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滅びることのない主の言葉

「滅びることのない主の言葉」マルコ132836

2022213日(左近深恵子)

 

 コロナが広まってから誰もが以前よりも大きなストレスを覚えながら、この2年余りの日々を過ごしてきました。今感染の主流となっている株は、大人だけでなく子どもたちも感染しやすいということもあり、美竹教会のCS1月の末から子どもメッセージの後の分級を残念ながらお休みしています。健康上のリスクを様々抱えている大人たちだけでなく、成長期をこの状況で過ごす子どもと、子どもを思う周囲の大人にとって、厳しい日々です。年齢、世代も、血縁も超えて、神さまによって一つの神の家族とされてきた教会にとって、心が痛む状況が続いています。

 

 感染の波が繰り返され、長期化する中、祈りは私たちの日々と共にあり、祈りに込める思いも新たにされてきました。状況の変化、精神状態の変化と共に、祈りも揺さぶられてきました。嵐の中の小舟のような状態の時、神さまに従う道だとこれまで心と思いと力を注いできた歩みが阻まれているように思う時、祈る力も萎えてしまうような時、どのような方と思って神さまを仰ぎ祈るのか、問われてきたように思います。

 

 今日の箇所は、弟子たちに対して語られた教えです。13章は、マルコによる福音書において、主イエスが弟子たちに与えられる最後のまとまった教えとなっています。主を陥れようと議論をしかけてきた民の指導者たちは、もはや質問しなくなっていました。群衆に対し広く語られたのも、12章の終わりが最後でありました。その後神殿でささげものをし、祈りを捧げる人々の姿を見つめながら弟子たちに語られました。そして主は、弟子たちとエルサレム神殿を後にされます。その時弟子の一人が神殿の建物や使われている石が何と素晴らしいことかと称賛し、主イエスに同意を求めます。これに答える形で主は教えを語られます。そのほとんどは、神殿のあるエルサレムの丘を降り、神殿と向かい合うオリーブ山に移り、腰を下ろして神殿を見つめながら、語られました。

 

 死を前にして、言わば遺言のように弟子たちに語られたのは、終わりについてでした。毎週礼拝で使徒信条を通して、終わりの時、イエス・キリストが「かしこより来たりて」と告白しているように、終わりの時に起こる出来事は、イエス・キリストが再び地上に来られるということです。テトスの手紙はこの約束を「祝福に満ちた希望」、「幸いなる希望」と呼んでいます(テトス213)。ヨハネの黙示録では、終わりの時が豊かなイメージで描写されています。マルコによる福音書では、主イエスのこの最後の教えにおいて、終わりの時に焦点が当てられています。

 

主は先ず、今目の前にある荘厳な神殿の建物も、永遠に立ち続けるわけではないことを告げられます。主の言葉は弟子たちにとって衝撃であったでしょう。けれど主は不安を煽るたにめではなく、終わりへと目を向けるよう弟子たちを導かれます。終わりから自分たちの今を見る目を持つことへと、導かれます。

 

 この教えの中で主は「気をつけていなさい」という言葉を繰り返されます。「気をつけていなさい」とは、先週「律法学者に気をつけなさい」と言われたところと同様に、「見る」という言葉です。「よく見なさい」という元の言葉の意味から、「よく考えなさい、気をつけなさい」という意味で用いられています。13章の教えの前半においては、救い主を名乗ったり、いついつに終わりが来ると言って惑わす人に気をつけなさいと教えられます。

 

 終わりの時に何が起こるのか、聖書の中の言葉や数字を用いて事細かにシナリオを描く人々がいます。聖書を根拠にしているように見えて、それぞれが聖書の所々を利用しているに過ぎないそれらのシナリオですが、多くの人の興味を引き付けてきたのも事実です。聖書が明確に答えていない終わりの時の時期やプロセスについて、語ってくれるからでしょう。終わりの時のことを告げる聖書の言葉に不安を掻き立てられ、予想外のことが起こることを嫌う人のこころに、“予め私たちは分かっているのだ”と呼び掛ける教えは魅力的なのでしょう。

 

 けれど主イエスは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」(32節)と言われています。主がこう言われているのですから、この主の言葉を退けて終わりの時がいつ来るのかということをどんなに考えてみても、それは実りあるものとはなりません。主が弟子たちに求めておられるのは、終わりが来たと、あるいは終わりはいついつに来ると主張することでも、そのような主張に惑わされることでもなく、福音を証しすることです。そして主は福音を証しする中で危機にあっても聖霊が言うべきことを教えてくださると約束されています(1311)。キリストにおいて明らかにされてきた神さまのお力が、聖霊を通して今も働いてくださることを教えられます。聖書に由来しないシナリオに安心を求めなくても、危機の時にも共にいてくださり、語るべき言葉を与えてくださる聖霊に信頼することができるのです。

 

 主は、終わりは確かに到来することを語られます。人々が毎年、いちじくの枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏はすぐそこまで来ていると気づくように、終わりの到来は誰かの編み出した計算法や予告によってではなく、人は知るようになります。

 

終わりが到来することによって、救いの完成がもたらされます。それは旧約聖書から人々に知られてきた様々なイメージで語られます。今日の箇所では、ダニエル書で伝えられてきた、終わりの時に神さまの権威と威光を帯び、とこしえに世を支配する人の子の到来(ダニエル713)が示されています。主イエスこそが、この人の子であります。終わりの時、主イエスが神として、救い主としての力と栄光を帯びて再び来られ、そのご支配が誰の目にも明らかな仕方で確立されます。終わりの時が近づくということは、この人の子主イエスが戸口に近づいたということであるのです。

 

