· 

クリスマスの後に

2021.12.26. 主日礼拝説教

イザヤ52:14-53:3、ヨハネ1:14-18

「クリスマスの後に」浅原一泰

 

かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。それほどに彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。渇いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

 

言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、大声で言った。「『私の後から来られる方は、私にまさっている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。」私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 

 

 

20世紀に起こった出来事を二つ、ご紹介したい。一つ目は1945年。ヨーロッパを、そして世界を混沌の渦に引きずり込んたナチスドイツの敗色が濃くなった頃(それはヒトラーが自殺するより一、二カ月前だ思うが)、ナチスに占領されていたフランスのアルザス地方から逃れてきた難民がスイスのバーゼルで歓呼の叫びで迎えられる、ということがあった。その中に混じって、軍服を身にまとったドイツ兵士の一団も国境を超えて来ていた。彼らも戦争に疲れ、ヒトラーに疲れ果てていた。ところが彼らの姿を見るや否や、スイス人の民衆、特に婦人たちがそのドイツ兵士たちに唾を吐きかけるかのような屈辱を味わわせた。

二つ目は1968年。チェコスロバキアで、それまで強まる一方であった共産主義支配体制の見直しがなされ、「人間の顔をした社会主義」へと舵が切られたあの「プラハの春」の動きを封じるためにソ連の指示で東欧五か国からなる軍隊がプラハに侵入する。その時、チェコの民衆は非暴力的市民抵抗の模範的な実例を残した。具体的には、戦車の前に座り込んだ若者たちが侵入軍の兵士たちと積極的に対話し、自分たちの考えを広めるためのパンフレットを配布し、地下放送を使ってアピールを続けていく。そうすることによってチェコの民衆は、侵入軍の兵士たちこそが一部の特権階級たちによって利用され、ソ連とチェコ両国民の友情を破壊しつつあると訴えた。すると何が起こったか。侵入軍の士気は阻喪し、共産主義国側の世論はプラハの春を支持する側と反対する側に分裂していった。結局はその翌年、チェコではソ連に服従する政権へと移行し改革の火は消し止められるが、市民の抵抗が無力だったということにはならなかった。権力によって人権を抑圧する政権に対して、その後も正義を求めて止まないチェコの知識人たちによる抵抗は続けられたからである。

 

いずれの出来事もクリスマスとは関係ない。ツリーを飾り、イルミネーションを輝かせ、ケーキやプレゼントが並べられて誰もが笑顔になり、笑顔になれない者は罪であるかのように煽り立てる地上のクリスマスの雰囲気とは確かに何の関わりもない。しかしながら、いずれの出来事も「あの出来事」の後に起こったことである。75年前のスイスのベルンであろうと53年前のチェコのプラハであろうと、2000年前のベツレヘムの馬小屋で神の独り子がお生まれになった、と聖書が伝えるクリスマスの出来事の後にそれらは起こった。言われてみれば、今の世界もすぐるクリスマスの一週間を終えて今日という主の日を迎えている。改めて皆さんと確認しておきたいのは、我々が生きているのもクリスマスの出来事の後の世界だ、ということなのである。

 

 

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

救い主の誕生という、ルカが、天使ガブリエルによってまずおとめマリアに、続いて荒れ野にいる羊飼いらに告げ知らされたと伝え、マタイは、夢を通してまずマリアの夫ヨセフに伝えられ、続いて神からのお告げと星の導きによって東方の博士たちが飼い葉桶に眠る幼子に黄金、乳香、没薬を献げたと伝えたクリスマスの出来事をヨハネは、「言が肉となった」というこの一言でしか語らない。ただ冒頭、「初めに言があった」という第一声で始まり、続いて「言は神と共にあった。言は神であった」と続くこの福音書においては、「言」とは紛れもなく「神の言葉」であり、同時にそれは「神の意志」、「神の本質」、「神ご自身そのもの」を指し示している。

 

