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嵐の中でも

「嵐の中でも」マルコ43541

2021718(左近深恵子)

 

 コロナの感染が広がって以来、聖書のみ言葉は私たちに特別な重みをもって響いてきました。多くの教会が特に新たな思いで聞き直してきた箇所が幾つかあると思います。今日の箇所はその一つだと思います。美竹教会でも、昨年の4月に浅原先生がこの箇所でみ言葉を取り次いでくださいました。主のみ前に共に集い、顔と顔を合わせて主を礼拝することを心から欲していながら、ほとんどの方が美竹の会堂に集うことができなかった時、まさに嵐の只中にいるような私たちに、生命の危険が身近である時も、私たちは御子イエス・キリストの贖いの死によって、神さまに赦されて生かされている命を生きる者とされていると、このことを世に証しさせるために、主が教会をお立てになっていると、寧ろこのような試練の時にこそ、教会をお立てになっている神さまのみ心に私たちは立ち帰ることができるのだと、語ってくださいました。

 

 その2か月後に私も同じ箇所で、夕礼拝で語りました。それは、3か月ぶりに夕礼拝を再開することができた日でした。なおも状況は落ち着かず、この先の一週間がどうなるのか、暮れて行くこの夜の間に状況がどう変化するのかさえ分からない中にあって、主の日の一日を、礼拝によって閉じることができる幸いを噛みしめました。絶望し、取り乱している弟子たちの傍で、同じ舟の中、静かに眠っておられる主イエス、その主イエスの舟の中に私たちも居ることを思い起し、この先の日々も、主が共におられない時は無いということを礼拝において共に確認しながら夜を迎えることができる幸いを、新たにしました。

 

 この日主イエスと弟子たちは、舟でガリラヤの湖を渡ろうとしていました。この舟は、主イエスが湖のほとりに集まって来た夥しい数の人々に語るために、乗り込み、そこから語っておられた舟でした。

 

 夕方になると、主イエスは弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と言われました。向こう岸は異教の民が多く住む地域です。福音を宣べ伝えるために世に来られた主イエスは、聖書の神を知らない人々のところにも福音をもたらすことを願われます。湖畔の群衆を後にして、弟子たちは主イエスが乗っておられる舟を漕ぎ出しました。

 

 一日中神さまのご支配を、譬えを用いて群衆に語り続けておられた主イエスは、疲れ果て、舟の中で眠っておられました。岸を離れ暫く進んだ頃でしょうか、激しい突風が起こり、波が高くなり、嵐になりました。舟の中に水が打ち込んできて、水浸しになるほどでした。弟子たちの中には、弟子になる前は漁師であった者たちがいました。このガリラヤ湖で生計を立ててきた彼らは、この湖にしばしば突風が発生する現象のことを熟知していたでしょう。そのような場合に、これまでの経験と技術で巧みに身を守って来たことでしょう。けれどこの日の嵐は彼らが経験したことの無いものであったことが、溺れる恐怖に呑み込まれそうな彼らの様子に明らかです。強風と高波に舟は激しく上下し、横波によって大きく傾き、容赦なく水が流れ込んでくる。自分たちのこれまで培ってきた技術も経験も歯が立たない困難に直面し、安全な岸から離れた湖の只中で、彼らの内側にこのような思いが増大していったのではないでしょうか、“次に大波に襲われたら舟は横倒しになってしまう”“誰かが舟から放り出されてしまう”“これ以上水が入ってきたら沈没してしまう”。こうも思ったかもしれません、“向こう岸に行こうと主が言われたから、漕ぎ出したのに”と。

 

 主イエスは眠っておられました。それが弟子たちには理解できません。今日の出来事はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書がそれぞれ伝えています。その中で特にマルコによる福音書は「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」との弟子たちの言葉を伝え、主が寝ておられることに納得できない彼らの姿を浮き彫りにします。主イエスが自分たちの恐怖も不安も必死の努力も分かってくださっていないと思う彼らは、“自分たちの思いは、自分たちの困難は、主イエスにとってどうでも良いことなのか、自分たちの命がどうなっても良いのか”と、主を詰るような言葉をぶつけ、自分たちの恐怖と不安を共にするように主に強います。主イエスは起き上がり、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と命じられます。これまで人々を支配している悪霊に命じられてきたのと同じ「黙れ」という言葉を、猛々しく弟子たちを襲う湖に向かって発せられます。風は止み、湖は凪になります。そして弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語られるのです。

 

 主イエスは「まだ信じないのか」と言われました。マタイでは「信仰の薄い者よ」と言われ、ルカでは「信仰はどこに行ったのか」と言われます。自分たちが直面しているのは暴風に襲われた危機だと思っていた弟子たちに、彼らが直面しているのは信仰の危機であることを告げられます。主イエスを詰ったから厳しい言葉でその態度を指導されたのではなく、彼らの恐怖と不安は、信仰を失ったことにあるから、彼らの不信仰の姿を明らかにされたのです。

 

「まだ信じないのか」という言葉は、「まだ信仰を持っていないのか」「未だ信仰に到達していないのか」とも訳せます。弟子たちは、神さまの国の福音を人々に宣べ伝えるために主イエスが祈りをもって召し出された者たちです。誰よりも間近で主イエスの言葉を浴びるように聞き、既に世に現れ始めている神さまのご支配を指し示す主イエスのみ業を、もらさず見てきた者たちです。更に、今日の箇所の直前には、主イエスが他の人々には語っていない譬えの深い意味も彼らに教えておられたことが記されていました。主イエスは、神さまのご支配がどのようなものであるのか、様々な譬えで人々に示してこられました。譬えは神さまの恵みの本質を指し示しますが、譬えの表面的なところだけを見ていても、それを受け留めることはできません。譬えが指し示すもの、その奥にあるものを、弟子たちが神さまからの光を受けて見つめ、受け留めることができるようにと導くために、主は他の人々に与えていない教えまでも与えてこられました。その弟子たちが、舟に乗り込んだ時には主イエスの弟子として、主への信頼、神さまへの信仰に満ちていたであろう彼らが、ひとたび嵐が起こると神さまがおられないかのように、神さまのお力が世にもたらされていないかのようにパニックに陥り、主イエスから、「未だ信仰に到達していないのか」と言われています。

