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弟子たちの裏切り

美竹教会「主日礼拝説教」

聖書箇所:マルコによる福音書144352

「弟子たちの裏切り」

 

 

2021321日 倉持おりぶ

1.12人の1人であるユダの裏切り

美竹教会で説教奉仕をさせていただく最後の機会となりました。その記念すべき最後の説教は、レントの時ということもあり、弟子の裏切りについて話をすることになりました。皆さんの沢山の賜物が輝いていくような御言葉を語りたかったという思いもありました。ですがそのような光の部分とは反対の人間の闇の部分を語らなくてはいけなくなったのです。聖書が語る人物はこのような汚く、弱々しい人物たちばかりです。ここで語られている主イエスの弟子の裏切りは、人間の弱さを象徴した話になるかもしれません。今日の箇所で、ユダは大勢の群衆を先導してやってきます。ユダは「先生」と言い、イエスさまに近寄ってキスをしました。当時出会いや別れの際に、親愛な意味を込めて挨拶でキスを交わしていました。日本において挨拶でキスはなかなか見られませんが、信頼関係のうちでされることに変わりありません。しかし、この場面におけるキスは、その信頼や親しさのしるしではなく、裏切りの合図に使われたのです。この場面の前で、イエスさまはゲッセマネで苦悩を抱えながら祈られ、神さまの御心の道を歩まれることを決心されました。そしてまさにこのユダのキスを合図に、イエスさまは捕らえられ、十字架におかかりになります。

 

イエスさまには12人の弟子がいて、ユダはそのうちの一人でした。43節では、ユダのことを12人の1人として紹介しています。マタイ、マルコ、ルカともユダは12人の1人の弟子であったことを書き記しています。福音書を書いた人たちが、裏切りを図ったユダを弟子の一人であったと紹介しています。これはイエスさまの弟子の誰しもがユダのようにイエスさまを裏切ることがありうることを示そうとしているのではないでしょうか。イエスさまと弟子たちはあらゆる場所に赴き、人々に神の国を伝える活動をしていました。ユダはイエスさまが語られる神の国の話を誰よりも近くで聴き続けてきた人でした。共に食事をして、語らい家族のような存在でした。イエスさまは、弟子として選び、愛し育ててきた弟子から裏切られました。

 

この裏切りは、どれほどの痛みを伴ったことでしょうか。祭司長、律法学者、長老たちに売り渡されたイエスさまはこれから十字架における苦しみ、痛みと闘わなくてはいけないことを知っておられました。その想像を絶する苦難をもたらしたのが、大切な一人の弟子だったのです。裏切られた経験をされた方は、この行為がどれほど私たちを傷つけるものか肌身に感じます。その相手が自分にとって大切な人であればあるほど、傷は深いことでしょう。傷が癒されず、人間不信に陥り、裏切られた人だけでなく、他の人まで信頼できなくなってしまうかもしれません。神の子であるイエスさまは人間となられました。イエスさまも私たちと同じような感情を共有されていました。ですからイエスさまも裏切られた時の痛み、悲しみ、嘆きもよくご存知です。私たちの心をよく理解し、寄り添い励ましてくださるお方なのです。

 

2.弟子たちの裏切りと裏切られるイエス

この箇所はとても痛ましい場面であります。ここでユダが決定的な裏切り行為をしたのですが、ユダだけでなくて他の弟子たちもイエスさまを裏切っていきました。50節以下にはイエスを見捨てて逃げてしまう弟子たちの姿が描かれています。さらに51節、52節は他のマタイ、ルカ、ヨハネにはないマルコによる福音書だけに書かれた記述です。この「一人の若者」はマルコによる福音書の著者であるマルコ自身だと言われています。この若者は亜麻布をかぶり、イエスさまについていくものの、人々が捕らえようとして、逃げてしまいました。この場面で、信仰と亜麻布を重ねてみることができます。本当であれば信仰は亜麻布のように脱いだり着たりするものではありません。しかし、一人の若者は最後まで神さまに従うことができず、信仰を脱ぎ捨ててしまったのです。このような信仰の失敗を書き残していることは大きな慰めを受けます。福音書を書いたマルコは初代教会において有力な人物だったと言えます。周りから偉く尊敬されていたにも関わらず、自分自身のみっともない失敗を福音書の記事に留めたといえます。こんなみっともない失敗をして、信仰が揺らいだ者に対しても、救いを与えて、赦してくださるお方がいる!そのようにして福音の喜びを伝えたかったのでしょう。

 

