· 

手放せない悲しみ

「手放せない悲しみ」マルコ101727

2021117日(左近深恵子)

 

 「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。主イエスは今日の箇所で弟子たちに語られました。多くの人がこれまで、この言葉に支えられてきたことと思います。今日の箇所だけでなく同様のことが、聖書でこれまでも告げられてきました。主なる神はアブラハムに「主に不可能なことがあろうか」と言われました(創世記1814)。ヨブは神さまに「あなたは全能であり、み旨の成就を妨げることはできないと悟りました」と告白しました(ヨブ422)。旧約聖書の時代から証しされてきたように、神さまは何でもできる方だと、主イエスは言われます。この「何でも」の中に私たちは、自分に降りかかる困難や大切な人の苦しみに対する解決を求めたくなります。衣食住や健康、安全が脅かされている人々、持たざる人々に与えられることにおいてこそ、何でもできるお力は明らかになるのだと期待します。しかし今日の箇所で主がその言葉を向けておられるのは、持っている人々であるのです。

 

 先週、主イエスの傍に子どもたちが来ることを阻もうとした弟子たちに、主イエスが憤られた出来事を共にお聞きしました。主は子どもたちをご自分の傍へと来させ、「神の国はこのような者たちのものである」と弟子たちに断言され、子どもたちを一人一人抱き上げては、手を置いて祝福してくださいました。それから主は再びエルサレムへと続く道に戻り、旅を続けようとされます。けれどそこに突然一人の人が現れました。

 

新共同訳聖書にはまとまりごとに見出しがあります。今日の箇所には「金持ちの男」と付いていますので、この箇所を初めて聞く人も、これからお金持ちの人が登場することを知りながら聞くことになります。そもそも先ほどご一緒に讃美歌243番で「富める若人」と歌いました。この歌詞はマタイによる福音書が同じ出来事を記す中でこの人のことを富める「青年」であったと述べていることから来ています。またルカによる福音書の同じ出来事ではこの人は「議員」であったとも言われています。これらの箇所を通して私たちの多くは既にこの人に具体的なイメージを持っていますが、マルコによる福音書はこの人のことを「ある人」とだけ述べて語り始めており、この人が去る22節になって初めて、この人が「たくさんの財産を持っていた」と述べます。敢えてどのような人なのか特定しないぼかした表現で語り始めることで、特定の人の話としてしまわず、皆、自分のこととして聞くことを求めているのだと、この箇所は受け止められてきました。

 

 この人は主イエスのところに駆け寄ってきました。そして跪き、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねます。去ろうとする主イエスを引き留めようと急ぎ駆け寄ってくるほど、知りたいことがありました。それは永遠の命を受け継ぐことについてでした。

 

 永遠の命は、主イエスがこれまで宣べ伝えてこられた神の国と深い関りがあります。ほぼ同じことを指しているとも言えます。今日の出来事の26節で用いられている「救われる」という言葉も同じことを指しています。神の国、つまり神さまのご支配に入り、永遠の命に与かること、生きている時だけでなく死の後も、神さまのご支配の内にあることが救われることであります。今日の直前の、子どもたちを来させなさいと言われた出来事でも、主が語られたのは神の国のことでした。二つの出来事で問われていることはつながっているのです。

 

神の国や永遠の命と言う表現は、一見、私たちの日常から遠く見えます。自分は主に駆け寄った人のような必死さで永遠の命を求めてはいないと、距離を感じるかもしれません。しかし私たちが日々の生活の中でしている一つ一つのことは、どうやって生きていくのか、ということと無関係ではありません。衣食住を整えようとすることも、悩みながらも周りの人々との関係を築こうとするのも、突き詰めれば生きるため、望む生き方に近づくためです。死によって断ち切られる人生ではなく、神さまの命に与かる人生を生きたいというこの人の願いは、特定の一部の人に限られたものではなく、どうやって生きていくのかともがく一人一人の思いに関わっているのです。

 

