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閉ざされたバブルに吹くペンテコステの風

 先日新聞で、ある情報学の研究者(ドミニク・チェン早大准教授)が、「フィルターバブル」、という言葉を使って、この10数年、特にコロナウィルスの蔓延によって強まっている社会現象について語っている記事を読みました(「インタビュー・わかりあえなさと共に」朝日新聞2021514日朝刊)。昨年の大統領選挙で明らかになったように、スマホやSNSなどに、自分の好みや都合にあう情報ばかり入ってきて、自分と似たものの考え方や政治的な信条、価値観のバブルにいつしか閉じ込められて、知らずうちに異なる価値観を許容できなくなる傾向がみられる。「わかりあえる集団」と「分かり合えない集団」の区分がはっきりして、他人との何気ない情報を確認する機会も減ってゆく。コロナ下の巣ごもりで、一層スマホやネットなどを通して情報を得る比重も高まって、互いのバブルは固く閉ざされて、外部との接点が失われて、言葉も通じなくなる傾向に拍車がかかっている。そもそもスマホアプリは、利用する人の好みに合わせた情報に、すぐにたどり着かせて、特定の情報に対する飢餓感を誘発するように設計されているため、どんどん似通った興味や関心のある情報が入ってくるようになっていて、いつしか中毒症状に陥るように作られている、とも書かれていました。閉ざされたフィルターバブルがあちらこちらに膨らんで、分かり合えなさの中に生きる現代と、どう向き合うのかを考えさせられました。

 そのような中で今年もペンテコステを迎えています。聖書をひも解いてみますと、ペンテコステとは、2000年前、世の片隅の閉ざされた小さなバブルに聖霊が吹き寄せて、そこにいたイエスキリストの弟子たちの祈りの輪に吹き込んで、全体に満ち溢れて、噴き出して、全世界へとキリストの福音をはじきさせた疾風怒濤の出来事でした。聖書が語る歴史をそれ以前とは画するような、新しい時代の到来を告げる出来事として描き出されています。この時に世界に吹き込んだ風は、今なお世界を吹きぬけて、今日も美竹教会はじめ世界の教会に新たな息吹をもたらす聖霊の働きに現れています。(聖書では「霊」と「風」「息吹」は同じ言葉です)。今日はマスク越しにではありますが、その聖霊の息吹を魂いっぱいに吸いこんでペンテコステの喜びを味わってまいりましょう。

 

 ペンテコステに聖霊が降ってもたらされた喜びを、2つに絞って、今日は共に噛みしめてまいりましょう。

聖霊は疾風のような音と共に炎のような舌となって表れたと記されています。一つ目は、この「炎のような舌」について聞いてまいりましょう。舌というのは、英語などでも母国語のことをMother Tongueと言ったりしますが、炎のような言葉を一人一人がいただいた、実は、次の4節で「ほかの国々の言葉」と訳されている「言葉」とここでの「舌」は同じギリシャ語です。聖霊に満たされた時、炎のような熱くたぎる言葉が、ひとりひとりに与えられたのだ、と。

今からちょうど65年前のペンテコステに美竹教会の初代の牧師であった浅野先生が語られたメッセージを「信音」で読みました。そこには、言と霊というタイトルでペンテコステの意味が語られていました。抜き出してみます。

「信仰は信(じること)であって単なる理屈ではないのであるから、我々の生活の中に何等か新しきもの、力づよきものが創造されていくためには神の霊によらざるを得ない。ペンテコステに於いては実に神の霊が弟子たちの上に降ることによって彼らを一斉に立ち上がらせた。イエスを失った彼らの周囲には厚い壁のようなものが取り巻いていて、彼らは身動きもできないような重苦しいものを感じていたであろう。復活のキリストが彼ら一人一人に現れて彼らを励ましたのであるが、神の霊が降るまでは彼らは動きだすことはできなかった。霊と結びつかなければ言には力がない。」(「巻頭言・言と霊―ペンテコステについて―」『信音』No.721956年)

創立25周年のペンテコステに語られた、浅野先生のメッセージを通して、聖霊が降って一斉に立ち上がらせられ、厚い壁の外へとはじき出る炎のように熱き言葉を、霊と結びついた力づよい言葉を語る舌が与えられたのがペンテコステであることを思い起こさせられたのです。今年90周年を迎えている美竹教会に確かに働いている聖霊が、常に、今も復活のキリストを思い起こさせ、このイエスこそ救い主です、との信仰を告白させるのです。

