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祈りの家となるため

マルコ111519「祈りの家となるため」

2022116日(左近深恵子)

 

 クリスマス礼拝やイブ礼拝において、キリストのご降誕をお祝いしてから一か月近く経ちました。教会の伝統では16日のエピファニー(公現日)までがクリスマスのお祝いの期間とされていますので、先週の礼拝前にはクリスマスの飾りを数名の方が片づけてくださいました。一月以上目にしてきたクランツや飾りが会堂から無くなると、少し寂しく感じます。クリスマスをお祝いする期間はこうして終わりました。次の大きなお祝いはイースターです。レントから、イースターをお祝いするための備えが始まります。ではそれまでの間は、教会の暦において何も意味しない期間であるのかというと、そのようなことはありません。エピファニーは、主の栄光が異邦の民にも現れたことを覚える日です。主イエスがキリストであることは、神の民ユダヤの人々にだけでなく、神さまを知らずに生きてきた人々にも、示されました。エピファニーの後の期間、教会はこの恵みを覚えて過ごします。主イエスが救い主であり真の王であることが、東方の博士たちに示されたように、私たちにも示されていることを感謝して、毎週礼拝をささげるのです。

 

 先週の礼拝で、主イエスが過ぎ越しの祭りが始まろうとするエルサレムの都に入られた出来事を聞きました。主イエスのご生涯最後の1週間の一日目に、人々が「ホサナ」と、「今、救ってください」と歓呼の声で迎える中、王の中の王である主イエスは、神の都エルサレムに静かに入ってゆかれました。通常の王のような軍馬にまたがってではなく、馬に引かせた戦車や奴隷たちが担ぐ輿に乗ってでもありません。高ぶることのない真の王、救い主メシアはろばに乗ってこられると、それも子ろばに乗って、へりくだって来られると預言者が告げたように、主は子ろばに乗って来られました。力によって敵に勝利する世の王たちのようにではなく、神さまの正しさによって勝利をもたらされる王であることを示すしるしです。戦車や軍馬や弓によって獲得する平和は、国の領土にも、支配できる時間にも限度があります。しかし神さまの正しさによって獲得される平和には限りが無く、救い主キリストの支配はエルサレムだけでなく、海から海へと、大河から地の果てにまで及ぶ、だから神の民よ、大いに歓呼の声を挙げよと預言者が記したように、エルサレムの人々は歓呼の声を挙げて主イエスを迎えました。

 

 あくる日、主イエスは神殿に再び来られると、境内で物を売ったり買ったりしている者たちを追い出し始め、両替屋たちの台と鳩を売る者たちの椅子を倒したことを全ての福音書が伝えています。境内を通って物を運ぶこともお許しになりませんでした。前日、小さなろばの背に乗って静かに進んで行かれた主イエスの姿から一転、激しく高圧的に見える振る舞いに、私たちは戸惑いを覚えます。何に対して主イエスはそのような振る舞いをされたのか、なぜこのような激しい振る舞いをなさったのかという思いが沸き、この出来事を受け入れ難く感じるのではないでしょうか。

 

 主イエスはその理由を人々に語られます。主の激しい振る舞いからは、神殿礼拝の現状に対する主の強い怒り、嘆き、悲しみが伝わってきます。しかし主イエスはそこで終わらずに、何が問題であるのか人々に教えられます。主はイザヤ書567とエレミヤ書711の言葉を用いて、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と言われます。

 

 主が用いられたイザヤ書56章の箇所において、神さまはこのように告げておられます。「わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い」、「主のもとに集って来た異邦人は言うな、主はご自分の民とわたしを区別される、と」、「主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなくわたしの契約を固く守るなら」、「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝に連なることを許す。彼らが焼き尽くす捧げものといけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ562367)。ユダヤの民にだけでなく異邦人に対しても礼拝は開かれることを、こうして神さまの救いは実現し、神さまの恵みが人々の間にある境を超えて現れることを、告げておられます。

 

 もう一つ主が用いておられるエレミヤ書7章の箇所が明らかにしているのは、律法によって、日々の生活の中で神さまの愛と義を実現することを求めておられる神さまのご意志から、離れてしまっている人々の現実です。「主の神殿、主の神殿」と上っ面の言葉を口にする人々の偽善が露わになっている礼拝の実態です。エレミヤを通して主なる神はそのような礼拝者たちに、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』というのか・・・わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか」と言われます(エレミヤ71011)。

 

 主は神殿の境内に居た人々にこれら預言者の言葉を用いて語られ、預言者を通して語られてきた神さまの教えと、神さまが為さってこられた救いのみ業を思い起こさせます。そこで人々同様、私たちも気づかされます。主イエスは売り買いする者たちや両替商、鳩を売る者たちが、神殿を商売の場にしている、そのことに対してだけ怒っておられるわけではないと。主イエスの怒り嘆きは、主のみ心に従い、主の民となることを求める者ならばそれが異邦人であっても、その人々にも開かれているはずの礼拝が実現されていないこと、異邦人も含めたすべての人の祈りの家であるはずの神殿が、ユダヤの人々の商売の場となってしまっていることに向けられているのです。