この人の、「神の国に入り、神さまからの命に与かるために何をしなければならないのか」という問いは、この人だけでなく多くのユダヤの民が、会堂や神殿で問い続けてきたことでしょう。その人々に祭司や律法学者といった指導者たちは、律法を指し示してきたことでしょう。ご自分もユダヤの民のお一人であり、預言者たちが伝えてきた約束と共に律法の戒めを重んじてこられた主イエスも、この人に十戒を示されました。十戒において求められていることが、神さまのご意志を知り、神さまのご意志に従う生活を送る道標となるからです。

 

しかしこの人は既に十戒に即した生活を送ることに努力してきたと、「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と答えます。真剣に十戒を守ってきた年月がこの人にはっきりと答える力を与えています。そのようなこの人を主イエスは、慈しんで見つめられます。神さまのご意志に従おうと努力を重ねてきたこの人を喜んでおられます。

 

慈しみを注ぎながら主はこの人に、「欠けているものが一つある」と言われます。この答えをこの人は待っていたことでしょう。自分が積み上げてきた努力の上に、あと何を載せれば、自分は神の国を受け継ぐ者としてふさわしいことがはっきりするのか、期待して待つこの人に語られたのは、意外な答えであったでしょう。行って、持っているものを売り払い、貧しい人々に施し、主イエスに従うということでした。行き、売り払い、与え、来て、従えと、5つもの動詞ですることを命じておられて、欠けているものは一つではなかったのかと思いがちですが、これらの言葉によって主はこの人を一つ欠けているところから、導きだそうとされます。自分が獲得してきたものに依り頼むところから、神さまに依り頼むところへと、5つの言葉で道を指し示しておられるのです。

 

主が指し示された道は、思ってもみないものであったでしょう。この人はイエスという有名な先生から自分がまだできていないことを教えてもらったら、主のもとを去って自分の日常に戻り、教えていただいたことを実践しながら、永遠の命を受け継ぐという目標を目指そうと思っていたでしょう。主イエスとの関りは一時的なものだと思っていたこの人に、主は、富を自分の手元に留めておかずに財産を必要としている人々に分け与えることで、富を天に積み、持たざるものとなって主の下に戻ってきなさいと示されました。これから辿る道は自分の理想ではなく、主イエスの後であると示されたのです。

 

この人に神さまに依り頼むことが欠けていることは、この人の主イエスに対する「善い先生」という呼び方にも垣間見えます。「善い」という言葉をユダヤの人々は普通、神さまにしか用いないと言われています。主イエスは神であり、神のみ子であるので、「善い」と呼ばれるのは正しいことですが、この人は主イエスを神と信じてこのように言ったのではありません。律法の教師として並外れた先生であると思っている、その先生に教えを乞いたいと思っている、だから「善い先生」と特別に敬意を込めて呼んだのでしょう。この人の主イエスに対する深い敬意は、跪く姿にも表れています。跪くのは、律法の教師に対して普通行われること以上のことだと言われているからです。おそらく主イエスのこれまでの教えやお働きを耳にしており、主イエスの人格に触れ、尊敬の念を抱いたのでしょう。しかしどんなに立派で優秀な教師であっても、人は神さまに並ぶ者にはなれません。それなのにこの人は「善い」と呼んでしまうのです。

 

この人自身も立派な人であったことが、背景にあるのでしょう。律法に即した生活をしていることに誇りを持つ日々でありながら、今生きている命の限界が見えている人です。永遠の命を受け継ぐにはどうしたら良いのかと真剣に求めています。そして神さまと立派な人の差が曖昧なこの人は、主イエスのことを「善い」と呼んでしまいます。それならば自分のことも自分で「善い」者としてしまうかもしれません。人が立派さを積み重ねていけば、人と神さまの差は小さくなってゆき、神さまの義さに近付けると、積み重ねた立派さによって自分が神さまからの救いを得るのに相応しい者であることを揺ぎ無いものとしてゆけると思って、頑張って来たところから、主イエスはこの人を、ただ神さまの恵みによって生きるところへと、導こうとされました。人の内側にため込んできたふさわしさではなく、ただ神さまから与えられる恵みによって神さまの民とされていることを受け入れることへと、受け入れ感謝することへと、その感謝を善い行いとして表してゆくことへと、導こうとされました。そのために律法で記されているように隣人を愛し、必要としている隣人に自分が神さまからいただいてきた豊かさを与えなさいと、そしてあなたのふさわしさではなく、私の招きを基に、私のところに帰ってきなさいと、私の後ろについてきなさいと、呼び掛けられました。

