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救い主は飼い葉桶に

ルカ217「救い主は飼い葉桶に」

20221218(アドヴェントⅣ、左近深恵子)

 

 救い主誕生の報せを最初に受けたのは、ベツレヘムの郊外で夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちでした。神さまはみ使いを通してこう告げました、「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(212)。神さまは、救い主、メシアがお生まれになったことを知らせるだけでなく、羊飼いたちが救い主を見つけられるように、しるしも与えてくださいました。しるしとは、乳飲み子である救い主が産着にくるまって飼い葉桶の中に寝ていることだと、告げられました。このしるしは私たちに、どのような救い主を見出すのでしょうか。

 

 ルカによる福音書は、ヨセフとマリアがベツレヘムの町に滞在していたのは、ローマ皇帝の命令に従うためであったことを記しています。当時ユダヤの民を支配していたローマ皇帝は、領地の全ての民に住民登録を命じました。今で言う国勢調査です。その主たる目的は税の取り立てでありました。ローマ皇帝には有事の際に民を徴兵するためという目的もあったでしょう。統治下の人々のことをとにかく納税者として、また兵力として捉えているローマ帝国の意図を重々承知の上で従うしかない人々は、それぞれの町に登録のために向かいました。

 

聖書には旅をする人々が多く登場します。弟子たちは、主イエスに従うためにそれまで住んでいた町や村を離れ、出発しました。使徒たちも、十字架におかかりになり、死者の中から復活された主イエスこそ救い主であると語るために、ユダヤ人たちの土地だけでなく異邦人の地域にも出かけていきました。弟子たちや使徒たちの旅には絶えず危険が伴い、苦境に立たされることも多々ありましたが、主イエスを証しすることが出来る喜び、人々の心に福音が届く喜びに与る日々であったことでしょう。一般の人々も旅をしています。その多くは、エルサレムの神殿で礼拝を捧げるための旅です。特に過ぎ越しの祭りには、多くの人がエルサレムの都を目指します。人々には、神殿で礼拝を捧げられる喜びや、親しい人々と共に礼拝を守ることのできる喜び、久しぶりに懐かしい人々と会える喜びがあったでしょう。

 

しかし住民登録のための旅は、望んでしているわけではありません。人々が必要だからしているのでもありません。皇帝が自分の統治下にある人々を調査し、掌握し、これまで以上に税を課し、将来の徴兵に向けて備えを始めるために用いる住民登録は、ただ皇帝が望んでいるもの、皇帝の都合によるものです。皇帝の統治下に置かれた人々は、自分たちの予定も暮らしも後回しにして皇帝の命令に従い、登録のために移動しました。ヨセフやマリアのように遠くまで旅をしなければならなかった人も多くいたのでした。

 

ヨセフとマリアも他の人々と同様、皇帝の命令に従わなければなりません。だから、故郷を出発し、先祖ダビデの町ベツレヘムへと向かいました。だから、妊婦であるマリアを、それも初産であり、出産の時が迫っている状態のマリアを連れて長旅をし、頼れる人のいない土地に向かいました。その時期、ベツレヘムの宿屋を既に埋め尽くしていた大勢の人々と二人は同じであります。ベツレヘムだけでなくローマ皇帝の領土の至る所で、皇帝の命に従うために望まない移動を強いられていた人々と、二人は同じであります。今現在、ウクライナで、ロシアで、この国で、世界中で、力を持つ人々の思惑と力の行使によって、居たい所に居られず、自分が属してきた家族や共同体から引き離され、不安を抱え、危機感を募らせている人々と、二人は同じであるのです。

 

ヨセフとマリアがベツレヘムに居る間にマリアは出産の時を迎えますが、宿屋には彼らの泊まる場所はありません。二人がベツレヘムに着いた時から宿屋にもう空きが全く無かったのか、それとも雑魚寝のようにして滞在する宿屋に夫婦二人ならば居られても、陣痛の始まったマリアが出産し、新生児の世話をしながら滞在できるような部屋までは無かったのか、聖書には詳しいことは何も記されていません。ただ、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」との結びの言葉が、聞く私たちの心に残ります。

 

