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7つのパンと少しの魚

マルコ81107つのパンと少しの魚」

2021919日(左近深恵子)

 

 主イエスが、とても多くの人々の空腹を、僅かなパンと魚で満たしてくださった出来事は、聖書の中でもよく知られた話の一つではないでしょうか。同じような出来事が二つ記されています。マルコによる福音書の第6章に記されている、5つのパンと2匹の魚で5千人もの群衆を養われた話と、今日の第8章の話です。人数や用いたパンや魚、食後に残ったパン屑を集めた籠の数、また主イエスと弟子たちのやり取りなどに異なるところもありますが、その構造はとてもよく似ています。6章の物語の方が詳しく書かれている部分も多く、印象深いのは6章の方ではないでしょうか。既に語られている似たような物語を再び語らず、“同様のことがその後も起こりました”と簡単に述べて済ませることもできたでしょう。しかし福音書はそうせずに、二つ目の出来事も語り伝えています。

 

 主イエスご自身も、今日の箇所の直ぐ後、819以下で弟子たちに「わたしが5千人に5つのパンを裂いたとき」について尋ね、次に「7つのパンを4千人に裂いたとき」について尋ねておられます。6章の出来事に代表させてまとめてしまうのではなく、“あの時はどうであったか、ではその後の時にはどうであったか”と、それぞれの出来事について問われています。主が一つ一つ受け止めることを求めておられる、その二つ目の出来事に共に聞いてまいります。

 

 この頃、ユダヤの民の指導者たちの、主イエスに対する敵意は一層強くなっていました。本来ならば、主イエスの言葉こそ待ち望んできた神さまからの救いを告げる喜びの報せだと、民の先頭に立って主イエスに従うべき指導者たちが、主イエスを殺す計画まで立て始めていました。弟子たちの、理解の不十分さも、ことある毎に露わになっていました。そして人々は、主イエスの言葉と驚くような業をひたすら求めていました。主の行く先々に人々が押し寄せてきて、主イエスと弟子たちは食事を取る暇もないくらいでした。これまでのお働きを祈りつつなしてこられた主イエスは、指導者たちや人々から離れたところで弟子たちと過ごす静かな時を持とうとされます。しかしそうして向かった場所にも既に主を追ってきた群集が待ち構えていました。人々をご覧になって深く憐れみ、教えを語られ、人々の空腹を5つのパンと2匹の魚を用いて満たされたのが、6章の出来事でした。

 

その後主イエスは異邦人の人々が暮らす土地へと行かれます。祈りと休息のためでしょう、ご自分の存在を人々に知られないようにと願っておられましたが、そこでも主イエスは隠れていることができません。異邦の民までも、ユダヤの民の一人である主イエスの言葉と力を求めます。神さまの恵みが自分たち異邦の民にも及ぶことに固く信頼し、諦めることなく希望を持ち続け、幼い娘の助けを主に求めた母親のことも述べられています。ガリラヤであろうと異邦の地であろうと、人々の苦しみは深く、救いを求める思いは切実です。主イエスの言葉と業に触れた人々は、主イエスがなさったことを他の人々に言い広め、ますます多くの人が知るようになりました。

 