 

主イエスは父なる神に信頼しておられたから、眠っておられました。そして、ご自分においてもたらされている神さまのご支配の現実に既に触れてきている弟子たちも、危機の中にあっても神さまのご支配に信頼し続けることを願っておられた、彼らが力を尽くし、その力を超えた先のところでは、主なる神に投げかけ、お委ねすることを願っておられたのではないでしょうか。しかし弟子たちは主イエスの訓練も教育も受け止めることに不十分であったので、信仰に立ち直しなさいと言われた。そして、やはり既に主のみ業に豊かに触れてきていながら、危機の中で信仰に立ち切れなくなるあらゆる時代のキリスト者も、「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」との主の言葉に、目を覚まさせられてきたのです。

 

福音を受け止めることの不十分さは、困難の中で露わにされます。これまで表に現れていなかった弱さ、歪みが、岸から離れた湖上で襲う嵐の中で明らかにされたように、私たちが直面する嵐によって、私たちの「まだ」な姿が露わにされます。このような困難がまさか自分たちに降りかかるとは、まさか自分たちの時代に起こるとはと、これまで考えもしなかった困難に直面し、弱かったところがあぶり出され、キリストとの結びつきの緩かったところが綻びとして露わになります。キリストがこれまでどれだけ「まだ信じないのか」と嘆いてこられたことかと思います。私たちの思いも業も、私たちが言葉にすることも行動することもできないことも全て、私たちの傍らにおられる主に投げかけること、お委ねすることを、どれだけ待ってこられたことかと、思います。

 

弟子たちは嵐の中で実態が露わになりました。旧約聖書は、得体が知れない危険な存在として、大水を、海を、嵐を、描いてきました。荒れた海はしばしば、神さまに逆らう罪に呑み込まれ、罪を静めることも自分の自ら静まることもできない世を表しました。罪のうねりは、泥や土を巻き上げて混乱を深めていく荒れた海に譬えられてきました。

 

特に創世記の天地創造は、神さまが混沌とした、闇が面を覆う深淵の水を押しとどめられ、乾いた地を造って、造られた者たちが住まう所としてくださったと物語ります。神さまは暗く深くどこでどのような流れが逆巻いているのか見極めることもできない混沌とした状態に、秩序を造ってくださいました。被造物たちに神さまが家を与えてくださり、その命と存在と生活を祝福してくださいました。私たちの命と存在と生活は、混沌とした水を押しとどめる神さまの闘いと勝利によってもたらされているのです。

 

創造主なる神さまは、自然の力の背後にあって、お造りになり、祝福された秩序を支配する方であります。私たちに、その秩序をみ心に適う仕方で守り、その中で主に信頼して生きることを願っておられる方です。思いもよらない苦難の中、御心に信頼することにもがき苦しんでいたヨブに、嵐の中から語り掛けてくださる方です。ご自分の統治に信頼するならば、嵐のような苦難においても絶望に呑み込まれることなく、神さまを避けどころとすることへと、最後は神さまの平安の岸辺へと導いてくださる方であります。そして湖上で嵐を鎮められた主イエスのみ業において、この神さまのご支配が実現していることを、キリスト者たちは繰り返し受け止めてきました。嵐も鎮めるこの方は、人々がその流れの中に引きずり込まれそうになる混沌の力を支配される方、ご自分の命を十字架に捧げ、肉を裂いて血を流して、混沌の濁流に人が支配されない秩序を実現してくださったキリストであり、人々はそのキリストのもとへと立ち帰ってきました。このマルコによる福音書の時代の人々も、指導者を奪われ、迫害の力が自分たちに迫って来る危機の中で、この箇所を宣べ伝えたことでしょう。歴史の中で多くの教会や教会のグループが、この場面を自分たちの信仰を表すシンボルとしてきました。一人一人の信仰者も、一つ一つの家族も、危機の時にこそ、この出来事に聞いてきたのです。

 

弟子たちは切迫した状況の中で自分たちの無力さを思い知りました。自分の期待や錯覚に届かない不完全な自分を見出しました。そして主イエスに、神さまのご支配を見出しました。だから主イエスを恐れるようになりました。それは、嵐に対して抱いていた恐怖とは異なります。神さまの赦しと祝福に心から信頼する者が抱く畏れ、嵐の只中にあっても神さまの秩序に生きることを得させてくださる主なる神への畏れ、自分たちと共に神さまがおられることへの畏れ、自分たちが生きている場所において神さまが為さったみ業に対する畏れです。

 

 世界はなおも混乱の中にあります。一個人としての私たちの力の小ささを思わされます。けれどこの混乱の時代においても、キリストが主であると言う事実は全く変わりません。洗礼を受け、イエス・キリストのものとされた人々は皆、主が共におられる舟の一員であるという事実が、損なわれることはありません。主イエスが私たちの恐怖や不安を共有してくださることよりも、主イエスがわたしたちの救い主であるという事実、私たちの目にはキリストが眠っておられるように見えるとしても、私たちが神さまのご支配の中に、キリストによって結び付けられているという事実の方が、大きな支えと深い慰めを私たちにもたらすのです。