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人の目によってではなく

「人の目によってではなく」サムエル上16413、Ⅱコリ4513

20221016日(左近深恵子)

 

 イスラエルの民は、神さまによって奴隷の地から導き出され、神さまから約束されていたカナンの地に入り、そこに定住して暮らすようになりました。次第にイスラエルの民の中に、周りの国々のように自分たちも人間の王によって統治される国になりたいという思いが募り、とうとう神さまはその願いを受け止め、王を与えてくださいました。ただし、神の民の王は、人々が自分たちで望むような人物を立てて王とするのではなく、また強い者が他の者との闘いを勝ち抜いて王の座を手に入れるのでも無く、神さまが選び立てられます。神さまはサムエルという指導者を通して、最初の王サウルを立てました。サムエルは神さまのご指示に従ってサウルに油を注ぎました。油を注ぐと言う儀式は、神さまがその人をお選びになり、立てられるということを表すものでした。そしてサムエルはイスラエルの12部族を集め、神さまがサウルをご自分の嗣業の民の指導者とされたことを告げました。王の誕生に喜び叫ぶ民にサムエルは改めて、人間の王は、神さまのご意志の下で初めて民の王とされることを語り、それを書に記して主のみ前に納め、王も民も神さまのみ前で絶えずみ心を求めることの大切さを示したのでした。

 

 こうしてイスラエルの初代の王に選ばれたサウルは、周囲の強い民からイスラエルの民を守る王として、有能であったようです。海岸地域の拠点からイスラエルの民も暮らす内陸へと進出し、脅威となっていたペリシテの軍に対抗するため、強力な戦士で固めた常備軍を編成し、ペリシテの守備隊を破り、海岸平野に追い返すことに成功しました。しかし本拠地のペリシテ軍はほぼ無傷のままであり、いつでも再び内陸に攻め込める状態にありました。サウルは戦いにおいて何度か成果をあげることができたものの、次第に神さまのご意志から距離を置くことも出て来ます。ある戦いにおいて、サウルは神さまが告げられたことより、自分自身の思いや判断を優先させ、神さまのご意志に従わない王であることが決定的に明らかになり、主はサムエルに「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ」と告げられます。サムエルは夜通し主に向かって叫び、主のみ心を必死に尋ね求めました。そして翌朝早くサウルを訪ねます。しかしサウルは自分が主のご意志に従い通さなかったことの責任を部下に転嫁し、神さまのために部下たちがしたことだと、神さままで巻き込みました。サウルは、神さまに選ばれたことで王とされていることの重みを忘れ、神さまも、神さまのご意志も軽んじたのだと、サウルの罪をサムエルが明らかにしても、主のみ言葉に聞き従うことができず、それよりも今後部下からどう見られるかを重んじているサウルに、とうとうサムエルは「あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられた」(1526)と、主の決定を告げました。

 

 サウルにとってサムエルが告げた主のご意志は、受け入れ難いものであったでしょう。サムエルにしても、サウルが王としてふさわしくない者であることを目の当たりにし、主のご意志を当のサウルに告げてもなお、受け止めることの難しい思いを抱えていたでしょう。人間の王を望むイスラエルの民に王政と王が与えられ、その大きな転換期に神さまに遣わされ、サウルを王として立てたのはサムエルです。人間の王を持つことの弊害を知りながら、神さまに従って、サウルに油を注ぎ、サウルを立て、人々に王の権能は神さまの下にあることを語ってきたのです。そのサウルがふさわしい者でなくなってしまった現実に、サムエルも苦しんだのです。どれだけ思い悩む時が続いたことでしょう。とうとうサムエルに、再び主が語り掛けられました。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか」。聖書協会共同訳では「いつまであなたは、サウルのことで悲しんでいるのか」と訳されています。サムエルの悲嘆の深さを主はご存知であり、サムエルも、主のみ前に嘆き悲しみを注ぎ出してきました。もう十分あなたはサウルのことを嘆き悲しんだ、次へと進む時だと、「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイの下に遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべきものを見出した」、次の王を立てるために踏み出しなさいと呼び掛けられたのです(161)。

 