そして主は、旅に出て不在の主人と僕の譬えを語られ、私たちすべてがそこへと向かっている終わりの時に、どう備えるのか教えておられます。主はここでも「気をつけなさい」と言われます。終わりの時がいつか到来することは確かなのだから、信仰者にふさわしいのは気をつけていることです。主から気をつけなさいと言われなければ、他のことで心を塞がれてしまう私たちに、主がご覧になっているように自分の生活の周りで起きていることを見ることへと導かれます。

 

 終わりの時までのタイムテーブルや、このように来るとの詳細なシナリオが人々を魅了する一方で、終わりのことなどそもそも関心が無い、というのも、人の心を捉える魅力的な考え方です。そのような人もまた、旅から帰って来た主人に、眠っているのを見つけられる僕と重なります。

 

終わりのことよりも今自分が抱えていることにキリストがどう救いを与えてくださるのかが大事だと、それが正直なところだと、自分の思いを認識している人は多いのではないでしょうか。けれど、自分が助けを求めているキリストがどのような方なのか、自分が「神さま」と祈るその神さまはどのような方なのか知らずに助けを求めることは、本当のところできないのです。救い主がどのような方であるのか、終わりを見つめることで見えてきます。過ぎて行く今の生活の重要さも終わりから確かなものとされます。危機的な出来事がいつ起きるのか分からない日々を、不安を抱えながらも土台のところで安心して歩んでゆけるのは、聖霊が共におられるからです。今のことしか関心が無いと思うこころにも、主は「気をつけていなさい」と真の関心を呼び起こすのです。

 

 今日の主の教えの中には、「気を付ける」という言葉の他にも、見つめることを促す言葉が語られています。最も明確なのは「気をつけて、目を覚ましていなさい」という言葉でしょう。今、と言う時を、本当に目を覚まして生きることの難しさを思わされます。過去に縛られて、過去に生き続けてしまうこともあれば、未来の願望に逃避したり、この先起こるかもしれないことを思い悩んだりと、身体は目覚め瞼も開いているけれど、今を生きていないということがどれだけ多いか、考えさせられます。キリストが私たちの罪を贖い、神さまとのつながりも、隣人とのつながりも回復へと導いてくださっているのに、自分の罪、他者の罪、損なわれてしまった隣人との関わりに捕らわれ続けることがあります。十字架と復活によって救いのみ業を成し遂げられ、終わりの時に全ての救いを完成してくださると主が約束してくださっているのに、まるで自分一人で何もかも完成させなければいけないかのように、まるで主が重荷を担ってくださっていないかのように追い詰められ、健やかさを失ってしまうこともあります。十字架の出来事の直前にゲッセマネの園で夜を徹して祈られる主の側で、悲しみの果てに眠り込んでいた弟子たちのように、キリストにおいて明らかにされている神さまのみ心とみ業を、信仰の目で見つめていることに留まり切れない私たちです。33節から37節の間で、「見る」と言う意味が大元にある「気をつけなさい」という言葉を主は4回語られます。「目を覚ましていなさい」という言葉も4回重ねられます。神さまが今も推し進めておられる、終わりの日に完成される救いのみ業を、内なる目を開いて見るようにと、繰り返し呼び掛けておられます。

 

マルコによる福音書の最初の聞き手となった初期の教会の人々は、福音を宣べ伝える中で、喜びだけでなく苦しみも味わっていました。かつて、主が十字架にお架かりになる前は、主が行かれるところについて行き、主が言われることを聞くことができました。しかし主は天に挙げられました。聖霊において主が共に居てくださることは知っているものの、目に見えるお姿において傍におられないことの厳しさを日々味わいながら、周りからの抵抗や迫害に直面していました。

 

この人々が聞いていた、迫る死を前に弟子たちに主が語られた教えを、私たちも聞いています。「気をつけて、目を覚ましている」生き方は、必ず帰って来られる主を待ちながら、主から託された福音を宣べ伝えるという私たちの歩みにおいてこそ、現れます。私たちの人生の中で、為し得ることは限られています。自分の為したことにどのような実りがもたらされたのか、確認できることはもっと限られています。それでも私たちが、戸口に現れる主にいつでも見ていただけるような日常を求めて重ねていく一歩一歩に、全ての時を初めから終わりまで支配される神さまの栄光が現れると、望みを持つことができるのです。

 

 

 この世を裁き救うために人の子が来られる、その神さまが推し進めておられる歴史の中に、私たちそれぞれの時があります。私たちの目から見れば遅々とした歩みでも、願っていたものから遠い歩みでも、神さまの時の中にある、神さまのものです。天地は滅びるが、救いを告げるご自分の言葉は決して滅びない、と主が言われます。天地が滅びる、それは地を住まいとしている私たち被造物も滅びるしかないことであります。大きな神殿の一つの石も崩されずに他の石の上に残ることは無いように(132)、私たちが積み上げてきたものはどんなに立派なものであってもいつか崩れて形を失ってゆきます。それでも、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とイザヤも伝えたように(イザヤ406)、私たちの衰えも死も貫いて、神さまの救いの言葉はとこしえに立ちます。いつの時も、私たちの死によっても滅びることのない主の言葉が私たちと共にあります。私たちの命は、生きている時も、死の時も、神さまのみ手の中にあります。主は、私たちが自分のいのちを今、生きることを望んで、目を覚ましていなさいと呼び掛けられます。とこしえに立つ主の言葉に聞きながら、全てのものが滅びていくその終わりまで、十字架によって明らかにされた私たちに対する神さまの慈しみと赦し、約束されているとこしえの命の希望が私たちと共にあることを、知っていきたいと願います。