そのような弟子たちの裏切りは、思いがけない裏切りだったとも言えます。イエスさまが捕らえられるまで、まさか私が裏切るなんてあり得ないと弟子たちは思っていたのではないでしょうか。この裏切りの根底には、自分を守りたいという自己保身の気持ちが表れたのだと言えます。自分が命の危険にさらされて、迫害が自分の身に起ころうとした時に、恐怖を感じるのです。ペトロに関しては、29節で「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と豪語していたのです。イエスさまはそのようなペトロに離反を予告されました。それでもペトロは自分は裏切らない自信があったことでしょう。しかし、そんなペテロも自らが殺されるかもしれない、捕まるかもしれないという恐怖から自分を守り、イエスさまを知らないと三度も繰り返し言って、イエスさまを裏切ってしまったのでした。ペトロや他の弟子たちのような思いが私たちにもあるのではないでしょうか。人生の歩みの中で、思いがけず裏切ってしまうことがあるかもしれません。映画や歴史の事件においては、計画的な策略によって仲間を裏切る出来事が起こります。ユダについても、思いがけずイエスさまを裏切ったとは言うことはできません。ユダが裏切りに至った経緯は、どの箇所においてもはっきりと書かれていません。ですが、前のページ141011節によると、お金に目がくらみ、イエスさまを祭司長たちの手に引き渡すことを企んでいたユダの様子がうかがえます。ここにいらっしゃる皆さんは、ユダのように意識的に計画的に裏切ることはないのではないかと思います。むしろ、ペトロや若者の気持ちに同感される方が多いのではないかと思います。恐れや不安を目の前にしたとき、命を投げ出してまでも、裏切ることがないという強い意志にも揺さぶりがかかります。そのようにして私たちは多くの場合、無意識下で裏切り行為をしてしまうのではないかと思います。どの行為にせよ裏切りの根底には、私たちが神さまに背いて生きてしまうという罪の性質が働いているのです。

 

3.私たちは主イエスの弟子のひとり

私たちは弟子たちのようにイエスさまを裏切ってしまう一人でもあります。あなたもそこにいたのか、という賛美歌を思い出しました。あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき。ああ、いま思いだすと 深い深い罪に わたしはふるえてくる。

私たちは誰しも主イエスに背く罪を持っています。この弟子たちの裏切りは、私たちもイエスさまを裏切ってしまうことがあることをを意味しています。しかし、私たちは裏切り者という烙印を押されて終わりではありません。私たちはこのどうしようもない裏切りをしてしまった先に、主イエスの憐みに触れることになるのです。それが十字架による贖いです。私たちはこの憐みによってのみ救われ、まことの命の道を歩んでいくことができるのです。

 

 このユダの裏切りは、聖書の言葉が実現するためでした。イエスさまは全知全能の主ですから、捕らえられても、その場から逃げることなんて最も簡単なことだったはずです。人間の思いからすれば、イエスさまが裏切られ逮捕されるような出来事が起こらないでほしいと考えてしまいます。この箇所よりも前の32節からの場面において、イエスさまはゲッセマネで祈られていました。そこでイエスさまは「この杯を取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」と祈られました。イエスさまは祈りの戦いのうちで、自分を捨てて神さまの御心に従われていきました。ですからユダの裏切りも、すべて神さまのご計画のうちにあった出来事でした。それは旧約聖書の時代から預言されていたすべての人が救われるための道を備えるご計画です。イエスさまは、聖書の言葉の実現のために、十字架の道を従順に歩まれました。

 

この間、弟子たちはイエスさまから離れて、聖書の言葉が実現することもわからず、道を彷徨っていきました。弟子たちはそれぞれイエスさまを背いてしまった罪と向き合い、苦しみました。イエスさまを裏切ってしまったユダとペトロは違う行動を取りました。ユダは罪責感にとらわれ自ら命を断ちました。このことはマタイ27章と使徒言行録1章のみに書かれています。ユダはイエスさまの有罪判決が下った後、もらった銀貨30枚を返し、なんてことをしてしまったのか・・・と悔いたのでした。ユダは自分自身で犯した罪を償う責任があると考えて、死を選び決着をつけようとしました。ユダは自分自身で解決をしようと考えたのでしょう。私たちはイエスさまの贖いがなければ、本来はユダのように自分の罪を償うため、死ななくてはならない存在です。ですが、私たちはイエスさまの犠牲によって、赦しをいただけるのです。自分の罪のために死ぬことはしなくて良いのです。ペトロはユダとは違い、外に出て激しく泣き、自分の弱さを強く感じたのでした。彼は自分に解決を求めず、神さまに解決を求めていきました。そして、逃げてばかりだったペトロは優れた伝道者へと変えられていったのでした。ユダの死は悲しいことであります。ユダも神さまに罪を悔い改め、赦しをいただき、喜びで満たされてほしかったのです。しかし私たちはこの死を決して断罪することはできません。できるとするならば、神さまだけが裁くことがおできになることです。この魂が行くべき道は神様のみがご存知です。

 

私たちができることは裁きではありません。福音に生きる喜びを抱きつつ、主を証して生きていくということです。赦しを与えてくださった主と共に生きることです。それでも、ある時、私たちはなお裏切ってしまうことがあります。神様に対して、隣人に対して弱さを持って生きています。どんな時も心からの悔い改める祈りを捧げ、日々新しく造り変えていただきたいと願います。あの日、弟子たちから裏切られたイエスさまは、私たちを救い出すため、聖書の言葉の実現のため、決して逃げることなく十字架の道を歩まれました。そのようなイエスさまに感謝と賛美をお捧げして、どんな時も主の十字架を仰いでいきたいと願います。