 それはルカによる福音書の最後に出てくる弟子たちの姿とも重ね合わせられることでしょう。使徒言行録につながるルカ福音書の最後の24章をひも解いてみます。そこには主イエスの十字架の死に打ちのめされて言葉を失い、さらに復活を告げた婦人たちの言葉に心凍てつかせて耳をふさいで、夕日に伸びる影を引きずるように立ち去ってゆく弟子たちが出てきます。エマオという村に向かう途上で復活の主イエスが旅の道連れになられたことが書かれています。一緒にいるのが主イエスとは思いもしない弟子たちに、道々、旧約聖書を解き明かされながら、ご自分について書かれていることをねんごろに説明されながら、家に入って食卓を囲み、パンを裂いて晩餐を共にされた。その時になってようやく弟子たちの目が開かれて、ああ、道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたじゃないか、私たちは復活の主に出会ったのだ、と知る。あたかも炎、内に点されるかのようにして、嬉々として燃えるような言葉を携えて仲間たちのもとに取って返し、あふれ出す喜びを語る者とされた。さらに話は続きます。

他の弟子たちもいるところで、主イエスは、聖書を解き明かされます。救い主は苦しみを受けて、三日目に死人のうちより復活し、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられることを弟子たちに悟らせて、ご自分の力が弟子たちにも与えられることを約束して、こういわれた、と。「エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなた方に送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまってなさい」と。この約束がペンテコステの日に満たされたことを今日の箇所は綴っているのです。エルサレムの都の小さな群れに限られていた喜びの輪でした。閉ざされたバブルの中にあった。そこにペンテコステの風が吹き込み、聖霊が満ち溢れ、復活の主イエスの証人として、炎のように熱き言葉が一人一人に与えられた。そして2000年経った今、その言葉が私たちの胸をも熱くせるのです。主イエスとの出会いを証する炎のような言葉をいただくペンテコステ。今日、私たちも主の食卓に招かれて、聖霊に満たされて、エマオでパンを裂かれた主を思い起こしながら、弟子たちの前で焼き魚を召しあがり、死の力に打ち勝たれた、復活の主を、はじけんばかりの喜びの言葉で証し続けてきた弟子たち、そして教会の先達たちの祝宴に招き入れられているのです。

 

もう一つの喜びについて、24節は、聖霊に満たされた弟子たちが、その語らせるままに「他の国々の言葉」で話し出したということが挙げられます。この後の9節以下にいろいろな民族や地域の名が並べられています。今の地図で言えば、例えば、イラク、イラン、アフガニスタン、そしてトルコ、南はエジプト、リビアなどが含まれる地域です。複雑に民族や文化が絡み合い、「分かり合える集団」と「分かり合えない集団」のバブルの間の激しいせめぎあいを耳にすること少なくありませんが、旧約聖書の時代からいくつもの王朝が入れ替わり、さまざまな民族が入り混じって言葉も文化も多様に入り組んで複雑な地域が、ペンテコステの出来事では視野に入れられているということです。10節~11節では、ローマ帝国の首都に住む都会人、生粋のユダヤ人とユダヤ教に改宗した人の背景、クレタ島に住む島国の文化、アラビアの砂漠の文化を背景とする人たちが触れられていますが、これは、互いの生活習慣や価値観の隔たりの深さも、ペンテコステの出来事では視野に入れられていることがわかります。ここに触れられている地域や文化のほとんどに、主イエスは赴かれることはありませんでした。おそらく3年間の主イエスの活動は、ガリラヤ地方とエルサレムの間に限られていました。大体140㎞(東京~静岡)位の間に収まる範囲です。けれどもペンテコステの出来事によって、主イエスを証する言葉は、その数10倍(エルサレム~ローマ2300㎞)に及ぶ範囲にまで燎原の火のごとくに響き渡ることになるのです。そのことについて、美竹教会の2代目の牧師をされた平野先生が聖霊について書かれているのです。

「(主イエスは)『助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう』(ヨハネ14:26)と語っているのである。この語は、聖霊はイエスによる神の啓示の継続者であるということを示している。聖霊は、イエスがその短い地上の生涯の間に教えきれなかったこと、また弟子たちがまだ受け入れる準備ができなかったために教ええなかったことを教えるのである。聖霊の本質的な働きは、地上のイエスの働きの継続である」(「パラクレートス(助け主)」『信音』 No.721956年)

 

ペンテコステに弟子たちの閉ざされたバブルに吹いた風は、エマオの宿屋での夕べの食卓の味わいも、閉ざされた部屋の中での焼き魚の宴(ルカ24章)の余韻も、湖畔で準備してくださった朝食(ヨハネ21章)で味わった喜びも、包み込んで、満ち溢れて、はじけだして、復活の主の証人としてパレスチナから小アジア、ギリシャ、そしてローマへと弟子たちを突き動かしたのです。海の文化を知らぬ者に、海に生きる者の言葉を与え、都会に住む者が、砂漠の民への慰めの言葉を携えさせ、ニューヨークで成功した医師であったものを、幕末に攘夷の殺気みなぎる日本に宣教師として遣わし(J.C.ヘボン)、地上の主イエスのお働きは、そうやって聖霊によって継続されて、今日、ここでの聖餐式の食卓に働いておられます。私たちも今日、受けるよりも与える幸いへと、ここから主が聖霊を通してなされる働きに魂の扉を開いて、閉ざされたバブルから、新しい息吹に生きるものへと造り変えられる幸いを噛みしめたいと思います。

 

 

祈ります。