けれどサムエルは「どうして私が行けましょう」と抗います。主は既にサウルをイスラエルの王位から退ける決定をされていますが、サウルはなお王としてイスラエルに君臨しています。主がサウルからイスラエルの王国を取り上げると決められたと聞きながら、なお王位にしがみついているサウルです。サムエルが別の人を王として立てようとしていると知れば、王に対する反逆と取るでしょう。サムエルは「サウルが聞けばわたしを殺すでしょう」と、しり込みします。主は新しい出来事を起こそうとしておられるが、今がその時だとは到底思えないのです。恐れるサムエルに主は、ベツレヘムで礼拝を司るため、そこに行くように告げます。祭司であるサムエルにとって、犠牲を捧げ、礼拝を司るのは当然の務めであります。主の言葉に従い、サムエルはベツレヘムへと行きました。

 

ベツレヘムの人々も、サムエルがサウル王に主の決定を告げたこと、そのためサムエルとサウル王の関係は以前のようなものではなくなっていることを知っています。サウル王から非常に警戒されているはずのサムエルが自分たちの町にやって来た、このサムエルを迎え入れたら、自分たちまでサウル王の敵意の対象となってしまうのではないかと不安を募らせ、町の長老は、「おいでくださったのは平和なことのためですか」と、来訪の目的を問います。サムエルは「平和なことのためです。主にいけにえをささげに来ました」と答えます。敵意に捕らわれた王、恐怖にしり込みする自分、不安に襲われるベツレヘムの町の人々、平和を作り出すことができない者たちですが、主が招いておられる礼拝において、平和がもたらされるのです。

 

サムエルは、エッサイの家の客となったのでしょう。サムエルは礼拝を司ると、いけにえの会食にエッサイの息子たちも招きます。主が見出された王となるべき息子を見極めようとしたのです。

 

サムエルは、エッサイの家族と共に食卓を囲みながら、どのようなことを思っていたのでしょう。サウルが属するベニヤミン族も小さな部族でしたが、エッサイが属するユダ族も大きな部族ではありません。母集団が大きければ大きいほど、王に相応しい人物を見出せる確率が高くなると思うのが人間の判断でありますが、主は、小さなものを顧み、王をそのような家から出そうとされる方であります。

 

このエッサイという人の名前が、サムエル記の前にあるルツ記の結びで述べられています。ルツ記によると、ルツはモアブ人であり、イスラエルの民から見れば異邦人でした。その頃ベツレヘムを襲った飢饉から逃れるため、ナオミと夫はベツレヘムからモアブに移住しますが、やがて夫は死んでしまいます。ルツはナオミの息子と結婚しましたが、子どもに恵まれないままルツの夫も死んでしまいます。するとルツは、モアブの里に帰るよりも、姑ナオミが崇めるイスラエルの神に自分の生涯を委ねて、ナオミと共にナオミの故郷ベツレヘムへと移り住むことを決意します。やがてベツレヘムでルツはナオミの親族のボアズの妻となり、子どもにも恵まれ、その子をオベドと名付けます。このオベドの子どもがエッサイです。若くして夫と死別した辛い出来事を経て、信仰へと導かれ、神さまに生涯をささげようとする勇気と決断によって、夫となる人と出会い、新しい家族を与えられたルツです。このルツが、後のイスラエル王の祖父となる子どもの母となったことを記して、ルツ記は結ばれています。エッサイの家は、人の目には小さな部族の中の一つの家庭に過ぎませんが、信仰においてイスラエルの民だけでなく異邦人も加えられて、共に紡いできた歴史を持っています。人の思いや人が見ることのできる視野を超えて、人々を見つめておられる主は、この家族から王を選び立てられたのです。

 

サムエルはエッサイの息子たちがやってくると、先ず長男のエリアブに目を留め、この人こそ主が選ばれた人に違いないと思います。しかし、サムエルがエリアブの容姿や背の高さに目を向けて、そう判断したことをご存知の主は、エリアブではないと、「人は目に映ることを見るが、主は心によってみる」と言われます。聖書協会共同訳では「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」と訳されています。他の息子たちも一人一人見てきましたが、主がお選びになった人を見つけることができず、サムエルはエッサイに、あなたの息子はここに居る人がすべてかと問います。するとエッサイは、末の子は羊の群れの番をしていると答えます。末の息子は、祭司サムエルが招く、礼拝に続く特別な会食に連なる年齢には達していないと、エッサイは判断していたのです。連れてきてもらった末の息子に会うと、主はサムエルに、「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」と言われます。そこでサムエルは油を満たした角を取り、他の兄弟たちが見守る中、その子に油を注ぎます。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになったと、聖書はここでようやくダビデと言う名前を述べます。親が祭儀の食卓に着くことができる者としてカウントしていなかった少年を、主はご自分の民の王として選ばれていた、こうして名前と共にダビデはイスラエルの歴史に登場したのです。

