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倒したり立ち上がらせたり

ルカ225~38「倒したり立ち上がらせたり」

202113日(左近深恵子)

 

ルカによる福音書は、クリスマスの様々な出来事を語る中で「お言葉通り」ということを幾度も述べています。最初に登場する祭司ザカリアは、エルサレム神殿の最も神さまに近いとされる至聖所で、ユダヤの民の代表として祈りを捧げていながら、時が来れば実現する神さまの言葉を、当初信じることができませんでした。マリアは「お言葉通り、この身になりますように」とみ言葉を受け入れました。そのマリアを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と声高らかに喜んだエリサベトも、自分の身に神さまのお言葉が実現していることを喜んでいました。ザカリアとエリサベトは、生まれてきた子に、周りの反対を退けて神さまのお言葉通りヨハネと名付けました。その時ザカリアは、「昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに、主が救いの角をダビデの家から起こされた」と歌いました。羊飼いたちは、み使いが告げた言葉に従って急ぎ立ち上がり、ダビデの町の片隅で、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子に辿り着き、見聞きしたことがすべてお言葉通りであったので、神さまを崇め、賛美しながら帰っていきました。預言者などを通して告げてこられた、救い主の到来を伝えるみ言葉が、こうして出来事となってゆきました。人々を、不安や恐怖や、自分さえ良ければという思いで振り回している力が、最大の支配者であるかのように見えてしまう世にあって、実際に私たちの間で実現しているのは神さまのみ言葉であると、この福音書は語ってきました。クリスマスの一連の出来事で、最後に、神さまのみ言葉が実現したことを証ししたのは、二人の高齢の男女でありました。

 

 先ずアンナの方に目を向けたいと思います。アンナは若い時に結婚をし、7年後に夫と死別し、それ以降神殿から離れずに、祈りながら夜も昼も神さまに仕えてきました。アンナは預言者でした。女性の預言者が珍しいと思われるかもしれませんが、旧約聖書ではモーセやアロンの姉のミリアム(出1520)、士師の一人であるデボラ(士師44)、イザヤの妻(イザヤ83)などが、女預言者として登場しています。新約聖書においても、女性も預言をすることが求められ(使徒217)、預言をする女性たちのことが述べられています(使徒219、Ⅰコリ115)。

 

その日アンナは、ヨセフとマリアに抱かれて神殿にやって来た幼子を見ます。一家は律法の規定を守るために神殿に来ました。律法には産後、母親が一定の期間家に留まり、期間が過ぎると清めの儀式を行うことが定められていたからです。その際捧げる犠牲も定められていました。神殿に来たもう一つの目的も、律法に従って幼子を主に捧げるためでした。最初の子を主に捧げることを通して、子どもとその命は与えてくださった神さまのものであることを表しました。マリアとヨセフはこの出来事の前にも、主イエスが生後8日目の時に、律法に従って割礼を受けさせています。夫婦は、他のユダヤの家庭と同じように、律法と礼拝を重んじる生活の中で、神さまから与えられた子を育てようとしています。

 

 彼らだけでなく神殿には日々多くの家族が、律法に定められた祭儀を守るために、幼子を連れてやってきていたことでしょう。しかしアンナは、他の子と同じように連れられてきた幼子が、どなたであるのか知ることができました。そして神さまをほめたたえ、神さまが約束された救いの到来を待ち望んできた人々に、み言葉が実現したことを伝えたのでした。

 

 神さまのみ言葉が実現したことを証ししたもう一人の高齢の人物の名は、シメオンと言います。「正しい人で信仰があつ」い人であったと、律法を表面的に守るのではなく、その根幹が指し示す神さまのご意志に信頼しつつ守り、神さまを畏れる人であったのでしょう。「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいたとあります。アンナが主イエスのことを伝えた人々のように、シメオンも、救いがもたらされることを待ち望みながら、実現を見ることができないこれまでの年月を耐えてきたのでしょう。「慰められる」とは、神さまによって「救われる」とも言い換えられます。神さまによって罪を赦されなければ、本当の意味で慰められること、存在の奥底から安らぐことはできません。その慰めを人々にもたらすメシアに会うまで決して死なないとの約束を、シメオンは神さまから与えられていました。聖霊がシメオンに留まっておられ、このことを示していました。この日シメオンは、聖霊に導かれて神殿に入って行きました。そこで、幼子イエスと出会います。神さまの霊に従ってやって来たシメオンと、律法に示されている神さまのご意志に従ってやって来た一家の出会いでした。神の家で与えられた出会いでした。歩み寄り、主イエスをその腕に抱き取ったシメオンは、神さまをほめたたえて歌いました。この時のシメオンの、「今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉から、シメオンは高齢者であったのだろうと考えられてきました。自分の目で主の救いを見、その方を腕に抱くことができたシメオンは、み子を抱きながら、寧ろ神さまのみ心とみ業の内に包まれていたのではないでしょうか。「安らかに去らせてくださいます」という言葉には、満たされた喜びが静かに溢れています。

