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神が求めるものとは

2021.10.24. 主日礼拝

アモス5:21-24、エフェソ2:14-16

「神が求めるものとは」浅原一泰

 

かつてあのアドルフ・ヒトラーが政権を握ったナチス・ドイツにおいて600万人ものユダヤ人が殺された。数ある収容所の中でも悪名高いアウシュヴィッツでは100万人以上ものユダヤ人が犠牲となった。かろうじて生き残った精神科医の証言が残されている。明日の命も分からない地獄の中で罵られ、殴られ、蹴飛ばされる等の虐待を受け続けるうちに多くのユダヤ人はナチスの言いなりになっていく。しかしそのような中にユダヤ人の医者のグループがいて、健康を害して衰弱していくユダヤ人囚人たちの介抱や手助けに力を尽くした。なぜそうするかというとその医師たちは他人が苦しむ姿を黙って見ていられないからであり、一方で自分自身は正しく苦しむ術を知っていた、だからどんなに最悪の状況の中でも他者の為に力を尽くせたという。やがてその医師たちも健康を害して帰らぬ人となっていくのだが、今わの際の最後の最後まで、彼らの口からナチスに対する憎しみや恨みの言葉は発せられなかった。むしろその口からこぼれたのは「赦しと希望の言葉」だけだった、と生き残った医師は証言する。ナチスの人間が悪いのではない。彼らを動かしたシステムが悪いのだと。けれども神は生きておられる。今は実現していないが、やがて民族は違えども同じ人間同士が信じ合い、助け合い、愛し合う理想の世界がやって来る、その日を信じ、待ち望む思いで、ある医師は微笑みの表情で、ある医師は目から喜びの涙を流しながら安らかに息を引き取ったという。その証言を残してくれたのは「夜と霧」の著者として知られるヴィクトール・フランクル。今申し上げたエピソードは、彼と宗教哲学者ピネハス・ラピーデとの対話集である『人生の意味と神』という本の中に出てくる。

 

そもそもユダヤ人はヒトラー以前から白眼視され、疎外されてきた。理由は絶対にキリストを受け入れないユダヤ人たちの閉鎖的な信仰心というか宗教意識と、人類の救い主にして神の独り子イエス・キリストを十字架にかけて殺した責任は彼らユダヤ人にあるという、後のキリスト教世界が彼らに押し付けたレッテルにあると言えば、そう的外れにはならないのかもしれない。ヒトラーはユダヤ人殺害を正当化するのに、キリスト殺しの責任を当時のユダヤ人が認めたマタイ福音書の箇所を引用したと言う。教会が支配権力を握った中世ヨーロッパにおいては、キリスト教では悪徳な仕事として認められなかった金融業の類が必然的にユダヤ人たちに回された。シェークスピアのヴェニスの商人にある通りだ。そんなユダヤ人たちはドイツ民族より劣悪な人種であり、彼らをそのままにしておいてはならないとヒトラーは訴え、当時の多くのドイツ人は熱狂した。しかしそういったものすべてが、ユダヤ人に原因があるからではなくクリスチャンたちが彼らに押し付けたものだったのである。そこに、悪いのは俺ではない、俺を騙して食べさせたあの女が悪い、しかも彼女を私に引き合わせたのは神様、あんただ、という自己弁護の為になりふり構わず責任を擦り付けるアダムの姿が仄かに浮かんではいないだろうか。しかし歴史は皮肉である。そのように疎外され、迫害されてきたユダヤ人の一部が今のイスラエルを建国し、最先端の軍事力を誇ってパレスチナ人らを攻撃し、力で封じ込めようとしているのだとすれば、人間の醜い負の一面に虚しさを感じざるを得ない。しかし神はそれを見抜いた上で人間を御自分に似せてお造りになったのだとしたら。それでも人間を信じておられるからこそ独り子をこの世にお遣わし下さったのとしたら。神は私たちに何を求めておられるのだろうか。

 

「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても、穀物の献げ物をささげても、わたしは受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」

先ほど読まれた預言者アモスの言葉である。その頃のイスラエルは経済的に繫栄し、貧富の格差が著しくなり、富める者たちによる貧しい者たちへの差別や人権の剥奪が横行する。借金をしなければ家族を養えない小作人たちは富める者たちの奴隷とならざるを得ず、貧しい彼らには神にささげるいけにえなどとても用意などできなかった。一方で金持ちたちは胡坐をかいて旨い酒を飲み、小作人たちから巻き上げたものを神への捧げものにして、自分はいかにも神に忠誠を尽くしているかのごとく信仰深そうな顔をして歩いていた。預言者アモスが痛烈に批判したのはそういった者たちが捧げるいけにえであった。なぜならそのようないけにえは、捧げる金持ちたちを益々自己正当化に走らせはするが、決して悔い改めさせないからである。ただ、預言者の言葉に彼らは耳を傾けなかった。アダムの末裔たる彼らはむしろこう主張する。「われわれは律法の掟どおりにいけにえを捧げている。聖書に書いてある通りに一日に三回祈りを捧げ、断食もしている」などと。それで世間の目は誤魔化せたのだろう。けれどもそれは、決して神が求めておられるものではなかった。

 