 

主がダビデを選ばれたのは、人が見るようには見ないからだとあります。ダビデは素晴らしい外見を持っていましたが、それが、主が選ばれた理由ではありません。人は他者を表に現れているものによって、判断をします。容姿や背の高さや、表に滲み出ている内面をうかがわせる情報もかき集めて、自分なりの評価をします。人が誰かについて得られる情報は限られていて、偏っています。それらを合わせて、私たちのこれまでの経験や思いを基にして最善の判断をしようとしますが、不確かさ、不十分さ、アンバランスさが付きまといます。私たちも、主のご意志に適う判断をしたいと願っています。しかしサウル王が有能でありながら次第に利益を求める思いを判断の中に混ぜ込み、主の言葉よりもそれらを優先してしまっていたように、私たちは判断の基に利益や自己保身、自分なりの優先順位、好みや妬みなど、濁ったものを混ぜ込んでしまうのです。

 

主は、ただそのみ心によって、人を見ておられます。どのような力にも支配されない自由なみ心で人をご覧になり、人を選ばれ、救いのみ業のために用いられます。主がイスラエルの民をご自分の民とされたことを、申命記76以下はこのように述べています、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力あるみ手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申命記768)。人の側に選ばれる理由があるからではなく、主が人を愛の心でご覧になって、人をご自分の宝の民とされたのだと、驚くべき選びが告げられています。その選びは、主が定め、誓ってくださった、救いのご計画を守るためであったと。私たちは、主から新たなみ業を示されるとき、それは自分が望むタイミングではないと、今はまだ無理だと思うかもしれません。既に主に従って頑張ったけれど上手くいかなかったではないですかと、しり込みするかもしれません。主が人を選び招く順番は理解し難いと困惑し、選びのバランスが自分の感覚と同じでないと戸惑うかもしれません。それは当然とも言えます。罪から自由になりきれず、他者より先んじて選ばれるような、他者より特別に優る理由を内に持っていない私たちを、こうしてご自分の元へと招いてくださったのです。信仰に生きることへと導いてくださり、そして主が招いておられる他の人々を主の体なる教会へと招くために用いようとしてくださっているのです。そのようにして、愛と赦しと慈しみと信頼を私たちに注いでおられることは、決して当然のことではないからです。

 

 

伝道者パウロは、旧約聖書の様々な表現を土台に、人は土の器であると述べます。神さまの憐れみを受け、務めを委ねられている土の器であると。私たちは、主なる神によって土の塵で造られ、やがて時が来れば土の塵に帰っていく存在、裸で母の胎を出て、裸で帰っていく存在です。陶工が地面に投げつければ、あっという間に粉々に砕け散る素焼きの器のように脆く、自分自身で中身を作り出すことも、満たし続けることもできません。神さまはご自分の宝を頑丈で立派な器にではなく、この土の器である私たちの内に納めてくださっています。私たちをみ心によってご自分の「宝の民」とされた主が、私たちに宝を委ねてくださっています。私たちは内に、主から委ねられている、救いのみ業のための務めを抱いています。この務めは、神さまが私たちをただみ心によって招かれ、イエス・キリストの十字架と復活によって救いに与からせてくださるという、福音を証しするものです。並外れて偉大な神の力が、脆い私たちを内側から強め、生かし、福音の輝く光が、素焼きの器のように欠け多い私たちを内側から照らします。死ぬはずのこの身が、イエス・キリストの命が現われる器とされます。私たちの内側に納まりきらないこの宝を、誰かと分かち合うことを、主は求めておられます。私たちの罪を全て担って死なれた主イエスを死者の中から甦らせ、主イエスにつながる私たちをご自分の霊で満たしてくださる神さまが、私たちを生かし、力づけ、嘆き悲しみ、途方に暮れる思いも受け止め、新たに立ち上がらせてくださいます。礼拝の度に、平和を与えてくださいます。週ごとに神さまのみ心に立ち返り、神さまに道を示され、復活の主の命を現すものとして再び歩みを新たにする者でありたいと願います。