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東方の学者たち

2020.12.27.主日礼拝

ミカ5:1-2、マタイ2:1-12

「東方の学者たち」                                                浅原一泰

 

あるベテランの牧師が話していた。「クリスマスは苦しみます」だと。アドヴェントの礼拝、主の日のクリスマス礼拝、教会学校のクリスマス礼拝、そして24日の燭火礼拝と、もし一人の牧師が、救い主の誕生という同じテーマで違う話を幾つもつくらなければならないと考えるなら、確かにクリスマスは苦しみます、ということになるかもしれない。正直言うと、数年前まで主任として一つの教会を牧していた頃は私もそう思っていた。

 

しかしある時、それは違うと思った。主イエスの誕生について幾つも話を作らなければならないと考えることが間違っているのでは、と思い始めた。クリスマスは苦しみますと考えるのは、クリスマスを人間が自分で準備しなければならない、と思うからであって、本当のクリスマスとはそういうものではないのではないか。人間が何も見えないまま、闇を闇とも気づかずに生きているこの世。まさにそれはコロナの恐怖ばかりを闇と感じ続け、マスコミの情報に流されて犯人探しに明け暮れ、偽りの光を追い求めてしまっているこの世。そのような本当の闇の世にいる一人一人に向かって、消えることのない真の光として神ご自身が動いてくださる。神の方から歩み寄って下さる。神が地上の我々一人一人に向かって行動を起こして下さる。それが本当のクリスマスなのではないだろうか。だとしたら、その為に人間が何かを備えることなど出来ないのかもしれない。クリスマスの季節に、何の値もない罪人一人一人に向かって、そのまま見捨てることを良しとせずにむしろ闇から光へと向き直らせるべく歩み寄って下さる神。我々と同じ肉の体を纏い、人となって下さる神。最も弱く、最も貧しく、人の住まいの中には受け入れられずに拒絶され、馬小屋という最もみすぼらしい場所で乳飲み子としてお生まれ下さり、遂には十字架の死に至るまで我々人間の弱さを、罪を背負って下さる神。クリスマスとは、まさにその神のみのなせる御業ではないのか。ヨハネの手紙の一節にこの神の姿をうたった有名な言葉がある。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。この御言葉にある通り、神の方から我々に愛を向けてくださる。ドイツやフランスなどではコロナの感染拡大を恐れて外出許可が認められずにクリスマスを迎えられない、と世の中のニュースが騒ぎ立てる今この時こそ神は、地上の我々に歩み寄られている。御子をいけにえとしてお遣わし下さる。そのことによって、我々を互いに愛し合う者へと生まれ変わらせようとしておられる。互いに愛し合うどころか、自分のことしか考えられず、人を喜ばせることよりも自分が楽しむことを優先し、その為に邪魔な人間を排除したり、憎んでしまうことしか出来なかった我々の為に、神は我々の罪を償ういけにえとして御子を遣わされる、という愛をもって我々を生まれ変わらせようとしておられる。互いに愛し合う者となるよう、我々に御手を伸ばされている。暦の上ではクリスマスの一週間が終わったが、神のその歩み寄りは終わってなんかいない、むしろまだ始まったばかりでなのではないだろうか。ということは、我々は未だほんの少ししか変えられていないのかもしれない。未だ何も変われていない者だっているかもしれない。私もそうである。しかしクリスマスに始まった神の歩み寄りを見失うことなくしっかりとその御手を我々に受け止めさせ、神が更に我々を生まれ変わらせていく為にも今日、神はこの礼拝へと我々を召し集めて下さった、と思うのである。

 

 

二千年前、ユダヤで始まったその神の歩み寄りによって変えられた者達はマリアやヨセフや羊飼いたちだけではない。遥か異国の地にも実際に現れた。東方の占星術の学者たちである。先ほどの聖書の中で、学者達はこのように言っていたからである。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。

 

学者達に救い主の誕生、という喜びの知らせを告げたのは星であった。星も天使と同じように、神の使いだろう。しかしここで驚かされるのは、救い主誕生の知らせは、王ヘロデを始めとするユダヤの地に住む多くの者達よりも前に、遠く離れた異邦の地に住むこの学者達に告げ知らされていた、ということである。しかも学者達が口にした「ユダヤ人の王」という呼び名は、先週のアマ布の話と重なるが、それから約30年後に罪状書きとして、十字架のイエスの上に釘で打ちつけられる呼び名であった。つまり学者達が口にしたこの呼び名は、飼い葉桶に眠る生まれたばかりの神の御子がやがて十字架の上で身代わりの死を遂げることによって、ユダヤの民のみならず、異邦人である自分たちをも含め、世にある全ての者を罪の支配から贖う救い主を暗示していたのである。

 

