· 

ここにはおられない

「ここにはおられない」マルコ1618

202144日イースター(左近深恵子)

 

 主イエスが十字架で死なれてから三日目の朝早く、ガリラヤから主イエスに従ってきたマリアたち、女性の弟子たちは、「朝ごく早く、日が出るとすぐに」行動を起こしました。安息日が終わり、出歩くことが出来る時が来ることを待ち詫びていたのでしょう。家の扉を開けたマリアたちが見つめていたのは、お墓に続く道でした。地元のガリラヤに帰る道ではなく、主イエスの遺体が納められたお墓に至る道でした。

 

マリアたちは主イエスの遺体に香油を塗りたいと願っていました。十字架から降ろされた主イエスの遺体をお墓に納めた金曜日の夕方は、安息日が始まる日没が迫っていて、油を購入して遺体に塗る時間は無く、お墓に納めるのが精いっぱいでした。お墓に納めるのを見届けた後、日没の前に急いで香油を手に入れたのでしょう。主のためにできなかったことを、安息日が明けたらしようと願ってきました。不十分な葬りしかできなかったという悔いる思いも、あったのかもしれません。

 

この婦人たちは、ガリラヤからエルサレムまで、町や村を巡って福音を宣べ伝えられる主のお働きを、お手伝いしてきた者たちです。お働きを続けていくためには当然しっかりと食べること、十分に眠ることが不可欠であり、そのような面で婦人たちは主イエスとその一行を日々支えてきたのでしょう。働き人であり生活者である主イエスを、最も近くで見つめてきた者たちです。そして他の弟子たちが逃げ出してしまっても、十字架の主を最後まで見つめていたのも、岩を掘って作られたアリマタヤのヨセフのお墓の中に、布で包んだ主の遺体が納められたのを見守っていたのも、お墓の入り口が石で塞がれるのを見届けたのも、この者たちです。主の死から日曜日の朝まで、扉の内側に留まりながらこの者たちがずっと見たいと願い続けていたのは、お墓に続く道であったのです。

 

日々近くにいて、日常を共にし、死の時まで支え見守ってきた人ほど、その人のために十分にできなかったという悔いを抱え続けること、またその人が死んでしまったことに気持ちがついていかないということを、私たちは良く知っています。マリアたちも悔いを抱えていたのかもしれません。見聞きしたことを受け留められずにいたのかもしれません。籠っている家の中で、もう今は主のために働くことができない、主は死んでしまわれたのだという悲しみに繰り返し襲われる、死の力に押し潰されそうになる、この抜け殻のようになってもおかしくないマリアたちを安息日が明けるまで何とか支えていたのは、自分たちにはまだできることが残っているという思いであったのかもしれません。

 

他の弟子たちが主イエスを奪われたことに打ちのめされ、逃げ込んだその場所でうずくまったままであったのと異なり、マリアたちは動き出します。主イエスの命の灯は消えてしまいました。主イエスを十字架に架けた人々は主イエスのことを、自分自身も救えないと嘲りました。そうやって、主がなさってこられたお働きも嘲りました。その人たちによって、主イエスの死までも全て持っていかれることは耐えられないと、主の死を奪われたままにはしておけないと、マリアたちは思ったのかもしれません。油を塗って遺体を丁寧に葬ることで主の死を少しでも取り戻そうと、苦しみ悲しみを振りほどくように立ち上がって行動を起こしたのでしょう。

 

お墓はアリマタヤのヨセフが所有しています。本来であればお墓を開けるにはヨセフの許可が必要であったのかもしれません。ヨセフにお墓を塞いでいる石をどけてくれるように頼むこともできたでしょう。しかし心が逸るマリアたちは真っすぐ目的地に向かいます。お墓に向かいながら、自分たちでは動かせなさそうなお墓の入り口の重い石をどかしてくれる誰かを見つけられるだろうかと、案じ始めます。しかし着いてみると既に石は脇に転がされ、入り口が空いています。そして、主の遺体ではなく、白い衣を着た若者がいます。塞がっているはずの入り口は開いており、横たわっているはずの遺体は無いという、見ようとしていたものとは全く異なる状況に、マリアたちはとても驚きます。けれど、驚くことでは無いと神さまの使いは言います。主イエスは何度も弟子たちに、ご自分が人々の手に引き渡され、殺されること、殺されて三日目に復活されることを予告しておられたのです。主の一行と行動を共にしてきたマリアたちもそのことを聞いていたことでしょう。だから驚くことはないのだと、主イエスは復活なさって、ここにはおられないと告げます。

 

マリアたちは、お墓に納められた遺体が主イエスの結末だと思っていました。主イエスの命もそのお働きも、主の弟子としての自分たちの歩みも、お墓に辿り着いてしまった、ここが終わりなのだと思っていました。十字架と言う酷い死を死んでゆかれたことにもがき苦しみ、それでも立ち上がって、結末を整えようとやってきました。主の死を自分たちの側に留めることに、自分たちの居場所を見出してお墓に来たのです。しかしみ使いはマリアたちの誤りを正します。人々が主イエスに結末をもたらしたのではありません。これが主の結末でもありません。これが主に従ってきた者たちの結末でもありません。神さまが死者の中から主イエスをよみがえらせてくださいました。主イエスは生きておられます。マリアたちは今も主の弟子であります。このお墓は、主イエスや弟子たちの歩みの結末ではなく、このお墓から、復活された主と、復活の主に従う者たちの道が続きます。み使いはマリアたちが向かうべき方向を示します。主イエスは死者の中におられません。だからマリアたちの居場所も、主イエスがおられるところ、主が向かっておられるところなのです。

