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主の祈りを主と共に

マタイ6513「主の祈りを主と共に」

2021110日(左近深恵子)

 

 祈りは、私たちのそれぞれの生活の中でも、共に礼拝を捧げたり活動したりする時も、欠くことのできないものです。特に昨年からこれまで、祈りの力に支えられていることを思わされてきました。クリスマスカードや年の初めの挨拶によっても、相手のことを祈っていると伝え、また伝えられてきた私たちです。実際に会うことが難しい今だからこそ、祈りを合わせているということ、祈られているということが、心に沁みます。だからこそ、祈ることをもっと知りたいと願います。不安の中で呼吸することまで吸い取られそうになる時、祈ろうとしても心を鎮めることすら難しい時、祈りにふさわしい言葉を探す余裕もない時があると思います。穏やかに過ごせる日であっても、祈ることがよく分かっていない自分に気づくこともあるのではないでしょうか。いつもの祈りの時間に、いつも通りの内容を祈りながら、これで良いのだろうか、という思いを抱くこともあるのではないでしょうか。日々変化する状況に揺さぶられ、もがき、疲弊する私たちには、神さまの助けが必要です。神さまとの交わりの中で恵みを受け止めることが必要です。いつものような日常の時も、不安が増大する時も、祈りにおいて、魂は呼吸をすることができます。

 

 身近でありながら掴みづらい祈りを、聖書は様々な言葉で言い表しています。それらの言葉が、私たちの理解を助けてくれます。祈りを表すものとして良く用いられているのは、「祈り」「祈祷」と訳される言葉です。そしてその他にも「願い」「執り成し」「感謝」といった言葉が祈りを表します。神の民が捧げてきた祈りはその内容によって、願いを注ぎ出す祈り、執り成しの祈り、感謝の祈りと、幅があることが分かります。また祈ることを表す動詞も、「祈る」という言葉の他に、「賛美する」「呼び掛ける」「跪く」「ひれ伏す」「崇める」といった言葉が用いられています。祈りの仕方も祈りにおいて取りたくなる行動も様々です。祈りのためにと定め、他から分けられた祈りの時が、生活の核に先ずあります。そしてこのような生活の核となっている祈りが、折に触れて溢れ出すのが信仰者の日々です。今神さまに賛美を捧げたい、今神さまに向かって呼び掛けたい、神さまのみ前に、他のものにではなく神さまのみ前に跪いて、神さまを崇めたい、そのような行動の一つ一つが祈りとなってゆきます。

 

 祈りが、私たちの生活を支えます。より深みへと、より外へと広がり行く祈りの出発点となるものを、主イエスは弟子たちに与えてくださいました。彼らが祈りを知らなかったから与えたのではありません。神の民に属していた彼らは、それまでも祈りを捧げていたことでしょう。神の民イスラエルの日々の生活の中心に祈りがあり、共に集う会堂や神殿も、聖書の朗読やその説き証しだけでなく、共に祈る場所でありました。祈ってきた弟子たちを、そして私たちを、主は祈りを学び、更に深く、豊かに祈ることへと招かれます。信仰生活の長さに関わらず誰でも祈ることができる、そして私たちの日々に必要な、「主の祈り」と私たちが呼ぶ祈りを与えてくださいました。

 

 私たちは礼拝で必ず主の祈りを捧げます。週報に毎週主の祈りを記載して、誰もが共に祈ることができるようにしています。子どもたちの礼拝でも、捧げています。まだ字の読めない子どもたちも、少しずつ覚えながら祈っています。礼拝だけでなく、聖書に親しむ集いや聖書探訪でも主の祈りを捧げています。

 

この主の祈りを主が与えられたのは、人に良く見られようと行う行為を戒める中であったことを、マタイによる福音書は伝えています。神の民にとって、施しと祈りと断食は、特に大切な行為でした。しかしそれらの行為によって自分の敬虔さを実証しようとする人々もいました。人に良く見られたい、敬虔に生きている者と見られたい人々がおり、そのようにして評価を得る者たちがおり、そのようになりたいと願う人々がいました。全ての人にとって誘惑であるこのような人間の思いを、主イエスは全てご存知です。本来神さまへの感謝を表すため、神さまの御業を思い起こすための正しい行いを、自分で自分を高めるための手段としてしまう人間の実態をご存じです。

 

 主イエスは、施しや断食について戒められたように、祈りを人に良く見られるために行うことを戒められます。会堂や大通りの角に立って祈ることを取り上げておられる背景には、一日の中で祈りの時間が定められていて、その時が来るとどこにいようともそれを守っていた生活があります。祈りの時間に敢えて大勢の人の目がある所に居たがることを、主は退けられます。またくどくどと祈ることも戒められます。主イエスはここで、人の前で祈ること自体や、また言葉数が多いこと自体を問題としておられるのではないでしょう。主の祈りは、それぞれの人が生活の中で祈ることを先ず前提としている祈りですが、人前で祈る必要がある時もあるでしょう。またくどくどと言葉数が多い祈りは確かに困る面がありますが、主イエスご自身は夜を徹して祈られることもありました。人前で祈ることや言葉数が多いこと自体を問題とするよりも、祈りが他者の高評価を求める祈りとなってしまうことを、戒めておられるのでしょう。

 

