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神にかたどられ

「神にかたどられ」創世記12431、詩編8、コロサイ11417

202251日(左近深恵子)

 

 今年度は礼拝において、旧約聖書を中心に、神の民は神さまからどのような祝福と契約をいただいたのか、聞いてまいります。暫くの間、旧約聖書の中でも創世記の創造物語の箇所に耳を傾けてまいります。

 

 創世記が記された当時、創世記が語り掛けた主な人々は、危機の中にあるイスラエルの民であったと考えられています。小国でありながら重要な地域にあるイスラエルは、大国や次々と台頭する国の影響を大きく受けてきました。創世記がまとめられたのは、大国バビロニアに捕囚とされていた時代と考えられています。イスラエルが破れ、都も神を礼拝する神殿も破壊され、一部の人々が支配国バビロンに連れて行かれ、互いに引き離されたまま年月が経過し、世代が変わっていく。この先、イスラエルの民が自力で大国を圧倒するような力を手に入れられるとは到底思えない状況にありました。国の力は、その国の民が信じている神の力と等しいとみなされていた時代です。諸国の民から、“お前たちの神はどこにいるのだ”“お前たちの神は無力ではないか“と嘲られ、神さまへの信頼が揺さぶられ、周りの民の言葉に押し流されそうになり、世界情勢の混沌とした深い渦に呑み込まれそうになっているイスラエルの人々に、創世記は創造物語を通して、世界とはそもそもこのようなところなのだと語ります。世界を語るということは、そこで歴史を生きる人間とはそもそもこのような者なのだと、語ることでもあります。

 

主の祈りで、「み国を来たらせ給え、み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈る度に、“神は全てを支配しておられる方のはずなのに、神は過去も現在も未来も、歴史を貫いて支配し続けられる方のはずなのに、なぜ、神が今、この状況を支配しておられると力づけられるしるしをなかなか目で見ることができないのか”という思いが湧き起こる、そのような時代に私たちもいます。創世記の最初の聞き手たちがそうであったように、私たちも歴史を生き、危機に直面します。世の力を手中にしている者たちの不正義を阻むことができず、そのような力に擦り寄る者たちが新たに力を手にしてゆき、力弱い者たちは一層困難に陥ってゆく世界や私たちの社会の現実があります。コロナウイルスによって日々が大きく影響を受ける生活は3年目となっています。これまでウイルスによって体が蝕まれ、命が奪われていくことの恐ろしさを味わってきました。同時に感染症に対する恐怖によってそれまで露わになっていなかったものが露わにされ、魂までも、人間性までも蝕まれる恐ろしさを知りました。肉体が、生活が、命が脅かされる危機の中で、生ける時も死ねる時もただお一人の主である神さまへの信頼が揺らぎ、他の様々な力にすがろうとしてしまう危機に揺さぶられてきました。人間とはどのようなものなのか分からなくなる、自分が危機にあることすら分からなくなる危機は、私たちが思っていたよりも身近であることに気づかされてきました。

 

創世記は、創造物語を通して世界を語り、人を語ります。人のことが語られると言われて私たちが期待しがちなのは、人のことに集中した語りではないでしょうか。世界についてまで語らなくても人のことだけ語ってくれれば良いと、あるいは先ず人のことを語ってくれて、それから世界のことも語ってくれれば良いと。けれど創世記の第1章は、「初めに神は天地を創造された」と語り始めます。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」と、その深淵の面に神さまが来られ、神の霊が闇の上を自由に動かれ、「光あれ」との言葉によって神さまは闇の中に光をもたらし、創造のみ業を始められたと。私たちは人間のことが先ず聞きたいと思います。そう思いながら最も聞きたいのは自分のこと、自分に関わることとなりがちです。自分を中心に生き、自分が関わることの外側はほとんど分からない、そのような私たちが果てしなく広がる深い暗い混沌の流れの中で揉まれ、呑み込まれてしまう。創世記は、神がその闇の中に、闇が支配することのできない光を造られ、神さまの目に美しい、素晴らしいその光と闇とを分けられたと、そして昼と夜と言う時間のリズムを作られ、一日ずつ刻む時の流れを作られたと、これが創造の第一日であると語ります。その後も第五の日まで、神さまの言葉によって為される創造が語られます。世界には様々なものがあります。人が縋りたくなるものも多々あります。しかし世界の素晴らしい一つ一つのものは、神さまの権威の下で、神さまのご意志を反映する神さまの言葉によって造られたことが、語られてきました。

