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振り向かせてくださる

2021.4.25. 美竹教会主日礼拝

イザヤ65:1-5、ヨハネ20:11-18

「振り向かせて下さる」浅原一泰

 

わたしに訊ねようとしない者にも、わたしは、尋ね出される者となり、わたしを求めようとしない者にも、見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にもわたしはここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた。この民は常にわたしを怒らせ、わたしに逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき、墓場に座り、隠れたところで夜を過ごし、豚の肉をたべ、汚れた肉の汁を器に入れながら、「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな、わたしはお前にとってあまりに清い」と言う。

 

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 

14年前のある日の夜、一人の女性が亡くなったという連絡が私のもとに入った。私はその女性と会ったことも話したこともなかった。ただ彼女は当時私が牧していた教会員のお嬢さんであり、小学5年生の娘さんを持つクリスチャンで、年齢は41歳という若さだった。その日から遡ること10日前、彼女は職場でクモ膜下出血を起こして倒れ、救急車で病院に運ばれていた。しかしもうその時には医者も手の施しようがなく、意識が戻る見込みもないままただ死を待つだけの状態だったという。その日から最初の主の日が来て彼女の夫である男性が教会の礼拝に出席され、礼拝後に、もし万一のことが彼女の身に起こったら、私の教会で葬儀をして欲しい、と頼まれた。私のところに彼女の死が知らせられたのはその為であった。それは娘の生水が生まれてからわずか4日後のことであり、その時由祈は家の近くの日野市立病院産婦人科にまだ入院していた。当時私は携帯を持っていなかったので、病室で由祈の携帯にかかってきたその連絡を受け取ったわけである。翌朝、彼女のなきがらが教会に運ばれて来た時、5年生の女の子もそこにいた。その顔は真っ青で表情がなく、声もかけられないような状態だった。生水が生まれた喜びに浸る間もなく葬儀の準備を始めた時、生と死がまさに表裏一体であるのだと思わざるを得なかった。

 

後から聞いた話だが、彼女が病院に運ばれた時、医者はもう数時間しかもたないだろうと判断していた。しかし彼女はそれから10日間も生き続けた。誰もが諦めざるを得ず、見放さざるを得ないような中でも彼女の命は死と戦ってもがきつづけ、懸命に生きようとする意志を身をもって現そうとしていたのかもしれない。その姿がご家族たちに、特に当時10歳だった娘さんに何も訴えなかったわけがない。娘さんと共に生きて来た10年間よりも、むしろ最後のその10日間を通して彼女は娘さんの心に消えることのないメッセージを焼き付けようとしてたのではかったのかと強く感じた私はそのことを葬儀で語らせてもらった。

 

先ほどの聖書の中にも、自分にとってかけがえのない大切な人、心から信頼し先生と呼んでいたイエスが死んでしまった為にそのお墓の前で泣いている女性が出てきた。マグダラのマリアである。もう二度と先生とお話することは出来ない。相談することも、助けてもらうことも出来ない。励ましてもらうことも出来ない。彼女にとってそれは悲しみのどん底であっただろう。しかも、マリアの悲しみはそれだけでは済まなかった。お墓の中を覗くと、そこに置かれていたはずのイエスの体がそこから消えてしまっていたからである。

 

「あなたは何故泣いているのですか」。

お墓の中で、イエスの体が置かれていた場所に座っていた二人、聖書では「天使」と説明されているその二人がマリアにそう尋ねた。天使達はこの世界に生きている私達と同じ人間ではない。この世界ではなく神のもとで、神と共に生きる存在であった筈である。ただ、もしマリアがイエスの死に直面しなかったら、悲しみのどん底まで追い落とされていなかったら、平然と過ごしているだけのマリアだったら天使の姿には気づかなかったかもしれない。事実これまでどっぷりとこの世に染まっていたマリアには天使などどうでもよく、私が泣いているのは、私の主がいなくなってしまったからです、と叫んでしまう。しかし、もしかしたらそれは、死んだ人間はもう二度と帰って来ない、という人間の思い込みがこの時のマリアにそう思わせていたのかもしれない。ただ、そう言いながら、マリアは後ろを振り向いたという。確かにその時はまだ、マリアは死んだら命は終りだ、と誰もが思う世界しか見えていなかった。目に見えるものしか信じようとしない現実の世界、聖書でいう罪の世界に縛られたままであった。だからマリアは、振り向いたその方向に誰かが立っているのは分かっても、それが誰であるかは分からなかった。その人から、「あなたは何故、泣いているのですか。誰を捜しているのですか」と尋ねられても、初めマリアはそれが園丁だと思い込んで、あなたが私の先生の遺体を動かしたのなら、今すぐ返してくださいと、マリアは苛立ちを抑えきれずにそう言ってしまう。そこから、誰がこの私の悲しみを癒してくれるのですか、と見境なく当たり散らすしかない切羽詰まったマリアの心境がうかがえる。それは現実の我々の姿を映し出しているのかもしれない。今この世に生きている我々はこの時のマリアのように切羽詰まった状況に立たされてつい当たり散らしてしまう。他人に責任を擦り付けたくなってしまう。そうしてもがき続け、抵抗しようと試みるものの結局は現実と言う壁に押し返されて妥協し、諦めてしまう経験を何度も何度も繰り返して来たのではないだろうか。今のコロナ禍の中でも、この時のマリアのように我を見失う人は少なくないだろう。コロナの為に愛する人を失った方々、仕事を失った方々、看護に手を尽くしても患者を救えずに自分を責めてしまう看護師の方々、その日の為に汗水たらして全てを犠牲にして練習に打ち込んで来た運動系の部員たちなど、「いったいどうしてくれるんですか」と叫ばずにはいられない思いを必死に噛み殺そうとしている人間は決して少なくないと思う。そういう人々に対して、結局はそれが現実だとよく言えば弁えて、悪く言えば諦めて前に進むしかない。それが大人になるということだ、とこの世は畳みかけて来るのかもしれない。

