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マリアのアドヴェント

 2020年のアドヴェントを迎えました。先週浅原先生を通して語られましたように、闇を切り裂くまことの剣のような光を待ち望み、クリスマスを迎える備えをしてまいりたいと思います。聖書の信仰は、「待つ」信仰なのです。4週後に迫ったクリスマスを待つだけではない。いつかは神のみご存じの、終わりの日に、主イエス再び来たり給うを待ち望む信仰です。今日ともに聞いたマニフィカートを歌い祈るマリアは、聖書の「待つ」信仰を体現していると言えるでしょう。

 共にお聞きした「マリアの賛歌」は、前半部分で、こんな者にさえ目を留められたばかりか、偉大なことをなさった主を賛美しながら、その神の「憐れみ」「慈しみ」に打たれた思いがほとばしり出ています。ただ、51節以下になりますと、トーンが変わって、来るべき新しい世、新しい現実をはるかに望み見て預言者のように語る言葉となっています。ここにマリアの、そして聖書の「待つ」信仰とは何かがはっきり言いあらわされる。そして実に特徴的な言葉遣いがなされていることに気づかされるのです。将来のことを、待ち望んでいることを語っているはずなのですが、51節以下は、既に起こったこととして歌い上げているといえるのです。新しい聖書協会共同訳は、そのことを際立たせて訳していますので、ご紹介します。

「主は御腕をもって力を振るい、思い上がるものを追い散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を何も持たせずに追い払い、慈しみを忘れず、その僕イスラエルを助けてくださいました」

 実はこの箇所に出てくるのは全て、過去に起こった出来事を言い表す時のアオリストというギリシャ語の動詞の過去形が使われているのです。すでに「主は力を振るわれた、追い散らされた、権力者を引き下ろされた、低いものを高く上げられた・・・」という風に。まだ見ていない将来なのですが、待ち望んでいる未来のはずなのですが、確信をもって既に起こったこととして、始まったものとして断言している。それがマリアが体現する聖書の「待つ」信仰と言えます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブライ人への手紙11章も語っている通りです。

この確信は独りよがりな思い込みではないということが、50節、そして54節に出てくる「憐れみ」という言葉に貫かれています。この「憐れみ」は聖書協会共同訳では「慈しみ」と訳されていますが、さかのぼれば旧約聖書で神様のことを言い表す時によく使われる「忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを許される方」(民数14:18など)に出てくる「慈しみ」(ヘセド)のことと言えます。神の慈しみ(ギリシャ語でエレオス、ヘブライ語でヘセド)は代々限りなく、また主は忘れることがない、この神の慈しみによって、まだ見ぬ事実を確かなものとして望み見ることができるのです。

 

 今年、パンデミックによって世界が閉ざされた中で、先の見通せない闇の中で、この「待つ」信仰が問われていると言えるでしょう。ある講演を頼まれて、このような閉ざされた世界において紐解く旧約聖書について考える中で、何人かのよく知った聖書学者たちが、今年、聖書と向き合い、格闘し、絞り出すように紡ぎ出した言葉と出会いました。そのなかで、留学中にお世話になったブルッゲマン先生が、今年3月に、緊急出版した『信仰への招きとしてのウィルス-喪失、嘆き、そして不安時における聖書的考察』(未邦訳)に書かれていたことは、将にコロナ禍にあって信仰者が何を「待つ」のかを考えさせるものでした。2020年、コロナ禍で迎えるアドヴェントに、私たちは、聖書の待つ信仰に連なっていることを、改めて覚えたいと思います。ブルッゲマンは、その本の中で、旧約聖書エレミヤ書を取り上げています。