では「肉」とはどういうものであろうか。神がイエスという人間の姿形を取られた、ということがクリスマスの出来事であるのなら、「言が人となった」と言えば済む話だと思う。しかしヨハネは「肉」という言葉を選んだ。敢えて「言は肉となった」と言い表した。実はここにこそ、華やかな世俗のクリスマスと、二千年前に世の片隅で、誰も知らない所で始まった本当のクリスマスとを分ける、目に見えない境界線が引かれているように思う。

では「肉」とは何なのか。この福音書の中でイエスは言っている。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(3:6)。これは3章で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言ったイエスに「どうして年をとった者が生まれることができましょう」と反論したニコデモという常識人に対するイエスの答えであり、「誰でも水と霊とによって新たに生まれなければ」、つまり肉のままではなく聖霊によって生まれ変わらなければ神の国を見ることはできないのだと、イエスは踏み込んでいた。更に6章では「肉は何の役にも立たない」とイエスは明言する。このことから分かるのは、「肉」は神を認識することも愛することもできなくなった人間、ということだ。神に対して罪を犯した以上は死の手に陥った人間、神の怒りの前で消え失せなければならない人間、ということだ。それほどまでに「(神の似姿たる)彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない」(イザヤ52:14)ということだ。誰もが「肉」となっていた2000年前、神の「言が(まさにその)肉となって、わたしたちの間に宿られた」。それがこの福音書の伝えるクリスマスの出来事である。しかしそれで終わりではない。むしろ「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」のだと。それはクリスマスの後に起こったことであり、これからも起こることだと。そうこの福音書は語っているわけである。

 

クリスマスの前。それは誰もが初めの人間アダムに倣う生き方しかできない世界であった。食べると死んでしまう、と言われて当初は神に従っても、「食べても死なない」と唆され、見た目にも美味しそうで「食べればあなたも神になれる」と言われたあの木の実を誰もが食べてしまう。それから人間は皆、自分にとってメリットがあることしかやれなくなってしまった。神は「人がひとりで生きるのは良くない」と考え、助け手としてエバをアダムに与えたが、結果はそのエバからアダムへ、神に背いてでも自分のメリットを優先させる肉の生き方が広がってしまう。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。「肉は何の役にも立たない」。イエスのその言葉は今も、私たちを含め全ての人間に当てはまる。しかし、だからこそ「言が肉となって、わたしたちの間に宿られた」と聖書は言うのである。それは今や、神自らが助け手となられた、ということではないだろうか。罪の奴隷となったアダムの肉を取って、嬰児の姿から十字架の死に至るまで、まさに揺りかごから墓場までも、神自らが、命ある者すべての助け手となられた、ということなのではないだろうか。蛇の誘惑に屈したアダムやエバ、そして我々自身に代わって今や、肉となった言なるキリストがわれわれのために、われわれに先立って、悪魔そのものの誘惑を荒れ野において三度もはねのけて下さった、と聖書は語っている。飢え死に寸前まで衰弱した状態で貨物列車に乗せられたアウシュヴィッツのユダヤ人囚人にひとかけらのパンを投げ、彼らが殺到するのを面白がって見ていたドイツ人女性がいたと聞くが、そのように人を蹴落とし、人を引きずり下ろし、抵抗できないと分かるとドイツ兵に唾吐きかけたベルンのスイス人のように、あわよくば自分が神になろうとする者ばかりが渦巻くこの世、誰もが肉の生き方しかできなくなっているこの世において、敢えて言は肉となり、肉とは正反対に神でありながら侮られ、踏みにじられ、唾吐きかけられ、捕らえられて十字架にかけられ、死を遂げる。それは、預言者イザヤが、「彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。渇いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人には見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」と伝えた苦難の僕の姿であった。肉に生きる者なら誰もが逃れたいと思う見るも哀れな生き方を、そして惨めな死を、肉となった言、人となった神自らが真っ向から受け止める。それがクリスマスの後に続いて起こったのである。しかしそれこそが「神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」のだ、聖書はそう伝えているのである。

 