ユダヤの王ヘロデはそのことを何も知らなかった。学者達から、生まれたばかりの救い主の所在を訊ねられたヘロデは激しい不安に悩まされた。エルサレムの人々も皆、同様であった。ヘロデ達は、疚しさのある人間がそれを暴かれるのを察知すると忽ち不安になるのと同じように、ユダヤ人の王としてお生まれになったこの方によって今の自分の悪を暴かれるような、おそらくそのような不安を抱いたのだと思う。そこでヘロデは聖書に詳しい知識人達を呼び集め、メシアがどこに生まれることになっているかを調べさせる。するとその知識人たちはこう答えた。

「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう言っています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである』」と。

 

これは預言者ミカの言葉である。そこでヘロデはあの学者たちを呼び寄せ、「見つかったら私にも知らせてくれ」と頼んで送り出した。しかしヘロデは公にではなく、敢えて「ひそかに」学者達を呼び集めてこれを話したと聖書は伝えている。なぜひそかに呼び集めたのか。罪がヘロデをそう動かしたからである。彼は、私も行って拝もうと学者達に言った。そう言っておけば学者達は情報を教えてくれる、という計算が働いた。しかしヘロデの本音は、救い主が生まれた場所が分かれば、罪に支配されたカインがアベルを殺したように、誰も見ていないところでその子を直ちに殺すつもりだった。その為にはヘロデは「ひそかに」学者達に訊ねるしかなかったのである。

 

学者達はその後、自分で救い主を見つけたのではない。東方で見た星が彼らに先立って進んだからである。その星は、幼子のいる場所の上に止まった。その星を見て、学者達は喜びに溢れた、と聖書は言う。このことは何を物語っているのだろうか。救い主との出会い。それは人間に訊ね求めても実現されない、人間の力に頼っても適えられない、ということではないだろうか。学者達は初めはヘロデに訊ねた。けれどもそれで出会いは実現しない。ヘロデは何も知らなかった。悪しき思いでヘロデは知識人達を頼った。しかし人間の狡猾なあざとさも救い主との出会いにはつながらない。学者達を救い主との出会いへと至らせたのは、星の導き以外の何ものでもなかった。これはまさしく、神の導きによってこそ人間は、救い主との出会いへと初めて導かれる、ということを言っている、と思うのである。それが人の噂や自分の思い込みによるのではなく、神の導きによる救い主との出会いであったからこそ彼ら学者達は喜びに満ちあふれた。神の導きによったからこそひれ伏してその幼子を拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。学者達は最初から最後まで、神の導きによって動かされた。自分のことしか考えられず、自分の利益の為には人を排除することをも厭わない、そんな人間ばかりが渦巻くこの世にあって、そのような値のない人間こそ見捨てることなく、歩み寄って生まれ変わらせようと御手を伸ばしてくださる神。その神によって二千年前のユダヤの人々ではなく、遥か東方にある異国の学者達が先ず動かされた。そしてヘロデの魂胆を見透かしておられる神は、更に夢を用いてこの学者達をヘロデの策略に加担しないように導いていくことになる。

 

 

この話を我々はどう受け止めたらよいのであろうか。救い主の誕生。我々クリスチャンとされている者はその季節が来る度毎に、この方との出会いを本当に神の導きによって受け止めてきたであろうか。クリスマスはこういうものなのだ、と我々クリスチャンが思い込んでいて、もし見知らぬ人が教会に訪ねてきて、本当のクリスマスはどこにあるのですか、などと言われたら、我々こそがヘロデのように忽ち不安に陥ってしまうかもしれない。そのようになってしまうのは、神が我々に向かって歩み寄って下さる、ということを見失ってしまっているからではないだろうか。神の導きによってクリスマスを迎える、ということを忘れてしまっているからではないだろうか。コロナのためにあれもできない、これもできない、などと不平不満ばかりを並べ立てるばかりで、まさにこのような闇の中にいる小さな人間一人一人をこそ相手として選び、自分のことしか考えられないその者の罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになる神の歩み寄りによって己自身が変えられていく、というクリスマスの本当の意味を見失ってしまっているからなのではないだろうか。

 

 

コロナであろうがなかろうが、我々がクリスマスを迎えられるのも、救い主との出会いへと導かれるのも、神の導きによってである。神の御手が働いて下さるからこそその時初めて、信仰をもっていようがいまいが、年老いた者であろうが幼い者であろうが、救い主との本当の出会いが与えられる。ユダヤ人にではなく、異国の地の東方の学者達が喜びに溢れた、というこの出来事は、分け隔てなく世の人全てが神の導きによって動かされる、ということを我々に物語っている。病に倒れた後、今なお思い通りに動けない私にさえも神はクリスマスを迎えさせて下さった。コロナに苦しむ患者の方々、その方々の治療するために寝る間も惜しんで尽くしておられる医療従事者の方々、災害、戦争、貧困、世界中の苦しみに喘ぐ方々にこそ、そして皆さんにもクリスマスにおいて神の御手は伸びている。神の導きによって、今年にしか与えられない新しいクリスマスの意味を、救い主との本当の出会いを苦しみの中にある方々一人一人が、そして皆さんが与えられていることを信じている。そうして皆さんと共に私も神の愛と恵みによって新しく生まれ変わらされるよう、心から祈り求めたい。