 主は、誰かが居るところで祈るよりも、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられる神さまに祈ることを命じられます。自分には自分用の部屋など無い、部屋はあっても戸を閉めて祈れるようなところではない、と言う人もいるでしょう。一人で祈るためにまとまった時間を割けるような生活ではない、と言う人もいるでしょう。できていないことを求められると、反発をしたくなる私たちでありますが、主イエスは私たちが自分で自分を縛ってしまうものから解き放とうとしておられます。たとえ会堂や大通りでなくても、祈る時にそこに居る他の人に評価されたいという考えが、私たちを縛るかもしれません。周りの人々を、共に神さまに祈りを捧げている祈りの友としてではなく、自分の祈りを聞かせる対象となってしまうことが起こり得るから、神さまよりも、周りの人々に向けて祈ってしまうことがあり得るから、主イエスはそのようなところから私たちを解き放とうとしてくださいます。

 

 では一人になれば、神さまに祈りを捧げることに立ち帰れるのかというと、そうとは言い切れません。だから主は、「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と命じられます。他の人々が見ていなくても、自分で自分を評価することはできてしまいます。自分の祈りに、自分で評価を与えることに捉われるなら、祈りは神さまにではなく自分に向けてしまいます。たとえ一人で祈っていても、祈りは神さまに向けられていない、独り言になってしまいます。「奥まった部屋」と訳された言葉は、貯蔵室や倉とも訳される言葉です。戸を閉めることができるこのような部屋の中は、明かりを灯さなければ、自分のことも良く見えない位に暗かったことでしょう。このような場所で祈ることを命じられることによって、他者の評価によって自分を高めたい思いからも、自分で自分を正しいとしたがる思いからも解き放たれ、神さまに真っすぐ向かって祈ることへと導いてくださったのでしょう。主イエスご自身は一人で祈られるために山に行かれたりしています。主が導いてくださるところは、特定の部屋ではなく、私たちが祈りを捧げることのできるただお一人の方のみ前であるのです。

 

 他の人々にではなく、自分自身にでもなく、神さまに向かって、「天におられるわたしたちの父よ」と呼び掛けることを、主は教えてくださいました。教えてくださったというよりも、それを赦してくださったと言うべきでしょう。神さまを父と呼ぶことができるのは、神のみ子である主イエスただお一人だからです。顔を上げて堂々と神さまのみ前に立つにはあまりに背き多く、自分の中の闇、自分を惹きつける闇に捉われている私たちは、神さまのみ前に出れば神さまを恐れるしかありません。私たちの造り主であり、裁き主である方のみ前で、どうつながりを求めたら良いのか分からない私たちに、呼びかけよと、それも「父よ」と呼びかけよと、主イエスが命じられました。「父のような方よ」、ではなく「父よ」と。ご自身が神さまに対して「アッバ」と語り掛けるのと同じように、親子の関わりにおいて「父よ」と呼び掛けることをお赦しになりました。この主の祈りを最初に祈られ、「私たちの父よ」と最初に呼びかけてくださったのは、弟子たちにこの祈りを教えられた主イエスです。この祈りを祈る私たちは、先だって祈ってくださっている主イエスと声を合わせるように、「わたしたちの父よ」と呼びかけることができます。一人で祈る時も、この祈りを祈る私たちは、み子と共に、み子の父なる方に、「私たちの父よ」と呼びかけているのです。

 

祈る時、私たちは神さまの眼差しの中にある自分を見いだします。「父よ」と呼ぶ度に、この方は、私たちが呼びかける前から私たちを見つめておられる方であったと気づかされます。み子によって与えられた神さまとのつながりにおいて、信頼を込めて「わたしたちの父よ」呼ぶことができます。クリスマスの晩に世に降られ、人の罪の値を十字架においてご自分の命で支払ってくださることで、私たちと神さまとの間に道を通してくださった御子によって、その通路に立つことができます。神さまに至る道に自分自身を置き、神さまに向かって呼び掛けるように、祈ることができます。

 

 私たちは、目に見えて増大していく脅威と、自分の中で増していく不安の中で、日常を保ち、願う歩みをなそうと、腐心しています。恐れが私たちの中で大きな場所を占めようとします。私たちを呑み込み、私たちの主となろうとする不安とのせめぎ合いが続いています。恐れや不安が増すにつれて、神さまが軽んじられてしまう、神さまの栄光が保たれなくなってしまう、神さまが聖なる方であることに目をむけられなくなってしまうということが起こってきます。困難は私たちを揺さぶっても、神さまの栄光の光を消すことはできません。世にあって力を増し、その支配を広げるものがあっても、神さまが永久に聖なる方であることを損なうことはできません。しかし私たちの中で、私たちの間で、神さまの栄光が、神さまの恵みが、神さまが今この時も共におられ、御業を推し進めておられることが忘れられてしまうということが、起こります。だから主イエスは私たちに、「み名が崇められますように」と祈ることを求められます。み名を崇めていなかった自分を振り返り、自分も含め自分の周り見渡し、その現実を認め、そして聖なる神さまを自分においても聖とすること、自分の生活において神さまの栄光を保つこと、神さまを主とすることを祈り求めよと、教えておられます。

 

 刻々と変化する状況の中で、様々な事柄を見極め、判断をしていくことに追われていると、見えてくること、聞こえてくることに疲弊してしまいます。自分の貧しい祈りの言葉で何を祈れるのかと、祈ることに無力さを覚えることもあるかもしれません。だからこそ神さまが隠れたところにおられることが、隠れたことを見ておられることが、私たちの慰めです。父なる神は願う前から、私たちに必要なものをご存知であることが、言葉の貧しさに弱さを覚える私たちを祈りへと押し出す力です。露わにならないところで、露わにならないことを見ておられる神さまが、私たちの祈りを待っておられます。祈りを合わせながらこの時を歩んでまいりましょう。