ルカによる福音書はこれまで、ヨハネの誕生にまつわる出来事や、マリアに天使がマリアの受胎を告知する出来事、マリアとエリサベトの再会などをドラマティックに語り、状況を細かに描いてきました。時が来れば実現する神さまの言葉を信じられなかったザカリアが神さまによって沈黙を強いられ、そのザカリアの様子を人々が不思議に思う。エリサベトのお腹の中のヨハネは御子を宿したマリアの到来に躍り上がって喜び、エリサベトは声高らかにマリアを祝福する。歌も記されてきました。マリアの賛歌と呼ばれる歌をマリアが歌い、沈黙を解かれたザカリアは預言の歌を紡ぎます。今日の箇所の後にも、ダイナミックな出来事と歌が記されています。ベツレヘム郊外にいた羊飼いたちに主の栄光が照り輝き、天使が救い主の誕生を告げ、天の大軍と共に神さまを賛美する歌が響き、壮大な情景が力強く、劇的に語られます。

 

多くの人が驚き、戸惑い、喜び、歌い、神さまからの言葉と神さまからの光が溢れるこれらの出来事や歌は、どれも救い主の誕生を指し示します。その救い主の誕生は、説明も描写もそぎ落とされた僅かな言葉で述べられるだけです。歌も歌われません。ヨセフとマリアの言葉ですら何も記されていません。降誕の出来事そのものだけが、夜の闇に包まれたまま静かに起きていきます。聖書に聞く者が耳を澄まし、じっと見つめなければうっかり通り過ぎてしまいそうな小さな箇所です。

 

救い主の誕生は、神さまのご計画がいよいよ地上で実現される出来事です。これまで歴史を貫いて神さまがなさってこられた救いのみ業が、大きく推し進められる出来事です。その決定的な出来事である救い主の誕生が、人が期待してきたものからかけ離れていました。ダビデに勝る王、メシアとして来られる方は王宮で生まれ、王族たちに抱かれて民にお披露目されるのではないかと、そのように王としての華やかさを期待する思いが人の中にあります。あるいは、誕生の際に私たちを納得させてくれるような天変地異や、メシアの比類なき高貴さを証明するような特別な現象が起こり、そうして誰の目にも救い主の誕生が明らかになるのではないかと期待する思いもあります。しかし救い主は他の人々と同様に、世の力ある者の思惑や決定によって制約を受け、危機に直面するヨセフとマリアのもとにお生まれになりました。その日、ベツレヘムや他の町で起きていた他の出産と同じように、2,000年以上経た現在の私たちの出産と同じように、み子は親が置かれている状況が厳しければ厳しいほど母子共に危険を伴う、無事に生まれて来ることが決して当たり前のことではない出産を経て、お生まれになりました。他の赤ちゃんと同じように身を纏うものを何一つ持たない裸で生まれ出て、大人がケアしなければ直ぐに弱ってしまう赤ん坊としてご生涯を始めてくださいました。宿屋に泊まるところを確保できる特別な力は無く、先祖の町であっても頼ることのできる人とのつながりも持っていないヨセフとマリアを、神さまは救い主の両親としました。飼い葉桶を生涯の最初の宿り場とされたみ子は、場所も設備も物も人も知識も、初産の夫婦には足りないことばかりの状況でありながら、ヨセフとマリアの精一杯の備えである布でくるまれ、寒さや空腹に泣き続けることもなく、静かに眠っておられました。

 

ダビデ王の血筋に連なる者であっても、他の人々と同じように願う道を他者の力によって阻まれる悲しみや虚しさを味わっている、不安に襲われても不思議ではない大きな困難を抱えた夫婦が、神さまが救い主の両親とした二人でした。主の栄光の輝きはその目に明らかにはなっていないけれど、夜のベツレヘムの片隅で神さまの言葉に固く信頼し、自分たちの家庭にみ言葉が出来事となるため最善の備えをする夫婦が、神さまのみ子を布でくるんで飼い葉桶に横たえている、これがクリスマスのしるしなのです。

 

み子が横たわってくださったのは、赤ちゃんのためでなければ人間のためですらない、家畜の餌を入れる飼い葉桶です。当時石でできた物も使われており、私たちが思う以上に赤ちゃんを寝かせる場としてあり得ないものではなかったと言う意見もあります。そうであるならば、主イエスが横たえられた飼い葉桶に私たちは、ヨセフとマリアの特別な貧しさや、ヨセフとマリアに対する周囲の人々の特別に厳しく冷たい拒絶や、この家族の特別な孤立を見るよりも、主イエスは真に世の只中にお生まれになったことを見ることができるのではないでしょうか。ファンタジーの世界の中にではなく、私たちと同じ世に降られました。お金、人とのつながり、タイミング、何かが欠ければ誰もが陥る厳しい現実の中に天から降られました。人間の思いや行動の不完全さ、自己中心的な貪欲さ、自分を自分で受け入れられず、だから他者も受け入れられない孤独さが、人を罪の闇に惹きつける、聖書の時代の人々も私たちも置かれている混沌とした現実の中に、横たわり、宿ってくださいました。