犠牲。それは旧約の律法にも定められている。そこには人間に悔い改めと改心をもたらす強い神のメッセージが込められていた。それを捧げることで、二度とそのような神の怒りを引き起こすことのないように捧げる者の心に刻み込ませる神の配慮であり、慈しみ深き誡めであったとも思う。しかし現実には、犠牲を捧げてもその人間から罪がなくなることはない。それどころか減るわけでも全くない。神に対して不誠実であり、アダムのように卑怯にも神の前から身を隠し、見つかったと分かれば咄嗟に言い逃れしようとする人間の見苦しさは、犠牲をいくら捧げたところでまったく変わるものではない。旧約聖書のイスラエル民族の辿った歩みそのものがそのことを証明していると言って良いだろう。

 

では私たちはどうだろうか。犠牲を捧げるということは、旧約には定められているが、我々キリスト者にはまったく無関係の他人事なのだろうか。個人的な意見であるが、私は旧約の犠牲を礼拝に置き換えて考えるべきなのでは、と思っている。神に招かれた時から、我々キリスト者は皆、礼拝を捧げる歩みを続けてきた。本来ならば、そうすることで私たちは言い逃れできない己の罪を深く見つめさせられ、悔い改めを求められ、しかしその罪を自分に代わって神の御子が背負い、十字架にかかってまでして裁きではなく赦しの言葉を語りかけて下さる、その深い神の慈しみと恵みを聖書から示され続けてきた筈である。礼拝、それは私たちを新たに生まれ変わらせるための神の生きた働きかけであった筈である。しかしどうだろう。私たちから罪がなくなっているだろうか。私たちは新たに生まれ変わらされてきたであろうか。皆さんはそうかもしれない。しかし少なくとも私は罪深い人間のままである。礼拝を捧げても捧げても、どんなに祈りを繰り返しても、生まれ変われてなどまったくいない惨め極まりない自分をいつも見せつけられてきた。悔い改めることも出来ず、ほんのわずかな破れからでも自分を正当化しようとする疚しさが溢れ出てきてしまう自分がいる。こんな私に礼拝を守る資格などあるのか、と思うこともある。そんなあなたに御言葉を取り次ぐ資格があるのか、と言われても仕方がないと思うこともある。しかし正直、それは私だけのこととはどうしても思えない。責任を擦り付ける気持ちなど毛頭ないが、思うところを言わせてもらえば、皆さんも胸に手を当てれば、本当のところは同じような忸怩たる思いをして来られたのではないだろうか。だとしたらこれからも私たちは虚しく、変わり映えしない歩みを続けることしか出来ないのだろうか。

 

そういう私たちに聖書ははっきりと語りかけてくる。ローマ3:21であるが、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」と。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と。

まったく同じことを、先ほど読んでいただいたエフェソ書も語りかけてくる。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

いくら礼拝を捧げても、いくら祈りに祈りを繰り返しても、私は義とされる人間ではない。神から遠ざかったままの、裁かれることを恐れて卑怯にも神に対して身を隠したままの、神に敵対する罪深い人間のままである。しかし聖書は言うのである。そのような人間をこそ振り向かせ、悔い改めさせるのが神の義なのだと。そのような者のためにこそキリストが罪を償う供え物とされ、神と和解させて下さるのだと。その神の義は、ユダヤ人をも異邦人をもキリストにあって一つに結ばせる神の恵みである。「善きサマリア人のたとえ」にあるように、ユダヤ人たちから見下されていたサマリア人とユダヤ人を、敵対関係にあった両者を和解させる神の愛である。イエスを三度も知らないと言ったペトロとイエスを見捨てた他の弟子たちを、イエスを死からよみがえらせてでも呼び戻すのが神の義である。ナチスの人間であろうとユダヤ人であろうと一つに結び合わせ、和解させる力を持つのが神の義である。神の義は、らくだを針の穴に通らせることさえ不可能ではない。マルコ10:17「人間に出来ることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とイエスは言われたからだ。いくら捧げても罪を拭えない人間の犠牲に代わって、神が人間の為に犠牲を用意してくださる。それどころか今や神自らが人の姿形を取って十字架の上で血を流し、このキリストが全ての人間の為に犠牲として捧げられた。この神の義によって今、私は礼拝へと招かれている。この神の義によって罪にまみれた私が説教者として立てられている。このような私をも見捨てずに説教者として、聖書を生徒たちに伝える教師として用いて下さるのが神の義なのだと、復活の主イエスは、イエスを通して神ご自身が、この礼拝においてそのように語りかけて下さっている、それこそが律法ではなく福音なのだ、と語りかけて下さっているのだと、私にはそう思われてならないのである。皆さんにそのことを伝えずにはいられないのである。

 

この神の義に対して、私には誇れるものなど何もない。この神の義によって私はただ、粉々に打ち砕かれるのみである。しかしそれが古い人間に死ぬ、ということなのではないだろうか。その時初めて、その自分から新たに、キリストによって「新しい人間」が産声を上げさせられるのではないだろうか。「神の喜ばれるいけにえは打ち砕かれた霊、神は砕けし悔いた心を軽しめられない」と詩編51は語る。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」とパウロは言った。神の助けによって、そのような礼拝を主にある兄弟姉妹である皆さんと共に捧げ続けて参りたい。錆びついた忌まわしい人間の義でなく、神の義によって生まれ変わらされ続けて参りたい。