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格闘する信仰

創世記322331、詩編67、Ⅱテモテ31417「格闘する信仰」

2022710日(左近深恵子)

 

 母親の胎に居た時から既に、双子の兄と激しく押し合い、出産の時には兄エサウの踵を掴んで生まれ出てきた子は、語呂合わせのように、踵「アケブ」を思わせる「ヤコブ」という名を付けられました。この、エサウの踵を掴むようなヤコブの姿勢は、長子の権利を巡る出来事に露わになります。双子は成長した時のことです。兄のエサウは野で狩りをする者となり、ヤコブは天幕の傍で働く者となっていました。ある日エサウが空腹で帰宅すると、ちょうどヤコブがレンズ豆の煮ものを調理しており、エサウは煮物を欲しがりました。ヤコブは煮物と引き換えに長子の特権を譲ってくれと持ち掛け、エサウが応じ、ヤコブは権利を得ることに成功したのでした。その後高齢になった父イサクが、自分の死の時に備えて、祝福をエサウに渡そうとしました。母リベカに促されたヤコブは、視力の衰えた父イサクの前でエサウの振りをして、兄の居ぬ間に祝福をかすめ取ったのです。

 

 ヤコブは、特別な立場や財産、家族と言った、目に見える豊かさを求めて長子の特権を手に入れ、それらの豊かさを生み出すことに直結すると期待して、イサクが次世代に渡そうとしていた祝福を欲したのかもしれません。しかしヤコブが父を騙して受け取った祝福は、神さまが祖父アブラハムに与えてくださったものでした。罪に支配されている全ての人に罪の赦しを与える祝福をもたらすために、アブラハムと、アブラハムに続く子孫を祝福の基とされたのでした。その意味を理解しきれないままヤコブは祝福への強い執着によって父や兄を欺き、神さまのお名前まで利用して、アブラハム以来この家族が受け継いできた祝福を手に入れました。その結果、ヤコブに殺意を抱くようになったエサウを恐れて家族と故郷を後にし、母リベカの故郷に向かいました。

 

 旅を始めたヤコブが、もうすぐ神さまが祖父アブラハムに約束されたカナンの地を出ようという時、神さまはヤコブに語り掛けてくださいました。長子の特別な権利と祝福を手に入れたのに、財産も家族も失い、身一つで旅するヤコブが野宿をしていた時、神さまは夢の中で、アブラハム、イサクに与えた祝福をヤコブとその子孫に与え、子孫を大地の砂粒のように大勢与え、この土地をその子孫に与え、世界の人々がヤコブとその子孫によって祝福に入ると、そして神さまは今後ヤコブと共にいてくださり、ヤコブがどこへ行っても守り、必ずこの土地に連れ帰る、ヤコブを決して見捨てないと、約束してくださったのです。眠りから覚めたヤコブは、主がこの場所におられるのに、自分はそのことを知らずにいたと恐れおののいて、その地をベテル(神の家)と名付けました。


 その後旅を続け辿り着いた母の故郷で、母の兄ラバンから幾度も欺かれる年月をヤコブは過ごしました。伯父ラバンはヤコブの労働力を得て、豊かさを手中にしようとし、そのためには、かつてヤコブが父や兄に対してそうであったように、手段を選ばずヤコブを欺きました。したたかなラバンとの戦いをヤコブは、チャンスを見極める勘や成果を産みだす裁量、忍耐し時に相手に挑む力を駆使して乗り越え、愛するラケルとその姉レアの二人の妻を得、多くの子どもたちにも恵まれ、多くの家畜や使用人も持つようになりました。やがて神さまはヤコブに故郷の地に帰りなさいと告げられ、ヤコブは家族と家畜を伴って、20年ぶりの故郷へと出発したのでした。

 

故郷に帰るということは、そこで暮らしている兄エサウと再会すること、かつての自分の罪と向き合うことでありました。“エサウは今も自分に殺意を持っているだろう、自分の家族も殺すかもしれない”と恐れ、ヤコブはエサウを宥めるために、出来得る限りの贈り物と挨拶を先にエサウに送って、再会の備えをしました。それから神さまに、「兄エサウの手から救ってください」と祈りました。“打てる手は全て打ったけれど、それで十分だとは思えない。だから兄の手から私を、そして子どもたちとその母親たちを救ってください”と、“あなたは自分に多くの子孫とその子孫のこの土地での繁栄を約束してくださった。そのあなたがこの状況に関わってください”と、祈りました。かつては杖だけを頼りにこの川を渡ったヤコブは今や、大勢の家族と沢山の財産に恵まれ、二組の宿営を持つまでになっています。しかし財産の豊かさをもってしても、それで兄の怒りを鎮めることはできないと分かっています。これまでチャンスを見極める勘や、他者を欺く知恵や裁量、忍耐する力や相手に挑んでゆく力を駆使して、危機を乗り越えてきましたが、自分の罪が他者にもたらした結果と向き合う危機においては、それらは力とならないと、自分の罪によってえぐられた深い溝も、相手に負わせた傷も、癒やす力は自分に無いと分かっています。決して見捨てない、この地に連れ帰るとの神さまの約束、そしてこれまで自分を支えてくださってきた神さまの慈しみとまことが、ヤコブを、神さまに救いを求めて祈ることへと向かわせたのでしょう。