 

 主イエスが商売人たちを追い出し、そこを通って物を運ぶことをお許しにならなかった、境内と翻訳されている場所は、「異邦人の庭」と呼ばれる場所であったと考えられています。神殿を取り囲む外壁の中に入ると、先ず庭があります。そこが異邦人の庭です。神殿は数段階に区切られ、内側に入ることができる人がその度に限られ、最後は大祭司だけが入ることのできる至聖所となります。異邦人の庭は、そこから先に入ることができない異邦人のための礼拝の場でありました。その場所で、その先にも入ることができるユダヤの人々が、神殿で献金に用いることのできるお金に両替したり、礼拝でささげる犠牲の動物を売買したり、そこを物を運ぶ通路として利用していました。ユダヤの人々の自己中心的な行動によって、異邦人の祈りと礼拝が妨げられている、それがたまたま起こってしまったのではなく、当然のように行われている。それを正そうともせずに、過ぎ越しの祭りの祭儀を進めようとする偽善的な現実に、主イエスは怒っておられます。怒りは、実際に商売をしていた人々に対してだけ向けられているのではなく、そのような仕組みを黙認し続けている祭司長や律法学者たちにも向けられていたでしょう。異邦人にも開かれている神さまの恵みを妨げている現実、神さまの救いのみ業とご意志にお応えし、自分たちの生活において実現していく場であるはずの礼拝が偽善によって蝕まれ、祈りの家が強盗の巣窟と化してしまっている現実が、どれほど神さまのみ心から離れてしまっているのか、主は人々に教えられたのです。

 

しかし、主の激しい振る舞いと教えは、祭司長や律法学者たちの主イエスに対する敵意を一層強めることになります。礼拝を司る立場にある彼らが現状を黙認し、放置してきた結果、礼拝の場も、民の霊的な生活も損なわれ、何よりも神さまが軽んじられてきたと、イエスと言う者は人々の目の前で自分たちを批判していると彼らは受け取りました。主イエスは神の民に、特に指導的立場にある彼らに、神さまの言葉によって礼拝を改革し、立て直し、神さまの祈りの家へと回復させることを願っておられます。けれど彼らは回復ではなく、主イエスを殺す方向へと突き進みます。主イエスをどのようにして殺そうかと、相談を始めます。こうして主イエスの最後の1週間の歩みは、十字架に向けて加速したかのようです。

 

指導者たちが主イエスの業と言葉を退け、主イエスという存在を自分たちの人生から取り除こうとしたのは、自分たちの罪を明らかにする主イエスが邪魔であっただけでなく、その主イエスの教えに人々が心打たれていたからだと、福音書は伝えます。神殿の礼拝を司り、人々の信仰生活を指導する彼らには、特別な権威が与えられています。しかし権威を持つ彼らが恐れていたのは、人々の思惑であることが浮き彫りになります。神さまへと立ち返らせようとしておられる主イエスよりも、主イエスがその言葉を思い起こさせた神さまよりも、人々を恐れています。真の王であり救い主であるイエス・キリストのみ前に立とうとせず、神殿にいながら主なる神のみ前にも本当の意味で立ってこなかった彼らが自分自身を置いてきたのは、人々の視線の前であったのです。

 

主イエスはエレミヤ書の言葉を用いて、神殿の現状を「強盗の巣」に匹敵すると、商売をしている者たちや指導者たちのしていることは、強盗に匹敵すると、告げられます。「強盗」とは、彼らが異邦人から礼拝の場を奪い、異邦人が礼拝の恵みに与り、生ける神さまとの交わりに与ることを表しているのではないでしょうか。異邦人に開かれている恵みまでもわがものにしようとすることは、神さまの恵みを神さまから奪おうとすることでもあると、示しているのかもしれません。人の中にある貪欲さは、礼拝の時と場にも現れてしまうのだと、他の人々を招いておられる神さまのご意志を軽んじる、そこにも現れてしまうのだと、思わされます。

 

 

神殿は指導者たちのものではなく神さまの家です。教会も特定の人のものではなく神さまの家です。自分たちの人生において生ける神が働かれることを拒む人々、キリストを自分たちの世界から取り除こうとする人々をご自分のものとするために、神がみ子の命の値によって人々の罪を贖ってくださった、そのようにして神のものとされた一人一人が、神の教会の一部とされています。私たちが新しい神殿であり、新しい神の民です。礼拝の場まで貪欲さによって強盗の巣窟としてしまう人の罪を激しく怒り、深く嘆かれた主は、礼拝を回復するために血を流してくださいました。この方がこの神の家の頭です。貪欲さや恐怖心ではなく喜びをもって共に神さまを礼拝する家であり続けるように、互いの礼拝の時を尊び、この会堂の隅々まで祈りの家であり続けられるように、聖霊のお力を祈り求めます。