとき、主イエスとの出会いを求めてはいませんでした。彼は、まだ自らの魂が上げている神への憐れみ、救い、助けを求める叫びに気づいてはいなかったのです。けれども、ここで彼は、けっしてどうでもよいと思っていることをしているわけではありません。彼の心の奥底には、彼の心を揺さぶる、憐れみを求める思い、救いを求めるたしかな叫びがありました。いい年をしたおじさんが慌てて走って行って木によじ登っている。この光景は、周りの目から見たらたいそう滑稽に映ったことでしょう。そんなことは、身分のあるザアカイであったらよくわかっていることでありました。しかしザアカイは。主イエスのことをそこまでしても、どうしても一目、見たいと強く願った。この主イエスを求めるうちなる叫びが、彼をこのような熱心な行動へと大きく突き動かしたのです。

 

突然、そんなザアカイに目を留め、主イエスは立ち止まり、おもむろに顔を上げて、彼のことをじっと見つめます。そして木の下から彼に向かって語りかけられました。「ザアカイ!」彼は、紛いもない自分の名前が呼ばれたとき、それはもうたいそう驚いたことでしょう。どうしてこの人は、一度も会ったこともない自分の名前を知っているのだろうか。ザアカイは、主イエスを一目、見ようとして、自分が主イエスよりも先回りしていると感じていました。けれども、実際はそうではなかったようです。自分よりも先回りして自分のことをずっと見ていてくださっているお方がここにいた。あの噂で聞いていた譬話に登場する羊飼いのように群れから離れた1匹、失われた1匹を必死になって捜し回り、御自分のもとへと連れ戻そうとしてくださっているお方がここにいた。いまこのとき、人の子、つまり、イエス・キリストは失われたザアカイのことを捜し、救い出そうとしてくださっていたのです。そして、主イエスはこう続けます。「急いで降りて来なさい」。乱暴に言うならば「そんな程よい距離にいるのではなく、御自分のもとに早く来い!」主イエスからの強烈な命令です!主イエスは、御自分のもとに「来い」とザアカイのことを招いてくださっています。さらに、主イエスは続けます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。この言葉は、単なる主イエスの願望を表すような言葉ではなく、「あなたの家に泊まることになっている」、「泊まらなければならない」とすでに約束されている決定事項に基づく言葉です。つまり、主イエスがザアカイの名を呼び「降りて来なさい」と語りかけられた、その根拠は、神の救いの計画にある。神の大いなる計画のなかで、ザアカイの家に泊まることはもうすでに決まっている。わたしは、神の計画に従って、あなたの家に泊まらなければならないのだと。そして、その計画は、けっして誰も邪魔することはできない。いかなるものであっても妨げることはできない。ザアカイは、この主イエスの言葉を聞いたとき、はじめ嘘ではないかと疑ったことでしょう。まさかこんな汚れた自分のところに、神に背を向け、神から離れて生きてきた自分のところにまさか主イエスが来てくださるなんてそんなことありえるはずがない。何故なら、主イエスと自分との間には、あの自分と群衆との間にあった壁のように、絶対に超えることのできない大きな壁があったではないか。しかし、主イエスは、その壁を乗り越えて、ザアカイのもとにたしかに来て、彼に語りかけてくださいました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい!」

ザアカイは、喜んで、急いで木の上から降りてきて、主イエスを自らの家に迎え入れようとしました。しかし、この光景を見ていた群衆は皆、揃ってつぶやきます。「あの人は罪深い男のところに行って宿を取った」と。そこにいた皆、つまりすべての者たちが、ザアカイのもとに行かれる主イエスの行動を批判しました。このときザアカイは感じたことでしょう。やはり、自分は主イエスと出会うにふさわしい存在ではないのだと。自分にそれほどの価値はない。あれほどまでに神に背を向けてきた、神から離れて身勝手に生きてきた、仲間だって平気でたくさん傷つけてきた、そんな自分がいまさら神に救われるなんてそんな調子の良い話があっていいはずがない。人間は、そうすぐには変われないのだと。けれども、この日、主イエスはそんなことお構いないにザアカイの家のなかにたしかに入ってこられました。あなたが今までにどんな罪に塗れた人生を歩んできたかなんて、そんなのわたしには関係がない。わたしは他でもないあなたを捜してここに来たのだ。あなたを救い出さなければならないのだ。あなたに本当の生きる意味を、真実の愛を伝えなくてはならないのだ。だから主イエスは力強く宣言します。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい!」

 

今まで、ザアカイはずっとお金さえあれば、自分は一人でよいと思っていました。自分の力だけでも十分に生きていけると、そう信じていました。自分には、神など必要ないと、そう自負していました。神などいなくても自分の人生はもうすでに十分に満たされていると、そう確信を持っていました。しかし、主イエスと出会ったとき、彼はハッと気がつきました。自分の魂が上げている救いを求めるうちなる叫びに。そう、彼はずっと「孤独」であった。彼は知らず知らずのうちに自らで築き上げた高い壁のなかで一人もがき苦しんでいました。道をさまよい、生きる意味を見失っていました。しかし、自分の力ではその壁を越えることも、壊すことも到底できなかった。けれども、主イエスが彼の名前を呼び「来い!」と御手を差し宣べ、語りかけてくださった、まさにそのとき、ゴォ―と音を立てて壁が崩れ始めた。真っ暗闇であった彼の世界に夜明けを告げる救いの朝が来た。このとき、生きる意味が、まことの道がザアカイの目の前に開かれた。

 

