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何をもってしても

2022.7.31.主日礼拝

イザヤ7:9-15、ローマ8:36-39

「何をもってしても」浅原一泰

 

「エフライムの頭はサマリア、サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなた方は確かにされない。」

主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しかし、アハズは言った。「私は求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。」

 

「わたしたちは、あなたの為に一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてある通りです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 

 

シエラレオネという国がある。アフリカ大陸の西側、大西洋に面した、赤道よりほんの少し北に位置する人口800万人弱の小さな国である。この国は世界でももっとも質の良いダイヤモンドの産出量を誇る。しかしながら、今でこそ回復基調にあるが20年前はこの国の平均寿命は世界で最も低く、男性は何と32歳、女性は35歳。その頃は人口も500万人ほどであった。それは内戦状態が10年以上も続いてしまった結果であった。従ってダイヤモンドによって得られた収益も国民の豊かな生活向上のために使われることはなく、すべて武器を購入するために流れた。政府側と対立する反政府勢力の両者にとって、ダイヤモンドは武器を買うための格好の資金源だった。敵の足をくじこうとして、政府が管理するダイヤモンド採掘現場に突如、反政府側の兵士を乗せたトラックが止まり、そこで働いていた労働者のある者は殺され、ある者は採掘できないように腕や足を切断された。驚くべきことにその兵士たちはまだ中学生か、小学生高学年くらいの子供だったという。

 

なぜそんなことが起こっていたのか。子ども兵士となった15歳のある少年の証言によれば、住んでいた集落に突然、反政府側のトラックがやってきて、子供を差し出せと父親に迫った。拒否する父親をいきなり彼らは射殺し、強引に少年を彼らのアジトに連行する。そこで銃の使い方や攻撃のテクニックを無理矢理教え込み、とどめに少年たちの目の下に切り傷をつけ、そこに麻薬を塗り込んでいく。塗られた少年たちは冷静さを失い、人を殺さずにはいられなくなってしまう殺人マシーンと化していった。反政府側の掟では、上官の言うことは絶対であり、逆らったら即、殺される決まりだったらしい。そこには恐怖と威嚇、暴力、脅迫によって部下を操るシステムが出来上がっていた。そしてそれに一度呑みこまれてしまうと、そこから抜け出すことは極めて難しい。

 

反対する者を抑制し、敵対する者を排除もしくは絶滅させたその時こそ初めて平和は訪れて理想の国は完成し、庶民は思い通りに暮らせるし指導者は思い通りに治められる。そのために必要な武器を揃えようとか、また武器を供与して友好国を助けようと指導的立場にある権力者が声高に訴え、世論がそれを支持するというシステムは今現在も実際に機能している。人間が考えつく平和というのは、大なり小なりの違いはあろうが結局はその域を越えられていないのかもしれない。ウクライナの悲劇を五か月以上も見ている内に、強いものが勝ち、弱いものは倒され、踏みにじられるしかないのか、周囲の世界は口は出すもののロシアの暴走を止めることは出来ないのか、所詮は現実とはそういうものなのか。そんな諦めに近い思いが何度もよぎってしまう。

 

ただ、そういった我々人間の予測や思惑と、未来を信じることとは全く次元の違うことのように思う。先ほど紹介したシエラレオネの少年兵士について我々はついこう予測する。彼らの人生は崩壊している、あのまま組織のコマとして殺人を繰り返すだけだろうと。しかしその予想を覆すことが起こった。少年兵士たちの中に、これは間違っている、人として自分はしてはいけないことをしている、そう気づいて必死になって反政府グループから逃げたムリアという少年がいた。来る日も来る日も走り続けた疲労と空腹で一歩も動けなくなり、カトリックの教会の前でへたり込んでいると、そこで一人の神父に声をかけられムリアは安全な隠れ家へと案内される。これで安心かというとそうではなかった。それまでの追っ手に捕まらないよう走り続ける肉体的な疲労は勿論だが、更に麻薬を断ち切る為の禁断症状との戦い、そして、かつて自分が傷つけ死なせてしまった被害者の家族が幻となって現れ、自分に復讐してくる夢にしばらくはうなされ続けた。苦しさに耐え切れなくなってムリアはその時、自ずと何度も何度も神に祈っていた。それは既に、神がムリアに「主なるあなたの神にしるしを求めよ」と語りかけていたからかもしれない。だからこそムリアは立ち止まらされ、逃亡を決意し、禁断症状に苦しみながらも麻薬と妄想を断ち切る為に必死に祈り始めたのかもしれない。

 

 