 

その夜、ヤコブは家族を皆連れて、ヤボクの渡しという場所で川の向こうに渡ると、自分だけ川のこちら側に戻って来ました。夜の闇の中、たった一人で居ました。「その時、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」とあります。危機に直面しているヤコブのところへ、神さまの方から来てくださったのでした。この状況に関わってくださいと祈り求めた時、ヤコブは神さまがエサウやこの危機的状況に介入してくださることを願っていたのではないでしょうか。しかし神さまは、ヤコブと関わるために来られました。ヤコブにも、エサウとの再会の前に、全力でご自分と向き合うことを求められました。それが格闘でした。神さまと四つに組んで、神さまとの関わりに全力で身を投じることをヤコブに求められたのです。

 

人が信仰において格闘するということは、ヤコブのように、闇の中で一人、神さまに対してもがき、あがくようなものではないでしょうか。罪に支配されてきた自分自身と向き合うことは、神さまと向き合うこと抜きに始まりません。信仰と相いれない世の流れの中でどう生きるのか、どう他者と関わるのか、悩みもがく時、信仰が神さまのみ前で問われます。ヤコブはこの戦いで勝ったと言われています。しかし腿の関節を痛め、足を引きずって歩く者とされているヤコブの勝利は、明白なものではありません。神さまのみ前でもがく私たちの信仰の戦いにも、その場ですぐに宣言できるような明白な勝利はありません。ヤコブは、神さまに勝つために戦ったのではなく、神さまから救いの祝福をいただきたい一心で神さまに向かっていきました。神さまからしかいただくことのできない救いをどうしてもいただきたいと、神さまが自分と共にいてくださり、自分の人生に、今この危機に関わってくださらなければ、罪人である自分には救いが無いと、向かうことを止めなかったのでしょう。止めるということは、神さまの救いを諦めること、神さまの祝福の内に自分が、そして自分の大切な人々が、生きることを諦めるということです。祝福を要求できるふさわしさは自分に無いけれど、かつて祝福を約束してくださった神さまの慈しみにただ頼って、ヤコブはしがみついた手を放さず、一晩中必死に食らいついた。その神さまへの信頼は、神さまのみ心を動かすほどのものでした。それを神さまは勝利と呼ばれたのではないでしょうか。

 

神さまは、夜が明けてしまうから去らせてくれ、と言われます。このことの背景には、旧約聖書で繰り返し、神さまの顔を見た者は生きていることができない、と告げられていることがあると思われます。ご自分の顔を明るい光の中でヤコブが見ることが無いように、ヤコブを守るために、暗い内に去ろうとされたのだと、考えられます。

 

ヤコブは、「祝福してくださるまでは離しません」と食い下がります。それに対して神さまが返された言葉は、名を問うものでした。神さまは勿論、ヤコブという名を御存じでありましょう。神さまが問われたのは、お前は一体誰なのかということでありましょう。聖書も含めた古代世界において、名前は、その人の存在全てを表すものと捉えられていました。自分が何者であるのか自分で言い表し、自分で認める機会を与えてくださったのでしょう。

 

「ヤコブです」とヤコブは名前を答えます。エサウとの再会に怯える今のヤコブにとって、エサウの踵を掴んで生まれてきたことで付けられたこの名前は、誕生の時以来、エサウを押し退けてきて、エサウに殺意まで抱かれることになったこれまでを思わないわけにはいかない名前であったでしょう。祝福を得るために肉親を裏切り、神さままでも利用しようとした罪の歴史を背負った名前です。裏切られた側にとっては、裏切られた事実と切り離すことなどできない名前です。エサウはかつてヤコブから祝福をだまし取られた時こう言いました、「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、私の足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あの時は私の長子の権利を奪い、今度は私の祝福を奪ってしまった」と。ヤコブが神さまのみ前で自分の名前を口にするということは、自分がこれまでその名前において積み重ねて来た罪の歴史を告白するに等しかったのです。

 

祝福を求めるヤコブを、罪人としての自分を告白することへと導き、そして神さまは告げられました、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と戦って勝ったからだ」。神さまは、罪に支配されてきたこれまでの道から、新しいイスラエルという名前で生きる、新しい道へとヤコブを移してくださいました。神さまと格闘し、諦めることなくしがみ付き、祝福された者としての名前で生きることへと、呼びだしてくださいました。