 

ヨセフやマリアは、他に寝かせる適当な所が無いから仕方無いと、飼い葉桶を用いたのかもしれません。しかし神さまは、仕方なくみ子がそこに寝かされることに目を瞑ったのではありません。神さまが、飼い葉桶こそ救い主に最もふさわしい場所とされました。それは、天使を通して羊飼いたちに「これがあなたがたへのしるしである」と言われていることに現れています。飼い葉桶に救い主が眠っておられることこそ、神さまが私たちのために用意し、そのような形を取ってくださったしるしであるのです。

 

飼い葉桶の中に横たえられ、静かに眠る主イエスの姿を思い浮かべる時、岩を掘ったお墓の中に横たえられている主の姿を思うのは、自然のことであります。同じルカによる福音書が、アリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、岩に掘った墓の中に納めた出来事を記しています。お生まれになった時のように体に布を巻かれた主イエスは、岩のお墓を地上の最後の宿り場とされました。神さまが私たちに与えてくださった救い主、私たちの真の王であり神であられるみ子は、高齢になったからでも、思いがけない事故や病に見舞われたからでもなく、呪いの木である十字架に、命を捨ててくださいました。そして死んで石の墓に横たえられたのです。ガラテヤ書においてパウロが述べているようにそれは、「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて」わたしたち「異邦人に及ぶため」であり、「わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした」(ガラテヤ314)。それは預言者イザヤを通して神さまが告げられた、「地の果てまで、全ての人が私たちの神の救いを仰ぐ」(イザヤ5210)との約束の実現でありました。誰もが自分の意志の力や努力ではそこから自由になりきれない罪の力に捕らわれ、人間が罪から生み出してしまうものによって自分のみならず他者をも危険にさらし、苦しめ、望む生き方から引き離してしまう、地上に広がる罪の闇の只中に主イエスは降られ、お生まれになりました。その地上を、十字架の死に至るまで歩まれ、ご生涯と命を全てかけて歩みを貫ぬかれました。そうしてアブラハムに与えられた神さまの祝福を、ユダヤの民にも私たち異邦人にも、地の果てまでもたらしてくださいました。

 

 

人の罪が生み出すものは、こんなにも悲惨なものなのか、罪によって引き起こされた争いや亀裂は、こんなにも修復が困難なものであるのかと、思い知らされてきた一年でありました。自分も含め、人の他者への思いの移ろいやすさが時間の経過と共に浮き彫りになってしまう現実があります。人の罪が引き起こす問題の深刻さ、多さに対して、一人一人の心は小さ過ぎて、浅過ぎて、不確か過ぎる現実があります。救い主は飼い葉桶と言うこの現実の中に、宿ってくださいました。私たちはしばしば、キリストが共におられること、神さまが祈りに耳を傾けておられることが見えてこないと嘆きます。王宮のバルコニーや、耳目を驚かすような大きな出来事にキリストを捜してしまいます。自分の中で造り上げた自分の願いをかなえてくれる救い主、自分の闇とも、世の闇とも対立しない救い主を探しては、いないではないかと、祈りが聞かれないではないかとつぶやきます。けれど羊飼いたちは、「あなたがたは、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と告げた天使の言葉に従って行動し、確かに救い主を見つけることができました。華やかさも圧倒するような現象も無い、静かに眠るみ子を見つけるために、羊飼いたちは既に告げられた言葉に心の内で何度も耳を傾けたことでしょう。神さまの眼差しを通して見るように、内なる目を凝らしたことでしょう。そうして彼らは夜の闇の中にみ子を見出したのです。私たちも、救い主が降られたこと、聖霊において今も共におられ、救いの御業を推し進めておられることを、見出すことができます。「民全体に与えられる大きな喜び」は私たちにももたらされています。飼い葉桶の中に身を沈め、十字架の死に至るまでへりくだられた救い主が、私たちの混沌とした現実の奥底にまで降ってくださいます。罪と死に打ち勝たれた救い主への信仰によって、主なる神を共に仰ぎましょう。