その言葉が出てくるイザヤ書7章は、2700年以上前の歴史的現実を背景としていた。あのダビデによって築かれたイスラエル王国が南北に分裂していたこの頃、大国アッシリアが不気味に領土を広げようとしていた。それに対抗しようとしてシリアの王とイスラエルの北王国(それがここではサマリア、またはエフライムと呼ばれる)の王が結束し、南王国にも自分たちに加わるよう脅しをかけ、軍勢を率いてエルサレムを包囲した。そこに出てくるアハズとはイスラエル南王国の王である。そのアハズに預言者イザヤを遣わして神はあの言葉を言わせる。「信じなければ、確かにされない。」そして「主なるあなたの神にしるしを求めよ。深く隠府の方に、あるいは高く天の方に」と。死も命も、すべてを治められる主にすべてを委ねて、未来を信じよ、というそれは招きであった。しかしアハズは答える。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」謙虚なふりをしながら、アハズは神を頼ろうともせず、信頼もせず、既にこの時、ひそかにアッシリアの王に手紙を送っていた。あなたに従うのでシリアとエフライムを滅ぼして下さいと頼んでいた。エデンの園のアダムのように、アハズも「食べたら死んでしまう」という神の声を軽んじて、それよりも「こうすれば死なずに済む」と考え、蛇ならぬアッシリアを頼った。「あなたは人間にだけでなく、わたしの神にももどかしい思いをさせるのか」、そう神がイザヤに言わせたのはそれを見抜いておられたからである。このアハズと先ほどの少年ムリアとには決定的な違いがある。それは、アハズは決して祈らなかった、ということである。「主を試すようなことはしない」などと信心深そうなことを言いつつもアハズは腹の中では大国アッシリアにすがり、そう決めた自分の判断に頼り、アダムのごとく神から姿を隠していた。一方のムリアも、自分で祈りたくて祈ったわけではなかったと思う。祈るどころではなかっただろう。神から隠れる知恵も気力も湧いてこないほどの絶望的なところへとムリアは追い詰められ、打ちひしがれていたと思う。

 

誤解のないように言っておきたい。人間には祈りたくても祈れないことがある。それでも神は赦している。祈りを知らない、という未信者の無邪気な状態はもちろん、祈る気にどうしてもなれない時がクリスチャンには必ずある。それでもその人を神は赦して、招いている。一人一人を、味方であろうと敵であろうと無気力であろうと関係なく、すべての人間を神は愛している。やはり先ほど読まれた新約、ロマ書8章で告げられていたのはそのことだったと思うのだ。

 

 先ほどはローマ8:36節から読んでいただいたが、その一つ前の35節にはこう書かれていた。「誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」。キリストの愛、神の愛に誰も人間は気づけない。知ることも理解することも出来ない。従って自分で自分をその愛の中に置くことなど誰にもできない。ただ神のみが人間をご自身の愛の中に招き入れ給う。人間は誰一人としてそのことに気づかない。しかし20年前のシエラレオネで、絶望しかなかった元子供兵士のムリア。その彼に剣、苦しみ、飢え、悲しみ、危険のすべてが束になって襲いかかっても、彼を立ち止まらせ、悔い改めさせ、祈らずにはいられなくさせたのは神ではなかったか。お前は闇ではなく光に向かって生きるのだ、生きてよいのだ、とムリアに言い聞かせ、立ち直らせ、ついに祈りへと導いたのは、まさしくキリスト・イエスにおいて示された神の愛に他ならなかったのではなかったか。

 

先ほどの聖書は言う。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も」。これらすべてが唯一の真の神から目を背けさせる世界のリストアップである。そこでは神を忘れさせるために常に偽りの神々がひしめき合っている。そしてそこで力を握った者が人間を神から引き離そうと剣を、艱難を、危険をチラつかせて襲いかかってくる。アハズはこれに屈した。アダムもそうである。誰がそれを非難できよう。ワクチン欲しさに前後見境なく慌てふためいた私たちも同じだと思う。「信じなければ確かにされない」。しかしそれができない信仰の貧しさ、乏しさを私は嫌という程実感してきた。しかし神はそれも分かっている。それでも神は人間を赦し、愛している。だからこそ神はイザヤにこう言わせていた。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」

 

 

これはクリスマスの預言である。キリスト誕生の預言である。もっと突っ込んで言えば、他ならぬあなた自身の中にキリストが産声を挙げられるという預言である。それは「もはや生きているのは私ではない。キリストが私のうちに生きておられるのだ」(ガラテヤ2:20)、そのことに目開かせ、気づかせようとする神の声である。「信じなければ確かにされない」。しかし誰もがそれができていない。そのすべてを見抜いておられるからこそついに神は人となられた。人となった神キリストがすべての苦しみ、痛み、悲しみを背負われている。裁かれるべきムリアの代わりに、裁かれるべき我々の代わりに神の怒りの裁きを自ら受けて十字架の死を遂げて下さっている。滅ぶべき命にしがみついていた我々を新しい命へと生まれ変わらせるために神はキリストを死から復活させておられる。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」。これはまさしく、あなたに向けられたこの神の愛を遮ることなど、何をもってしてもできないという宣言である。「信じなければ確かにされない」と言われていたが、今やこの愛を信じて良いのだ、と神は語りかけておられる。求めておられる。このキリストをわれらの中に宿らせてまでして、何をもってしてもあなたを神の愛から引き離すことなどできないのだと今、改めて神は我らの目を開かせようとしてくださっている。我々を神から引き離そうとする諸々の力は勢いを増しているように思えてしまう。しかしムリアを振り向かせた神は生きておられる。我々も何をもってしても揺らぐことのないこの神の愛によって未来を信じ、神の国の完成を待ち望む群れへと導かれたい。