 

主イエスは裕福な人皆に対して、持っているものを売り払い、貧しい人々に施し、生活を余すところなく主と共にする仕方でご自分の後に従えと命じておられるわけではありません。裕福な人はこうしなさいと、規則を定めておられるわけではありません。かつて主は「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われました(834)。自分を捨てるとは、自分の十字架を背負うとはどういうことなのか、それぞれが主のみ前で問われます。この人には、善い行いのつみかさねが自分のふさわしさを固め、善い行いと豊かな財産が自分を成り立たせているとする、この人が自分で自分に当てはめている枠を捨てることを求めておられます。主イエスはこの人自身が積み上げたふさわしさや、この人が大切に守って来た富ではなく、この人自身をご覧になって、招いてくださっています。しかし自分がよすがとしてきた周囲の人々の高い評価と財産を手放し、自分で努力し築き上げてきた人生の拠点を後にして、主イエスのお傍を自分の人生の住まいとすることができず、この人は悲しみながら立ち去りました。「悲しむ」と訳された言葉には、「衝撃を受ける」という意味と「陰鬱になる」という意味があります。自分が頑張って自分に加えていくふさわしさによって救いを得るのではなく、ただ神さまの恵みに与ることが救いの第一歩であるという、自分のこれまでの生き方をひっくり返してしまう主の言葉は、それは大きな衝撃であったでしょう。そんな求めに応じられるかと立ち去ったのなら、この人は呆れるか怒るか、していたでしょう。しかし悲しみに沈んで立ち去りました。永遠の命を受け継ぐことを真剣に求めながら、その恵みを受けるところまで突き進むことができなかった、神さまが求めておられるものを自分の現実とすることができなかった人は、悲しみに沈みます。主に従いなさいと招かれながら、従わずに去っていったのは、この福音書においてこの人だけであります。

 

悲しんだのはこの人だけではありません。主イエスも弟子たちを見回し、多くのものを持つ者が神の国に入ることの難しさを嘆かれます。「なんと難しいことか」と、二度も繰り返されていることに、主の嘆きの深さが現れています。去って行った人だけでなく、多くの富を持つ者全てにとって難しいことを、らくだと針の穴に譬えられます。その地域で人々にとって身近な動物の内最も大きならくだが、身近なものの中で最も小さな針の穴に入る方がまだ易しいと、つまり不可能と言えるのだと。

 

主は再び弟子たちを見つめて、人間にはできることではないが、神にはできる、と約束されます。裕福な者たちだけではない、人間全般のこととして語られます。誰もが、自分にとって意味のある、価値のあるものを内に持つことが、救いにふさわしい者となる道であると思います。持ちたいものは富であれ、知識、知性、能力、時間、人脈、他者からの評価、他者からの好意、愛情であれ、人それぞれです。意味のある、価値のある、獲得してきたそれらのものを手放し、他者に仕え、主に仕えることの内に救いがあると聞いても、受け入れ難いのです。それでいてどんなに獲得することに力を注いでも、それによって救いを得ることも、誰かを救うことも、人には成し得ないのが私たちの現実であるのです。

 

 

子どものように神さまのご支配をただ賜物として受け入れることがなかなかできない私たちを嘆きながら、それでも私たちを見つめながら、神さまにはできると約束してくださったキリストの言葉が、私たちの拠り所です。この神さまの恵みにご自身が従い通し、全てを捨て、命まで捨てて、私たちに死に妨げられない命の道を切り開いてくださったキリストのみ業です。主の言葉に従うことを恐れる私たちの臆病さにもかかわらず、主に従う一歩を踏み出すことができるならば、それは、人にはできることではないことを為してくださる神さまのみ業に依ります。私たちにおいて神さまが起こしてくださる奇跡と言えます。主の約束に繰り返し聴きつつ、神さまのご支配に信頼して一歩を踏み出したいと願います。