 

主イエスは、弟子たちにも指導者たちにも見捨てられて、死んでゆかれました。けれどその死は願いが絶たれた悲劇的な死でも、あるいは勇敢に死んでいった英雄の死でもありません。私たちのために来られた救い主を自分たちには必要ないと死にまで追いやる私たちのための死です。主イエスがかつて弟子たちに言われたように、「人の子は・・・多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ1045)のです。主の死は、人々の罪の値を代わりに払うためにご自分の命を捧げられた、神の子の死です。そのような贖いの死を遂げることができるのは、主イエスが神であるから、神のみ子であるからです。神さまは、み子の命の値をもって人々を罪から救い出し、み子を通して人々を神の子とするため、み子を死者の中から復活させてくださいました。けれどマリアたちにはこの時まだ、主の死の意味が分かりません。復活の報せに混乱し、恐れます。復活の報せに接した人間のリアルな反応がここにあります。恐れに震え、正気を失って逃げ出すマリアたちの様子に、主イエスの復活に戸惑い、混乱する私たちの姿が重なって見えます。

 

他の福音書は復活の出来事において、人々の内に沸き起こる喜びや、その喜びに力を得て行動を起こしてゆく様子を伝えています。けれどマルコによる福音書は、マリアたちの恐れをただ伝えます。9節以降には、復活された主イエスが弟子たちに現れてくださったことが記されていますが、マルコによる福音書は元来、今日ご一緒にお聞きした8節までで終わっていたのではないかと、9節以降は他の伝承から持ってきて後から付け加えられた部分ではないかと考えられています。マルコによる福音書が最初にまとめられた時に、この福音書が復活の締めくくりとして、更には福音書の締めくくりとして強調したのは、マリアたちの恐れと沈黙であったと考えられるのです。

 

ここに、信仰者のリアルな姿があります。キリストの言葉を繰り返し聞いてきても、そのみ言葉を指し示す御業をその目で見ることができても、死の現実が全ての結末だと思ってしまうところがあります。人々の罪がもたらす死の力には、人の結束も積み重ねてきたものも記憶力も対抗できないところがあるのだと、主イエスの言葉や業も太刀打ちできないのだと思ってしまう私たちの姿がここにあります。復活の言葉、神さまが与えてくださる真理の言葉に触れる時、私たちを最初に襲うのは恐れであり、混乱であります。私たちは救いの恵みを理解し、受け留めることに、いつも時間を必要とします。み言葉には、私たちに則喜びとなるもの、慰めとなるものもありますが、十字架と復活の言葉は、愚かなもの、恐れさせ、混乱させるものに見えます。罪の力、罪がもたらす死の力が全てを支配するという言葉の方が、正しく賢いように見えます。しかし、十字架と復活の言葉は、救われる者には神さまの力です(Ⅰコリント1:18)。世が想定するもの、世が常識とするものを超える十字架と復活の恵みに、私たちは後になって気づかされます。振り返ってみて、与えられてきたものの豊かさをようやく受け止めます。信仰者の旅路は、このようなことの繰り返しです。

 

マリアたちも、いつまでも震え、正気を失い、沈黙していたわけではありません。福音書にマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメとその名が記されていることから、福音書が書かれた時代に、この婦人たちは教会の中で良く知られた人々であったと考えられます。マリアたちが後にこの出来事を他の弟子たちに伝えたからでありましょう。最初にキリストの復活を知る者となったマリアたちの証言を基にして、福音書の復活の出来事は記されているのです。教会の始まりにおいて特別な働きを為した、何よりも復活を宣べ伝えたマリアたちも、それを知った時にはこんなにも恐れたことを、福音書は伝えています。

 

主の復活を受け留めることは、主の死を見つめること無くしてあり得ません。主の死を誰よりも見つめ続けたマリアたちだから、安息日が明けた途端、お墓への道を急ぎました。お墓に行ったから、主はここにはおられないのだと最初に知る者となりました。主イエスの十字架の死と向き合い続けたからこそ、復活の報せにこんなにも驚き、心から恐れたのでしょう。お墓が行きどまりでしかなかった道を、神さまは復活の御業によって、キリストがおられる所につながる道へとしてくださったのです。

 

 

マリアたちが葬りのための用意していた油は、キリストが復活された今、もはや必要の無いものとなりました。主イエスはかつて弟子たちに、花婿を迎える灯のために油を用意している賢いおとめのようであることを求められました。私たちはこのおとめたちのように、主イエスが再び来られる時を待ち望みながら、先を行かれる主の後に従う道を歩むことを求められています。主の恵みを理解すること、受け止めることにいつも時間がかかる私たちです。けれどもまたそれは、私たちが既に与えられている恵みを、これから先も見出すことができる、理解を深めることができるということでもあります。キリストは、ご自分の言葉も業も受け止めきれず、死者の中にご自分を探していたマリアたちを待つために、またご自分を見捨てて逃げてしまった他の弟子たちを待つために、一足先にガリラヤへと向かわれました。主は過ち多く、受け止めることに不確かで不十分で、挫折も背きも抱えた私たちよりも先に進まれ、世にあって救いのみ業を推し進めておられます。私たちはその復活の主の後に従う旅路を、主のみ言葉に足元と照らされ、聖餐の恵みに養われつつ、歩んでまいりましょう。