 

創造とは、無かったものを造り出すことだけではないことを、創世期は示します。創造物語の前半で際立つのは、「お造りになる」こと、そして「分ける」こと、「良し」とされ、喜ばれ、祝福されること、名付けられ、それらがご自分の権威の下にあることを明らかにされることです。最初に神さまは「良し」とされる光をもたらされ、その光と闇を分けられました。次に大空の下と大空の上に水を分けられました。大空の下の水を分けられ、水と乾いた地に分けられました。そしてそれらをご覧になって「良しとされ」ました。私たちにとって危機とは、分かれ目で道を見失うことではないでしょうか。神さまのみ心に適う神さまの道と、魂を蝕まれ、人間性を損なわれる滅びの道との分かれ目です。神さまが為さったのは、混沌としたものから良しとされるものを分け、世界を秩序立てられることでした。一気に何もかも為さるのではなく、分けて、祝福し、名づけ、また分けて、祝福し、名づけと、順に世界を整えてゆかれます。一日一日、段階を踏んで、世界を築いてゆかれます。創造物語によってその流れを辿る私たちも、聖書は世界が神さまのみ心によって一つ一つ秩序立ててくださったものなのだと、そのように、生きものたちのために整えてくださる神さまの配慮と祝福に満ちた大地に、私たちは今暮らしているのだと、神さまからの贈り物である世界の中へと招き出されたのだと、歴史に生きる私たちは常に変化に揉まれているけれど、神さまが望んでおられる秩序はここに示されているのだと、気づかされます。

 

第六の日は、大地に生きる者たちの創造です。「地はそれぞれの生き物を産み出せ」と大地に命じられ、地の獣、家畜、地を這うものたちが先ず創造されます。人の生活の助けとなるものであり、者人が生きていくための食料ともなり得るものたちであります。そして人が造られます。既にみ言葉とみ業によって存在と命を与えられた生き物たちの中に、同じ神さまによって造られた他の生物たちと共存する者として、人が加えられます。

 

2627節で人の創造が語られる箇所だけ、他の創造の業で繰り返されてきた語り口とは異なるものとなっています。神さまにかたどって人を造ることが告げられ、人の創造の目的が他の生き物たちを支配することであると述べられ、神さまにかたどって人を創造されたこと、男と女に創造されたことが述べられます。27節だけで三度も「創造された」という言葉が重ねられます。そして創造された人々を祝福され、人がそのために創造された人の務めが告げられます。人は神さまに造られた被造物であり、根源的に神さまとの関りの中で、神さまとの関りのために、他者と関わるものとして、創造されているのです。神さまは創造された人々に、豊かな食べ物も備えておられることを告げられ、最後に人も含め、お造りになったすべてを見渡されて、「見よ、それは極めて良かった」と喜ばれます。これまでの「良しとされた」と言う表現には収まらない、大きな喜びと祝福が世界に注がれます。これらの語り口から人は、他の被造物とは異なることが伝わってきます。創造物語の焦点は人の創造にあり、世界における人にあることが伝わってきます。

 

人についてだけ、神さまは「かたどって」創造されたとあります。新しい聖書協会共同訳では口語訳と同様に「神のかたちに創造された」となっています。これは神さまのお姿と言う鋳型に人の体の材料が流し込まれて造られたといったことを表すのではありません。人々は皆、自分の根源を神さまではないものに求めることはできないということです。古代からこれまで、国の王などトップに立つ者や重要な立場にある者は、神のかたちを持つ人であるとする考え方がありました。しかし創世記は、特別な人だけではなく、一人一人が神のかたちなのだと語ります。男も女も皆、神のかたちに創造されたと、男と女に創造してくださった神さまは、私たちが孤立して生きるのではなく、神さまから与えられた関わりに生きることが、神さまのみ心なのだと語ります。