 

新しい名前を与えられたヤコブは、神さまに名を教えてくださいと願います。神さまは、なぜ名を尋ねるのかと問いかけた上で、祝福を与えてくださいます。格闘の末、ヤコブに祝福を与えることで、神さまがどのような方なのか示しておられるかのようです。ヤコブの熱意を一晩中受け留めてくださり、辛抱強く関わってくださり、救いの祝福で満たしてくださる神さまです。神さまの祝福の内に、避けては通れないエサウとの再会へと踏み出す者としてくださる方です。

 

神さまがヤコブに与えられたイスラエルという名前は、ヤコブ以降、ヤコブの子孫を表す名となり、神の民全体を表す名前となります。祝福をすべての人にもたらすために、神さまが救いの担い手として選び立て、祝福され、用いられたイスラエルと呼ばれる神の民は、自分たちの名前の起源を思う度に、この出来事を思い出すようになるのです。

 

イスラエルという名前は私たちにとっては、信仰の祖先の名前です。イスラエルの民を通して神さまが与えてこられた約束が、イエス・キリストにおいて実現されたことを、新約聖書は伝えています。イスラエルの民の一人としてお生まれになったキリストの十字架と復活によって、神さまは、全ての人に救いをもたらされました。キリストの命の値をもって罪を赦された私たちは、神さまの祝福に満たされ、祝福を担う今の時代の神の民とされています。

 

イスラエルという名前には、「神が闘われる」という意味があります。人生の夜に、神さまの救いを求めて祈り、み心を求めてもがく人の闘いを神さまは受け止め、神さまが闘ってくださいます。神さま抜きに戦ってきた過去に終止符を打ってくださり、人を押しのける生き方から神さまと向き合う生き方へと導き、祝福を与え、その神さまの祝福の新しい光に照らされつつ、人との関わりへと踏み出してゆく、そのような一人一人が、このイスラエルという名前を担っています。神さまはヤコブの腿の関節を打たれたとあります。人の歩みを大きく支える腿に痛みを抱え、足を引きずるヤコブが、神さまとの夜通しのたたかいと祝福を忘れて歩むことはその後なかったでしょう。周りの人々の目に、ヤコブの歩みは弱く不完全なものに見えるかもしれません。しかし神さまとの格闘を通して、神さまと向き合うことができ、新たにされたヤコブにとってそれは、闘ってくださる神さまの支配に委ねることのできる平安を思い起こさせてくれる痛みであったと思います。肉体に痛みや不完全さを抱えていても、これまでのように恐れることなく、ヤコブはエサウとの再会へと歩き出すことができました。イスラエルという名前を担う者はそれぞれが、神さまとの闘いにおいて受けた痛みを魂に覚えながら、本当に恐れるべき方だけを畏れることのできる平安の内に歩む者ではないでしょうか。

 

ヤコブは、イスラエルという名前を受け継いでゆく子孫たちが、この名前の意味を受け止め続けられるように、この地に、神さまの顔という意味のペヌエルという名前を付けました。私たちが闇の中に在る時、本当に格闘する相手は、敵対する誰かでも、自分の中の弱さでもなく、神さまであるのだと、私たちが闘うべき闘いは、神さまの祝福を求めるための闘いであり、神さまは顔と顔とを合わせて忍耐強く向き合ってくださる方であると、そして神さまの祝福で満たしてくださる方であると、伝えたかったのではないでしょうか。

 

 

ヤコブは地名を通して、神さまとの闘いと祝福を後の人々に伝えました。それは、人が祝福の道を歩んでゆくために心に刻んでおくべき知恵を伝えることでもありました。神さまを伝え、救いに導く知恵を伝える営みは、今も続けられています。テモテへの第二の手紙には、聖書は「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができる」とあります。「神さまの霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」であると、私たちの歩みを照らすものであることを告げています。この聖書が私たちに与えられて、それで終わっているわけではないことも記しています。「あなたは、それを誰から学んだかを知っており、また自分が幼い日から聖書に親しんできたことも知っている」と、聖書を共に読み、教える人と人との関りがあります。そのように小さい時から語り聞かせる教会や家庭で、世代から世代へと、人を通して聖書がそれぞれのこころに刻まれてきました。聖書を土台に教会が立てられ、家庭が立てられてきました。ヤコブが後の人々に伝えたように、伝えられ、確信したことからあなたがたは離れてはなりませんと教えています。しっかりとしがみ付き、食らいついているように、教えています。私たちが考え出すことのできる知恵ではない、神さまだけが与えることのできる救いの祝福という知恵が、私たちの中心であり、土台であるのです。