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私は主、あなたの神

出エジプト20117、ガラテヤ51「わたしは主、あなたの神」

2022821日(左近深恵子)

 

 「十戒」というタイトルが今日の出エジプト記の箇所に付けられています。「十の戒め」という漢字から規則集のようなイメージを抱きがちです。しかしシナイ山で主なる神がモーセに十戒を告げてくださった時のことを、出エジプト記201は「神はこれらすべての言葉を告げられた」と記しています。神さまから与えられたのは、規則と言うよりも神さまのご意志を現す言葉です。その言葉は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(202)と始まります。奴隷の家から導き出された民に、神自らが語られた言葉であります。

 

山上で神さまから先ずモーセがこれらの言葉を受けましたが、それは、民が関わらないところで起きていたのではありません。これらの言葉を語る前に、山の麓に宿営していた民に神さまはモーセを通して、ご自分が三日後に降ることを告げられました。そして、そのための備えをさせました。備えは、民を聖別し、衣服を洗わせ、ご自分が降られる山と民が居る麓の間に境を設けさせることでした。そうして神さまは民の前で山に降られ、モーセを山の頂に呼び寄せられ、モーセに十の言葉を語られました(19925)。自分たちの所に来られ、語られる神さまのために備える民と、神さまとの交わりにおいて、十の言葉は与えられています。それは私たちが今捧げている礼拝の在り方と重なります。「わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ1820)と言われた主が共にいてくださり、主の言葉が語られる礼拝の時のために私たちは備え、礼拝の日が来ると神さまの招きにお応えしてみ前に集まっています。十の戒めは、礼拝とも言える神さまとの生きた交わりの中で、聞く備えをする人々に、神さまが自ら告げてくださった言葉であるのです。

 

これらの言葉が、「あなたがた」ではなく「あなた」と呼び掛けていることにも、ハッとさせられます。「私は」「あなたの」「あなたを」と、神の民一人一人に呼び掛け、ご自分を現され、相対してくださいます。このような近しい、親しい交わりの中に置いてくださる主によって、私たちは隣人との結びつきも、互いに神の民とされているものとして受け止めることへと導かれます。

 

神さまは最初に、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と言われました。“あなたの主は、わたしだ、あなたの神は、わたしだ、あなたを奴隷として捕らわれていたところから導き出し、自由に至る道を与えてきた私が、あなたの神だ”と、だから「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、“わたしをおいてほかに、神があるはずがないだろう?”との言葉が続きます。「わたしは主」という言葉を、民はこれまで幾度も聞いてきました。当時世界最強と見なされていたエジプトの、王であるファラオと、ファラオに追従する人々の力から、神さまが救い出してくださる日々の中で聞いてきたのです。真の主は、自分たちを救われた方なのだと、イスラエルの神さまはカナンの地だけでなくファラオが支配するエジプトの地においても神さまであるのだと、知るようになることを神さまは求め続けてこられました。そして最後はういごの災いに至る、様々な災いと、過越しのみ業によって、死の力の只中からイスラエルの民を救い出され、追って来たファラオの軍勢からも葦の海を二つに分けて救い出され、昼には雲の柱、夜には火の柱をもって導かれ、必要な水と糧で養われてきました。神さまが与えられた命に生きることができる道を示して、ここまで導いてこられました。そして再び、「私は主、あなたの神」と告げられます。“奴隷の家から導き出したわたしがあなたの神ではないか、そのわたしがここにいるのだよ”と。この民だけでなく、神さまによって救い出されたことを知っている人、神さまが拓いてくださった自由に至る道を、神さまから与えられた命に生きようとする人は誰でも、“あなたの神は、このわたしだ、わたしはここにいる”と呼び掛けてくださる神さまの10の言葉に、礼拝者として耳を傾けるのです。

 