 

この箇所を子どもたちに語るある人の説教の中にこのような文があります。「『子は親の鏡』という言葉があります。その子が親を鏡のように映し出していると言う意味の言葉です。・・・(子どもは)親から受けたことをそのまま表現します。それと同じように、人間は神さまにかたどって造られたので、見える人間を見ると、神さまが愛している人なんだなと見えない神さまの愛が分かる。それから、男と女をお造りになりました。これも、男の人と女の人が愛し愛されて生きる様子は、実は神さまと人間の愛し愛される、見えない様子を映し出しています」。人はそれぞれが、神さまのみ心を映し出すことができる者として造られています。創造者である神さまとの関係を、その関係に生きることを、喜ぶことができる者とされています。洗礼によって神さまのものとされた者は、神さまの導きの下、神の子として、神さまを映し出す生涯を自覚的に歩み始めます。あらゆる人が神さまのかたちを担い、一人一人が世にあって神さまを映し出す代表となることが、神さまが人に望んでおられる創造の目的なのです。

 

この神さまのみ心を、人は互いの関わりにおいて、更に他の造られた者たちとの関わりにおいて映し出すようにと、「生き物をすべて支配せよ」と、命じられています。「支配する」と訳された言葉は、「世話をすること」、更には「養い育てること」までも意味する言葉です。聖書はその言葉を、牧者のイメージにおいて用いています。神が世界を創造されたように、人は他の被造物と関わることを命じておられます。捕囚の民は自分たちの力を遥かに超えた大国の力に取り囲まれています。彼らには支配国が定めた範囲の中でしか自由が無く、制約の中で生きています。自分のことすら自分の自由にならないのに、他の被造物に対して、それらをお造りくださり、整えてくださった神さまのみ心を映し出す関りを持つなど、到底成し得ないことに思えたかもしれません。けれどどのような力にも支配されない神さまは、何よりも神さまを仰ぐことを求められます。支配国の王の力の鏡となるのではなく、神さまがお造りになった地上の素晴らしい生き物たちを仰ぐのではなく、神さまの鏡となり、地上の生き物たちをみ心に適う仕方で守り、養うことを望んでおられます。

 

私たちも多くの制約の中にあります。自分たちの力の小ささに思いが挫かれそうになることも多々あります。しかし混沌の闇の面を自由に動かれる神さまが、私たちと共におられ、私たちの命と存在の根源であられ、神さまを映し出す生涯を歩むことを求めておられます。人々が私たちを見たときに、私たちの関わりに、また私たちの被造物との関わりに、映し出された神さまのかたちを見出すことを願っておられます。けれど、神さまのかたちを映し出そうとする私たちの魂を蝕むものがあります。罪は私たちの中にある神さまの像を台無しにしようと、捻じ曲げ、歪ませ、神のかたちにどれほどの意味があるのかと私たちを揺さぶり、挫けさせようとします。神さまからの恵みを受けて、私たち自身が神さまの創造のみ心に立ち返ること、み言葉と聖餐の糧によって養われ、神さまの姿を受け止めることから、私たちの歩みは始まります。

 

 

コロサイの信徒への手紙に記されているように、「私たちは、(この)御子によって贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、全てのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです」。キリストこそが、見えない神を最も明らかに露わにされる方であり、そして、造られずにお生まれになった方であり、御父と共に全てをお造りになった方、お造りになる方です。神さまは、私たちを混沌と闇の力から救い出すために、愛する御子を世に与えられ、王なる御子の支配下に私どもを移してくださいました。真の羊飼いなるキリストを仰いで、キリストから受け、私たちから溢れ出る恵みを、他者との間に映し出す者とされている、その救いのみ業に信頼して、主のみ心にお応えしていきたいと思います。