私自身、主イエスと出会う前、このザアカイのように自らの力だけに頼って生きていました。神の支えなどいらない。神なんて自分の人生とはまるで関係がない。そのように感じていました。神なしでも、自分は十分に満たされていると、そう信じでいました。しかし、高校二年生のとき、先天性の目の病気が悪化し、生きることに困難を抱え、埋めることのできない深い空しさに襲われたことがありました。そんな人生に行き詰まりを感じたとき、幼いころ。クリスチャンであった父親に連れられて通っていた地元の教会の扉を開き、久しぶりに礼拝に出席しました。そこで御言葉が語られたとき、不思議と涙があふれて止まらなかったことを今でもはっきりと覚えています。わたしはずっと自分の力だけで頑張って生きていると思っていた。自分は一人ぼっちだと感じていた。でも実際は、そうではなかった。神が先回りして、失われたわたしのことを捜し出し、そこからずっとわたしの名前を呼び続けてくださっていた。そして「来い!」と語りかけてくださっていた。神に背を向けて、神から離れて、神との間に大きな壁を築いていたのは、他でもないこのわたしなのに、主イエスは、わたしがいくら神から離れようともわたしと共にいてくださった。わたしはけっして一人ではなかった。そして、主イエスはわたしの名前を呼び、わたしのことをいつも招き続けてくださっていたのです。「早く降りて来なさい!」と。

 

木から降りてきたザアカイは、周りの批判に負けずに立ち上がって主イエスに言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」彼は立ち上がって、主イエスときとんと正面から向き合って宣言します。自分の唯一の拠り所であった財産の半分を貧しい人々に施しますと。全額でなく半分で良いのかと感じる人がいるかもしれません。しかし、ここでは問題となっているのはその額ではありません。大切なのは、ザアカイが強く握り締めていた、自分の心を支配していた財産を手放して、本当の意味で自分を生かしてくれる主イエスの愛、真実の愛を受け取ろうとしているということです。「来い!」と自分を呼んでくださった主イエスに自らの身を、自らの人生を委ねよう、明け渡そうとしているということです。ここに主イエスによって大きく変えられた、救われたザアカイの姿があります。「壁」を取り除かれ、新しく生きようとしているザアカイの姿があります。初めて名前の通り、その名の通りに「義しい人」「純な人」となったザアカイの姿がここにあります。さらに、彼は「誰かから何かだまし取っていたらそれを4倍にして返す」と旧約聖書の律法に定められた規定以上の償いを約束します。ここに自らの過ちを顧み、180°生きる向きを変えて、隣人と共に主イエスの救いのなかを生きていこうとしているザアカイの姿があります。到底、人間は変わることなんてできないと思っていた。しかし、それは違った。主イエスとの出会いが、神に背いていた、神から離れて、自らの力で生きていた「失われた」ザアカイを、神とそして隣人と共に生きる者へと大きく変えてくださった。今日、まさに彼の家に救い、良き知らせ〈福音〉が訪れた!

 

主イエスは自らで築き上げた孤独という高い壁のなかで、自らでは気づくことのできなかった魂の底から救いを求めて、声にならない叫びを上げていた、失われたザアカイを捜し、救ってくださいました。主イエスはザアカイと同じように失われた私たち一人ひとりのためにも2000年前、この地上に人の子として生まれ、十字架にかかり、陰府に降ってまで失われた私たちを捜し救い出しに来てくださいました。

主イエスは、今日、このときもこの礼拝を通して、神のもとから離れてしまった失われた私たち一人ひとりを捜し出そうと、救いの計画を進めています。今日、この場においても、主イエスの救いの出来事がまさに起ころうとしています。主イエスは、今日も私たち一人ひとりの名を呼び「急いで降りて来い!」と語りかけてくださっている。それは、十字架の赦しを備え、復活の主によって新しい命を受けよとの、私たち一人ひとりへの神からの招きです。その主の招きに応えて、主イエスを喜んで迎え入れること、主イエスと一つに結ばれること、それが本当の意味で主イエスと出会うということです。主イエスは、今日このときも、あなたの名前を呼び、あなたに「来い!」と語りかけてくださっています。失われたあなたのことを必死になって捜し、救い出そうとしてくださっています。人の子、主イエス・キリストが今日、この礼拝の場においても、あなたのためにたしかに生きて働いておられる。

今日まで続く、御言葉に心揺さぶられ、神に見出されたわたしの、そしてみなさん一人ひとりの信仰の旅路はザアカイと同じように、たしかにいまも神の大いなる救いの計画のなかにあります。その歩みは、ときに痛みを覚え、自らの弱さを見せつけられるような歩みであったかもしれない。苦しみを抱え、深い孤独に心打ちひしがれそうな歩みであったかもしれない。しかし、その歩みは「今日」というこの日にたしかに繋がっている。自らで築き上げた「壁」のなかで一人もがき苦しんでいた、救いを求めて嘆き、叫んでいた、神から遠く離れ、失われていた私たちのことを捜し出し、神と共に、隣人と共に生きる者へと大きく変えてくださった、私たちに本当の生きる意味を、まことの道を示してくださった、恵みに満ちた神の救いの計画、御業がたしかにここに証しされている。だから、もうそんな高いところで一人隠れている必要なんてない。怯え、恐れなくてもいい。「今日」も共々に私たちを招く主の御声に「喜んで」応答していきましょう。

 

祈り

私たちの名前を呼び 私たちに「来い」と語りかけてくださる主イエス・キリストの父なる神様

今日という日を、この礼拝のときをありがとうございます。

私たちはかつてあなたに背を向け、あなたから離れ、まさに失われたものでした。

しかしあなたがそんな失われていた私たちのことを捜し、救い出してくださいました。

そのくすしき恵みに感謝し、今週もあなたの御声に信頼する歩みをなしていくことができますように。私たちを守り、支え、導いてください。私たちといつも共にいてください。

この願いと感謝、私たちの救い主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。

 

アーメン。