神さまはここで、ご自分はこのような方であると先ず言われて、だから「わたしをおいて他に神があってはならない」「他に神々があってはならない」と第一の戒めを告げておられます。第一の戒めだけが最初の言葉に続くのではなく、すべての戒めの土台に最初の言葉があり、“だからこうしてはならない、だからこうしなさい”と言われています。 “だから、いかなる像も造ってはならない”、“だから、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない”、“だから安息日を覚えて、これを聖別しなさい”、“だから、あなたの父母を敬いなさい”、“だから、殺してはならない”、“だから、姦淫してはならない”、“だから、盗んではならない”、“だから、隣人について偽証してはならない”、“だから、隣人のものを欲してはならない”と。これらの戒めによって、神さまではないものを神とする生き方を退け、隣人の命や家族や生活を貪らず、隣人が神さまからいただいている祝福を守る生き方を示します。教会は十戒を「主の祈り」「使徒信条」と併せて三要文と呼んで、世々の聖徒と共に告白する信仰の要に据えてきました。この十戒の一つ一つの言葉を、私たちが今どのように受け止め、どのように自分の歩みの道標とするのか、真摯に問えば問うほど、簡単には答えの出ないことも多々あります。だからこそ、これらの言葉の土台に私たちも立つことがいつも出発点となります。「わたしをおいて」と訳されている言葉は、「私の顔の前に」という言葉であります。「私の他に」「私を超えて」「私を無視して」と様々に訳すことができる表現です。神さまと自分との関わりにおいて、神さまでは無いものを神としてはならない、神さまを超えるものがあるとしたり、神さまを無視してはならないと、言われています。「他に神があってはならない」と訳されている言葉は、「他に神があることはない」と訳すこともできます。神さまをおいて、他に神があることはこの先もあり得ないのだと言われていると、訳すこともできるのです。この戒めは、“他の素晴らしい力をもったものに目もくれてはならない、それらを全て否定せよ”と、私たちを縛り付けるような命令ではなく、私たちの所に来られ、私たちと共におられるご自分との交わりに身を置き、ご自分の方へと全身を向けなさいと、ご自分が為さってきたことを思い起こしなさいと、そうであれば私の前で他のものを神としたり、私を無視するようなことはあり得ない、あり得ないことをあなたはすることはないのだと、教えるのです。

 

十戒は、罪と死が支配するところから、自由に至る道へと導き出された民に、この道をどのように生きていくのか示します。その冒頭、先ず神さまがご自分はこのような方であると示されたことの重みを考えさせられます。そのようなこと、シナイの山の麓に居る人々は良く知っているはずではなかったのか、そう思いながら、しかしまたここに至るまでの彼らの旅を振り返り、そうとは言えないことに気づかされます。奴隷の家を後にし、約束されたカナンの地へと向かう旅路を、神さまは海沿いの近道ではなく、葦の海に至る迂回路へと導かれました。それは、民が海沿いに住むペリシテ人と戦うことを恐れて、奴隷でいた方がましだったと引き返すことを見越しておられたからでした。そうして葦の海に辿り着いた民は、追ってきたファラオとその全軍を恐れ、奴隷でいた方がましだったと、自分たちはエジプトに居たいと言ったではないかと、モーセや神さまにこの困難な状況の責任を押し付け、詰りました。その民の目の前の海を神さまが2つに分けてくださり、ファラオと軍勢の力から救い出してくださいました。絶望的な状況の中で民は、どなたが自分たちの主であり神であるのか知りました。それでも、その後、困難な状況に見舞われるとこの民は、目に見えない神さまのお力と、奴隷の生活をてんびんにかけては、奴隷でいた方がましであったという考えに引きずられます。労働力という道具としてのみ存在を許されて自由を奪われてきた人々が、人として自由の内に生きることへと導き出された、そのために神さまが自分たちのために何を為してこられたのか、神さまがどのような方であるのか、この民は知っているはずなのに、知っていることに立ち続けることができない者であることを、神さまはよくご存知です。この民だけでなく、なぜ十戒の冒頭で、ご自分がどのような方であるのかわざわざ言われるのだろうかと思う私たちも、神さまに救い出され、導き出され、守られ、養われ、ここまで導かれてきたことを受け止め続けることに脆い者であります。奴隷の家から導き出された人々が、また自分を縛る力から救い出された全ての人が、神さまが示される狭き道を行くよりも奴隷の家の方がましだという考えに引きずられてしまうことが無いように、神さまは「わたしは主、あなたの神」と、“あなたを奴隷の家から導き出したわたしがあなたとここにいる”と、先ず告げてくださっているのです。