 

しかし聖書は違う。聖書は伝えている。マリアはもう一度振り向かされる、ということを。それが起こらなかったらマリアは悲しみと苛立ちの余り、ただ人に八つ当たりをし続けるだけの存在であり続けたかもしれない。そのマリアの姿はイザヤが言った、「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民」そのものだったかもしれない。しかしその彼女がもう一度振り向かされた。すると彼女は、死んでしまったと自分が決めつけ、悲しみのどん底へと追いやられたと思い込むその原因である方が生きておられると気づくのである。「マリア」と名前を呼ばれることで、もう一度振り向かされ、見えるものしか信じない死の道ではなく永遠の命に至る神の道へと彼女の目が開かれ始めるのである。

ただ、すぐには彼女の目は開き切らない。だからマリアはその方が元通りに生きていると思い込んで抱き着こうとしてしまう。今まで通り傍にいて何でもかんでも助けて下さる。優しい言葉をかけてくれる。慰めてもらえる。今までと何も変わらないんだ。そう思い込んで有頂天になりかけたマリアにその方はこう教え諭す。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」それは、もうこれからは目に見える私にすがりつくことはやめろ、ということだ。その方は「わたしは父なる神のもとへ上る」とも言われた。目に見える命は死に打ち負かされる。しかし真の命は目に見えない。死の力をもってしても決して倒すことなどできないその永遠の命をお与えになる神のみもとから、あなたのことをこれからも、いつまでも私は見守り続けている、とその方はマリアに教え諭されたのだった。マリアはこうして次第に、永遠の命の泉が満ち溢れ続ける神の国へと目が開かれていく。そのように、一度目は気づかなかったとしてももう一度声をかけて下さる方、「マリア」と名前を呼んでまでも振り向かせて下さる方が復活のイエスであったのだとこの聖書はしみじみと、確かに私たちに語りかけてくる。その時のマグダラのマリアにおいて、確かにイースターの出来事は起こっていたのだと。弟子たちの誰にもまだ起こっていなかった復活のイエスとの出会いは確かに彼女から始まっていたのだと。そのままだったらマリアは切羽詰まって周囲に当たり散らす「思いのままに良くない道を歩く民」でしかなかった。それが現実の我々の姿だとも言った。しかし、だからこそ神は手を差し伸べられる。この世は諦めさせることしかしないが、神は復活のイエスを通して、「わたしに訊ねようとしない者にも、わたしは、尋ね出される者となり、わたしを求めようとしない者にも、見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にもわたしはここにいる、ここにいる」と言って下さる。その声に振り向かされる時のマリアに、罪人すべてに、イースターの出来事は起こる、ということなのではないだろうか。

 

 

学校に行く前、自分の母親と朝に普通に別れてから、突如のくも膜下出血によって引き起こされた死による母との別れ。その別れに至るまでの昏睡状態にある母親との地上で過ごした最後の10日間。墓の前で泣き崩れるしかなかったマグダラのマリアの目を次第に開かせていったように、その時の少女にも、死にあらがおうとする最後の気力を示し続ける母の姿を通して、また、横たわる母親からの無言のメッセージを通して復活のイエスは少女に、もう一度振り向くようにと声をかけておられた。そして「あなたのお母さんは死んではいない。死に打ち勝つ命を示すために神が世にお遣わしになった私と共にいる。私に結ばれてあなたのお母さんは死んでも生きる命に結ばれているのだ、神の御許に上る私に連れられて、神の国からあなたをこれからも、いつまでも見守り支え、エールを送り続けているのだ」と、彼女の葬儀で私はそのような話をした。死が人の命を奪おうとも、神は命を終わらせることなく、目に見えなくなってもそのように輝かせて下さる、それが神の御業なのだ、神の栄光なのだと、そのことに振り向くようにと、何度も振り向いて良いのだと、14年前のあの日から今まで復活のイエスは叫び続けておられるに違いない。そしてこれからも復活の主は語りかけ続けて下さるに違いない。今は256歳になったその時の少女に、イースターの出来事は何度も繰り返されると信じている。その奇跡を起こして下さる方こそが私たちの主である。この世は死という命の終りへと誘い、欺き、恐怖と疑いの念を抱かせ続ける。けれどもイエスを死からよみがえらせた主なる神は命の芽を出させ、育み、試練を乗り越えさせて枝葉を広げさせるように、死からも新たに始まる真の命の道を歩ませようと我らを招き続けておられる。その主にこそ信頼し、コロナに倒れた方々と我々は目に見える命においては引き離されたかもしれないが、目には見えない永遠の命、死をもってしても終わらせることのできないその命に共に生かそうと語りかけ、振り向かせて下さる神の恵みに今こそ主によって目、開かれたいと願う。