何が栄光だ。肉に従う生き方はそう言って、この神の独り子を嘲笑い続けて来た。あんな人間のどこに恵みと真理があるのか、と目もくれない。しかしそのように人間から無視されればされるほど、神の独り子はゲッセマネで、十字架の上で、そのような者のためにこそ祈っていた。「この杯を取り除けたまえ、彼らを救うために我を用い給え」と、「この罪を彼らに負わせないでください」と、自分に敵対し、嘲笑う者のために祈っていた。そのような彼らを、そして我らを含め人類すべてを貶める「罪の本質」とは、「自分自身に依り頼むこと」である。「神なき肉の生き方」を選ぶことである。誰もが神の恵みを忌み嫌っているからこそキリストは、まさにその肉となって「エロイ、エロイ、レバ、サバクタニ」(わが神わが神、なぜ我を見捨てたもうや)と叫び、死の間際まで、徹底的に神に依り頼む生き方を貫くのである。罪の報酬は死である。神なき生き方をする者は死なねばならない、と聖書は言う。けれども肉の中でただ一人、罪に屈することなく神への信頼を貫いたキリストが、死ぬべき全ての罪人の身代わりとして自らを死に引き渡した。「この方しか神を見た者はいない。この方を通してしか栄光は輝かない」というキリストが敢えてその肉になってまでして、死をも受け入れてまでして全てを神に委ねる生き方を貫いた。それは、死を待つしかなかった我らを新たに生まれ変わらせる為だったのである。その生き方をパウロが次のように言い表している。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間と同じ姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と(フィリピ2:6-8)。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」と。またこうも記している。「キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆、呪われている』と書いてあるからです(ガラ3:13)」。それこそが神の独り子としての栄光であり、恵みと真理とに満ちていたと。聖霊によって生まれ変わらされてパウロはそう気づいたのである。

 

最初に紹介した二つの出来事。ベルンの婦人たちがドイツ兵士に唾吐きかけた時、自分が神になろうと目論む人間なら誰もがそのドイツ兵を見て「ああはなりたくない」と思う。一方、兵士たちは耐えられないような屈辱、絶望に近い思いを抱いただろう。どちらも生まれ変われていない。肉の生き方のままだ。しかしその兵士たちに先立って、肉となった言なるキリストが兵士たちの代わりにその婦人たちから唾吐きかけられていたと思う。しかも同時に、彼女たちに罪を負わせ給うな、とキリストは神に祈っていたとも思う。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。その為に、肉の生き方しかできない彼らの為にこそ「言は肉となった」のだと思う。

戦車を前にプラハの市民たちが非暴力的抵抗を貫いた時も、市民たちに先立ってキリストは「敵を愛し、迫害する者のために」と祈り、そうすることでプラハの人々を支え、一方で肉に縛られていた侵入軍の兵士たちの良心に訴えて彼らを悔い改めさせようとしていたと思う。その為にも言は肉となっていた。この方の命の光を闇は消し去ることができないからこそ市民の思いは消えることなく、受け継がれたのではなかったか。クリスマスの後にこそ、クリスマスで灯された命の光は消えることなく、闇の中にあったベルンの者たちを照らし始め、朝日が昇り始めていたプラハの者たちを通して輝き続けたのではなかっただろうか。

 

 

もちろん、罪が支配する闇は依然としてなくならない(天安門事件、香港、ミャンマー、京アニ、大阪のクリニックなど)。コロナ禍の中で闇は勢いを増しているかもしれない。しかし闇がどんなに勢いを増そうとも決して消すことのできない真の光が2000年前、既にクリスマスにおいて灯された。人類はそのクリスマスの後の世界に置かれている。それは、神の独り子としての栄光に守られ、支えられていることに私たちが気づくよう、私たちを生まれ変わらせるため、なのではないだろうか。世の誘惑の只中にあっても、戦時下にあってもコロナ禍の中でもキリストという真の助け手によって、福音という名の、神の独り子の恵みと真理とに満ち溢れる命の道を歩ませるために、信仰があろうがなかろうが関係なく、神は命ある全ての者を、飼い葉おけの嬰児のように新しく生まれ変わらせようとしておられるのではないだろうか。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。今年のクリスマスの後である今、そのことに皆さんと共に目開かれつつ、真の助け手なるキリストに支えられつつ、誘惑にぐらつかされることなく光の道・命の道をこそ歩まされたい、と心から願う者である。