 

十の戒めには、神さまのみを神さまとし、神さまが与えてくださった命と自由の内に日々歩んでゆくことを私たちに願っておられるみ心が溢れています。この戒めを守らない者に対してはこのような罰を与える、といったことは言われていません。守らないということは前提になく、この道を歩むことだけを願っておられます。私たちの歩みに期待と信頼を寄せてくださっている神さまが、イスラエルの民の、そして私たちの、これまでの挫折や不安定な歩みを全てご存知の方であることに驚きつつ、畏れを覚えます。

 

主イエスも、教えの土台として十戒に言及しておられます(マタイ191819)。十戒はシナイ山で神さまが与えられた律法の最初に示されたものであり、律法の基本となっているものでありますが、主イエスはその律法を廃止するためではなく、完成するために来られたとも言われています(マタイ517)。十戒やそれを含む律法が指し示すのは、神さまがご覧になっている道です。十戒は一つ一つの戒めを守ることによって、救いを獲得するものでもありません。既に神さまは民を救い出されています。ご自分との交わりの中に民を導き入れてくださっています。その上でご自分が民の神であると、この先もあなたがたの神であると約束してくださっています。十戒は、この神さまが目指しておられ、ご自分の民に与えてくださっているゴールを、神さまの眼差しを通して見遣る姿勢を私たちに与えます。

 

 

神さまがご覧になっているすべてを私たちが見ることは勿論できません。ただ、出エジプトの出来事と十戒から、神さまの救いのみ業は、大きな力から導き出されるという自由を、与えるためだけのものではないことを知ります。そのような自由は、脆さを抱えています。そこから導き出されたのに、神さまの道を歩み続けるよりも、そこへ戻ろうとしてしまう思いが人の中に沸き起こってしまいます。神さまではないものを神としてしまうこのようなこころを退けるために、神さまは十戒を与えてくださいました。そして、その救いのみ業を成し遂げるために、み子を与えてくださいました。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とサタンに告げられたキリストは(マタイ410)、自ら、全身全霊をもって、ただこの神さまを愛すること、信頼し、この神さまだけを畏れて生きることを貫き、その道を十字架の死にまで、貫いてくださいました。そうして、私たちがその後に続いてゆくように道を切り開いてくださいました。この主なる神さまだけを神とする道に生きる時、どのように大きな力をもって私たちを束縛するものも、どれほど大きな悩みも、どんなに混沌とした不安も、私たちの心を完全に埋め尽くすことはできません。神でない力が、私たちを支配し、私たちの神や主となることはできません。私たちにはキリストによって、すべてのものからの自由が、どのような力に拠っても奪われることの無い自由が与えられています。ガラテヤ書が「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(51a)と述べている通りです。キリストは私たちに自由を放棄させるために自由の身にしてくださったのではないのですから、この自由を得、この自由の中を生きていきなさいと、「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(51b)と言われています。聖書協会共同訳は「しっかりしなさい」を「しっかりと立って」と訳しています。どのような時でも奪われることの無い自由が与えられているのだから、どのような時にも、しっかりと、救いのみ業に立ちなさいという、厳しくも温かな呼びかけです。十戒に現されており、キリストの十字架に最も明らかになった神さまの赦しと神さまの熱情に、響き合うような呼びかけが、私たちのこころにも響きます。このみ言葉に促され、み言葉に聞くために備え、私たちを縛るものから解き放つ福音の言葉に心を開き、繰り返し信仰に立ち直すことを求めてまいりましょう。