エレミヤが用いる特殊な用語ハーターン(「花婿」)の4回の用例に注目しながら、災厄に見舞われて、目の前に屍が累々と積みあがる中で、「ユダの各地の町やエルサレムの巷から、喜びの声と楽しみの声、花婿の声と花嫁の声を絶え」「この地は廃虚となる」(7:34)様子、葬儀さえ行えない中で、逝去者とその家族の傍らにいることもできない、やるせない痛みに通じるかのような「死者を慰めるために喪に服してパンを裂く者はなく、その父や母を慰める杯を彼らに飲ませる者もない。」「宴会の家に入って、彼らと共に座り、食べたり飲んだり」することも禁じられ、「目の前で、・・・・喜びの声と楽しみの声、花婿の声と花嫁の声」が絶える様子(16:7-9)、さらに、エレミヤが地が混沌に帰するのを見、「彼らの喜びの声と楽しみの声、花婿の声と花嫁の声、挽き臼の音、灯の光」が絶えて「この地はすべて廃虚となって荒れ果て(る)」様に打ちのめされた現実(25:10-11)を浮き彫りにします。エレミヤ書が見ていた世界は、今年の私たちの見ている世界に通ずるものと言えるかもしれないことに気づかされます。そして、ハーターンが出てくる4回目の用例(33:1011)において「主はこう言われる。あなたがたが、『ここは廃虚で人も獣もいない』と言っているこの場所に、荒れ果てて、人も住民も獣もいないユダの各地の町やエルサレムの巷に、再び声が聞こえるようになる。喜びの声と楽しみの声、花婿の声と花嫁の声、『万軍の主に感謝せよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と言って感謝の献げ物を主の神殿に携えて来る者たちの声が聞こえるようになる。それは私が、この地の繁栄を初めの時のように回復するからである――主は言われる」と告げられることへと思いを向けさせられるのです。この転換点に『万軍の主に感謝せよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』との感謝の賛美(doxology)がささげられていることに注目するのです。特に主のヘセド(「慈しみ」「粘り強い絆」)への賛美がここにあることが重要です。この「主のヘセド」ゆえに神はその民と神の世界を見捨てず、たとえ滅びを経ても潰えることがないことを証する、と。このヘセドへの賛美は、10節の婚宴の回復に続き、さらに、11節は「繁栄の回復」で閉じられる、滅びを転じる大逆転の中心に「主の慈しみ」があることにを知るのです。

エレミヤは婚宴と賛美と踊りが間もなく再び始まるであろうことを望み見て喜び、その時を待っている間、エレミヤは真実を語る誠実さと勇気を抱き続けた預言者であったと言えます。それはもう一人の旧約聖書を代表する預言者イザヤが42章で言い表すように、

私は久しく沈黙し/静かに自分を抑えていたが/今、子を産む女のように呻き/激しく息をし、あえぐとあるような、「産みの苦しみ」の中にあって、待つことだと言えるのです。パウロがロマ書8:22節で、まだ見ぬ将来の栄光を待ち望む忍耐について「被造物は全て、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」と語っていることと重ね合わせながら、まだ見ぬ将来、主の再び来たり給う栄光の時に至るまで、創造者にとっても、被造物にとっても痛みを伴うこと。古い貪り求める世界から新しい正義と憐みと平和と平安の世界への道行きは、深き闇を切り裂く十字架の光に貫かれて、悔い改め、これまでの在り方を徹底的に手放すことを迫るものであるから、必然的に痛みと嘆きを伴うと。希望に先立つうめきとしてのバビロン捕囚があった、「滅びへの隷属から解放されて神の子どもたちの栄光に輝く自由に預かる」ために、主イエスの十字架があったことを知っているのが聖書の信仰なのです。全き新しさが到来するまでの間、十分待つことをしない合理主義や楽観主義に抗って、今の時、呻きつつ待つのが聖書の信仰であり、霊の初穂をいただいている者たちは、神の子とされること、体の贖われることを、徹底的に呻きながら待ち望むものとされていることを思い起こすのです。

そして、このようなエレミヤ書が待ち望み歌う感謝の賛美の響きは、今日の新約聖書ルカによる福音書のマリアの賛歌にも響いている聖書の信仰なのです。

この信仰を証しする一人の人の生涯を紹介して終わりたいと思います。クリスマスの賛美歌ではありませんが、讃美歌の2番に「いざやともに」で始まる讃美歌を作詞したMartin Rinkartという人がいます。Rinkartは、1586年にドイツの貧しい銅細工人の家に生まれて苦学して牧師になった人です。ただ生まれつき音楽の賜物に恵まれて、ライプチヒ大学で神学を学ぶのに必要な学費を作詞作曲で賄ったと言われています。故郷の教会に招かれて、牧師となります。折しも30年戦争が勃発して、避難民が街になだれ込み、急激な人口の増加で食糧難が起こり、飢餓に加えて疫病がはやり、毎日積みあがる死者が街にあふれます。4人いた牧師たちが1人去り、2人が病死して、ついに街に一人残った牧師としてRinkartは一日に40人、50人と葬儀を執り行う。ついには最愛の妻も病に倒れ、Rinkartの葬りの棺の列に加えられます。妻をそして母を失った、家族の食卓の祈りの際の歌として作られたのが讃美歌「いざやともに」であった、と。残された子らとともに、「くしきみわざ」を数え、「災いを除き給う」神の恵みを大胆に確信をもって、歌ったという壮絶で倦むことなく弛むことなき決然とした希望の信仰に、聖書の信仰が息づいていることをRinkartの生涯と讃美歌は証するのです。

 

2020年というこの年のアドヴェント「わたしたちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、だれがなお望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、わたしたちは忍耐して待ち望むのです」