 こうして6章のパンと魚の出来事の後、神さまのご支配の福音は、ユダヤ人の地から異邦人の地へと、互いの垣根を超えて広まってゆきました。それから主はガリラヤの地域に戻ってこられます。そこで4千人の人々にパンと魚を分け与えられるのが、今日の8章です。二つの同じような出来事の間で、主イエスは異邦の地を巡ってこられました。8章でパンと魚を分けられた場所はガリラヤ湖のそばですが、そこは異邦人の地域であったという捉え方もあります。この場所がどこであったのか定かではありませんが、それまでの主イエスのお働きを見聞きして、主を求めてやって来た異邦人が、その日そこに居た可能性はあるでしょう。「中には遠くからきている者もいる」と3節で主が言われていることも、異邦の地からはるばるやって来た人々の存在を示しているのかもしれません。僅かなパンと魚で4千人もの群衆の空腹を満たしてくださったことは、奇跡と言う他無い、とても不思議なみ業です。けれど私たちの心を揺さぶるのはそれだけではありません。代々、ただお一人の主、イスラエルの神を礼拝し、聖書の言葉に耳を傾けてきたユダヤの人々、少なくともユダヤの民である弟子たちと、主イエスとの出会いを通してつい最近神さまの恵みに触れたばかりの異邦の人々が、共に主イエスからパンと魚を分け与えられ、同じ場所で食事をする情景です。どちらの民にとってもそれまで考えられなかったような奇跡と言えるのではないでしょうか。悔い改め、福音を信じる人々を、ご自分のもとに集め、養ってくださる主イエスの恵みは、すべての人に開かれていることが、8章の出来事でより明らかになっています。余ったパン屑を集めた籠の数も、このことを示しているとの考え方もあります。6章の12という数は、神の民イスラエルの12の部族を表していると、そして8章の籠の7という数は聖書において完全を表すので、すべての民を示しているのだと、世界の至るところに主イエスの恵みが満ちることを示しているのだと受け止めることもできます。いずれにしても、ティスルやシドン、デカポリスといった異邦の地を巡る旅の後に設けられた食事の場は、主イエスによって私たちもこの恵みの中へと、境を越えて招き入れられている幸いを思わされるのです。

 

 8章の出来事において6章よりも更に表に現れているのは、人々のために配慮される主イエスの姿です。6章と違って群衆が主イエスのそばに来るまでの経緯は述べられていませんが、主イエスの言葉から、彼らがもう三日も共に居ることが分かります。群衆に食べる物が無いことをご覧になった主は、弟子たちを呼び寄せて人々の状況に目を向けさせます。人々の今の状況だけでなく、これが続くと更にどのような状況に陥るのかまで考えさせます。中には遠方から来ている者もいると、主は言われます。群衆を全体としてご覧になっているだけでなく、群衆の中にいるそれぞれの人のことを見ておられ、案じておられます。2節に「群衆がかわいそうだ」との主の言葉があります。「かわいそうだ」と訳されている言葉は直訳すると「私はかわいそうに思う」という言葉です。「憐れに思う」とも訳される言葉で、もともとは内臓を意味する言葉です。内臓が痛むように相手の痛みを共に痛む思いであり、聖書では主イエスの人々に対するみ心がしばしばこの言葉によって表されています。6章の場面でもご自分を追って駆けつけてきた群衆の、飼い主のいない羊のような有様を主が深く憐れんだ、とある、「深く憐れむ」と訳された言葉が同じこの言葉でした。人々は主イエスに出会ったことで、内なる飢えや乾きを満たす神さまからの言葉や業に触れ、主イエスを一層求めるようになりました。自分や自分の大切な人を生かす言葉、飢え乾きから回復させる言葉をもっと聞くことができるのなら、病を癒す方の近くにもっと居られるのなら、距離の遠さも時間が経つことも人々は厭わなかったのでしょう。そうして結局三日も主の側に留まっていた。その結果肉体の飢えに直面している人々の困窮を見つめながら、内臓が痛むような思いでかわいそうだと言われたのでしょう。

 

 人々の魂も身体も案じ、養うために動かれる主イエスとは対照的に、主イエスの恵みに信頼しきれない弟子たちの姿も一層浮き彫りになっています。主イエスが5千人を5つのパンと2匹の魚で満たしてくださった出来事は、それほど遠い過去のことではありません。その時のことをすっかり忘れてしまうほど、時は経っていません。それなのに主イエスに呼び集められ、群衆の飢えを案じる主の言葉を聞いた弟子たちは、まるで初めてこのような状況に直面している者のように、戸惑います。既に主イエスがパンと魚によって5千人を養ってくださった出来事を体験している弟子たちなのに、彼らもそのパンと魚をいただいたであろうに、彼らはなぜ、こんな人里離れた場所では十分な食べ物は手に入らないと初めから考えるのだろう、なぜ主イエスに求めることをしないのだろうかと、思うのではないでしょうか。

 