 

 そしてシメオンは、ヨセフとマリアを祝福し、マリアに語り掛けました。しかしその言葉は「祝福」という言葉から私たちが期待するようなものではありません。主イエスは「イスラエルの多くの人」を「倒したり立ち上がらせたりすると定められている」と言います。イスラエルとは、神さまが万民のために整えてくださる救いを、異邦人をも照らす啓示の光を、全ての民にもたらすための基として、神さまが選び立てられた人々です。そのイスラエルの民が、主イエスによって倒れたり、立ち上がらせることが定められていると、主イエスはそのためにお生まれになったのだと言います。主イエスは反対を受けるしるしとして定められているという言葉も、同じようなことを指しているのでしょう。主イエスは、人々の抵抗をその身に受ける方であると、多くの人が露わにしていない奥底にある思いが露わにされるために、神さまが世に与えられたのだと言います。人の内側の闇が、主イエスによって露わにされることで、マリア自身も剣で魂を刺し貫かれることになるとまでシメオンは言います。天の祝福は、そのようにして世にもたらされました。そのようにもたらされなければ救いを得ることができない私たちのためです。天からの祝福ではなく、世の祝福を求めてしまう私たちのために、神であるキリストが私たちの抗いを身に受けてくださるために、死に至るまで反発、抵抗、無関心を身に受けられるご生涯を始めるために、キリストはクリスマスの夜に生まれてくださったのです。

 

 神の民であることを誉れにしてきたイスラエルの民であっても、キリストに躓き、倒れる者があり、しかしまた信じてそこから立ち上がる者もあることを、シメオンはこうして「倒したり立ち上がらせたりするためにと定められた」と、明らかにしました。人は真剣に神の民であろうとするほど、しばしば自分の正しさを誉れとしてしまいがちです。しかしこの幼子こそあなたの民イスラエルの誉れですと、私たち自身ではなく、この方が誉れですと主を賛美しました。

 

 この「倒したり立ち上がらせたりする」という言葉はまた、キリスト者の姿をよく言い表しているように思えます。私たちはペトロのように、幾度も主イエスに躓き、その度に、主によって立ち上がらせていただきながら、歩む者です。ペトロに対して三度の離反を予告された時、主イエスはペトロに、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われました(ルカ2232)。私たちは先立つキリストの祈りと、私たちの罪の赦しを得させるための十字架によって、立ち上がらせていただいてきた者です。私たちは何よりも洗礼において、倒され、立ち上がらされます。キリストの死に与る洗礼を受け、キリストと共に葬られ、キリストと共に新しいいのちに生きる者とされているのが、キリスト者です。

 

もしキリストを自分好みの偶像としてしまうと、自分の必要や自分の思う正しさに合わせて、思い描く姿も変えられるので、キリストに躓くということは起こらないでしょう。しかしキリストによって倒されるということも起こりません。救い主は偶像ではありません。天から世に降られ、今も聖霊において共におられる生ける神です。

 

倒れることなく人生を歩み続けられる、それが祝福された人生の歩みなのだと、私たちは思いがちです。けれど主イエスによって倒されることが、私たちの真の幸いです。ただ倒れるのではなく、主イエスによって倒されるのです。たとえば挫折をし、願う道が閉ざされることがあります。それも倒れると言えます。しかし、自分の奥底にある思いが露わにされることを拒んだまま、自分の正しさに固執したまま立ち直るなら、それは本当に倒れた事にはなりません。主イエスによって倒されてはいません。

 

主イエスによって倒されることが幸いです。そこから主イエスの恵みによって立ち上がる道、主イエスの贖いの恵みを知る道が与えられるからです。自分がしっかりと立つことができていなかったこと、見えていたつもりで闇の中に居たこと、自分の正しさは自分の罪を償うことも他者を救うこともできないこと、神さまの憐れみによって与えられる赦しが必要であり、その赦しが既に与えられていることを、主によって倒されることで、ようやく知ることができます。自分で自分を支える力が無い時も、自分には誇れる正しさがないことにくずおれそうになる時も、キリストと共に葬られ、キリストと共に生きる者とされていることが、私たちの幸いであり、安らぎです。

 

 

 ペトロの離反を予告された主イエスは、ペトロのために信仰が無くならないように祈ったと言われた後、こう続けられました、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ2232)。救いの約束のみ言葉が実現していると知ることができた幸いを、分かち合い、力づけ合うことを、主は望んでおられます。世を、歴史を動かしているように見える力に振り回され、不安に倒されてしまうことなく、天と地の一切の権能がその方にあるキリストに従う道を、新しい年、歩んでゆきたいと思います。