 パンと魚を分け与えてくださった方を前にしながら、ここでは十分な助けは得られないと追いつめられる弟子たちの姿は、私たちの姿でもあります。弟子たちは、「こんな人里離れた所で」と、自分たちがいる場所の困難さを嘆きます。6章で群集が養われたのも「人里離れた所」でした。その時も申しましたが「人里離れた所」と訳された言葉は、荒れ野とも訳せる言葉です。人が住まない場所、人が生きていくために必要な食べ物や水がほとんど手に入らず、寄る辺なさ、孤独さ、無力さが露わになる場所です。それまで神さまから必要な恵みを与えられてきた、思った通りの仕方によってではないけれど、寧ろ自分が願うよりも深い恵みを与えられてきた。それなのに寄る辺ない状況で大きな欠けに直面すると、不安に吞み込まれ、かつて同じような大きな欠けの中でも主の恵みに満たされた経験まで、霞んでしまう人間の姿があります。荒れ野のような状況に陥いる度に困難さしか目に入らなくなる、自分たちの不十分さ、無力さに追い詰められ、主に真っすぐ向いて、心から助けを求めることもできなくなってしまいます。一度恵みで満たされれば、二度と不安に流されることなく、固く主に信頼して主を求め続けられるわけではない弟子たち、私たちのために、主は同じような御業を繰り返してくださるのです。

 

 弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れるのですか」と主に尋ねます。かつてその方が裂かれたパンを受け取って、群集に配り、また戻って受け取っては、群衆に配る、その幸いな往復を繰り返した弟子達たちが、パンを与えてくださったその方に、 “こんな状況で、手に入れられるはずがないではないですか”という苛立ちをにじませながら、「どこからパンを手に入れるのですか」と問うています。養い手のみ前で、与えてくださいと願うよりも、どこを探したら良いのかと、その方向を教えてくださいと言う見当違いな振る舞いを、愚かだと笑うことができない私たちです。主イエスはそのような弟子たちに、「パンは幾つあるか」と問われます。文字通りに訳せば「あなた方はパンを幾つ持っているか」となります。弟子たちが与えられているものを今一度見つめ直すことを求められます。7つのパンと小さな魚が少しです。彼らには微々たる量にしか見えないこれらを、主は用いられます。人々を地面に座らせ、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、また賛美の祈りを唱えて配らせます。人里離れた荒れ野のような場所であっても、メニューはいつものパンと魚であっても、主が食卓の主人となって、祈りで始まる正式な食事にすべての人を招いてくださいました。そして不思議にも、誰もが満腹してもまだ有り余る豊かな糧で満たしてくださいました。この食事の支度に携わりながら弟子たちは何を思ったでしょうか。少し前に同じようにパンと魚を人々に運んだ日のことではないでしょうか。今日と同じようにささげてくださった感謝の祈りの言葉、パンを裂いてくださる姿、あの日人々と口にしたパンと魚の味ではないでしょうか。

 

 弟子たちも私たちも、主イエスの恵みを味わいながら、その恵みを理解しきれず、主に信頼することに立ちきれなくなってしまう者であります。その私たちを、同じような仕方で、天の恵みで満たしてくださいます。必要を満たす以上の、溢れ出るような豊かな恵みで満たしてくださいます。それでも弟子たちは、主の養いを理解することができていません。今日の出来事の後で、主は二つのパンの出来事を弟子たちに思い起こさせ、そして「まだ悟らないのか」と嘆かれます。満たされることと理解することがなかなか一致しない私たちのことも、どんなに嘆いておられることかと思います。そしてまた、主が悟ることを願っておられる、そのことにも気づかされます。主の恵みを味わう経験を理解することに遅く、主の信頼に立ち続けることも難しい私たちのために、霊の糧と肉体の糧をもって繰り返し養ってくださる主の憐れみを思います。繰り返し恵みで満たされてきたのに、振り返れば理解と感謝を過去に置いてきてしまっている私たちを嘆きながら、恵みにお応えすることを願ってくださっている主のみ心を思います。私たちの肉体だけでなく魂を生かしてくださる救い主へと、まっすぐ向き続け、キリストとの交わりによって、恵みにお応えしてゆく群れでありたいと願います。