· 

全能の父なる神

「全能の父なる神」マタイ7711

202096日(左近深恵子)

 

 ガリラヤの地で主イエスは人々に語られました、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この言葉は大切に伝えられ、マタイによる福音書が記された時代の教会でも語られ、記録されました。その時代、マタイによる福音書は迫害の中にあったと考えられています。教会の外からの強い力によって教会が揺さぶられそうになっています。また内部においても、主イエスの言葉から離れてしまっている主張を声高に叫ぶ人々の言動によって揺さぶられそうになっています。困難な状況にあって、キリスト者として生きていこうとする人々に、教会は冒頭の言葉を語ってきたのです。

 

 主が語られた数々の言葉の中でも特に励ましに満ちたこの言葉に、力づけられてきた方は多いと思います。これまでの歩みを振り返り、この言葉は真実だと、求めたら、与えられた。探しそして見つかった。門を叩いたら、開かれた。そのようなことが自分の人生にあったと、主の導きと慈しみを思い起こす方もいるでしょう。

 

 同時に私たちはまた、この言葉を正面から受け止めることにどこか踏み切れない、くすぶる思いも抱くのではないでしょうか。求めたけれど、結局これまで与えられていないことがある。探しているけれど、まだ見出せていない。門を叩いても、期待したほど開かれてこなかったと。このくすぶる思いとは、自分の利益を得るための願望が全て実現されてはいない、だからこの言葉は正しくないと、否定するものではありません。どんなに頑張り、努力をしても、自分に益をもたらすための自分の要求の何もかもが期待通りに実現されるわけではないことを、私たちはそれまでの経験を通して知っています。そうではなく、キリストに従って生きていこうとする者として、自分や家族や友人のために、教会のために、この世のために、祈り願ってきたことが、願うように実現されない悲しみからくる、くすぶった思いです。「求めなさい」と告げる主イエスの言葉に、ずっと心に抱いている、叶わないままの願いのことを思わずにはいられなくなるのです。

 

 感染症によって引き起こされている今の状況も、私たちが主にあって願い求めるものを、私たちから遠ざけています。共に集まって捧げる礼拝も、子どもたちとくっつきあうようにして一つのものを覗き込んだり一緒に何かを作ったりして過ごす分級も、イースターの愛餐会も、修養会も、夏のお楽しみ会も、断念してきました。礼拝前の聖書の学びも、向かい合って讃美の練習をすることも、何よりも聖餐のパンとぶどう液を実際に口を通して味わうことも、今は控えざるを得ません。病院や施設におられ、訪問することができずにいる方々がいます。教会での礼拝を守り、この礼拝を核にしてそれぞれの場で捧げられている礼拝を守るために、教会はできるだけのことをしてきました。聖餐は配餐をしない形であってもこれまでと同じように第一週に守り、来られない方々に週報や説教原稿を送り、ネット環境が整っている方々に向けて礼拝動画を配信しています。このような形で礼拝を守ることに、私たちは少しずつ慣れてきたところがあるかもしれません。けれど、揃って主の食卓を囲めないこと、揃ってみ言葉を受け留め、聖餐の糧に実際に与ることができないことに慣れることはありません。もうこれで良いのではと諦めることもありません。私たちが感染の状況を変えられるわけではないから今は求めても無駄だと、求めなくなることはありません。知恵を絞り、礼拝を守りながら、一人でも多くの人と礼拝に集い、共に聖餐の恵みに与る日を求めて、止むことなく神さまに祈り求め続けるのです。

 

 私たちは「どうせ」という言葉に引きずられがちです。「求めたところでどうせ」「探したところでどうせ」「門を叩いたところでどうせ」と、自分の力や努力では及びそうにないことは求めなくなり、諦めるようになりがちです。自分に益をもたらすための願いならば、そこまでなのかもしれません。しかしキリストに従って生きて行くための願いは、私たちの願いである前に、神さまが願っておられる願いです。だから私たちが勝手に自分たちの力を目安に線を引いて、これ以上は「どうせ」無理と諦めることはしません。私たちの限界を超えて神さまが祈りに応えてくださることに、信頼しているのです。

 

私たちの信頼は、キリストによって与えられます。イエス・キリストの生涯、十字架の死、死からのよみがえりにおいて、神さまの私たちに対する愛がいかに大きなものであるのか示されているから、神さまに祈り求めることができます。キリストが背負われた苦しみと死に表れている神さまのみ心が、私たちの罪深さにも、死にも、何ものにも勝る救いのみ業が、「どうせ」という言葉からみ言葉へと私たちを引き戻します。自分の力を超えているからと、求めることに引けてしまいがちな私たちですが、そもそも神さまのみ心からも、本来の私たちの在り方からも離れてしまっていた私たちを、神さまが罪の支配の中から救い出し、赦し、ご自分の元へと引き寄せてくださいました。罪に対して与えられるのは裁きのはずです。私たちの罪深さと私たちが赦されるその間には、私たちには超えることのできない深くて広い淵が横たわっています。けれど神さまはこの深い隔たりを超えて、神の国へと、ご自分の支配の中へと入れてくださいました。神さまのみ心によって、キリストの十字架と復活のみ業によって、隔たりを超えて赦された私たちだから、成し得ることを為しながら、その先にある主のみ心の実現のために、祈り求めるのです。

 

深い淵を超えて私たちに注がれてきたみ心を、主イエスは「天の父」のみ心と言い表されます。人間の親が自分の子に良いものを与えるように、天の父なる神さまは私たちに良いものを与えてくださるのだと、人間の親の愛情から神さまの御心を説きます。父と言われていることを、人間の男親に限定して考える必要はありません。性別は神さまに造られ、体を持っているものにあるものです。「神は霊である」(ヨハネ424)と言われているように、神さまご自身は霊なる方であって、私たちのような体も性別もありません。ここで「父」と言う表現によって、子どもを愛し、養育と教育の全責任を負う者を指しているとある人は説明しています。

 

主イエスはここで、人間の親は誰もパンを欲しがる子に石を与えたり、魚を欲しがる子に蛇を与えようとはしないだろうと言われます。パンや魚はガリラヤ地域の食生活を支えているものです。育ち盛りの自分の子どもたちが喜んで食べ、栄養を付けられるものを与えようとするのが親の願いです。「あなたがたは悪い者でありながらも」と主イエスは言われます。神さまと共に生きる歩みを貫き切れず、自分の利益のためには他者との関係も歪めてしまう私たちですが、慈しみ育てている子どもには良いものを与えようと必死になります。子に良いものを与えることは、容易いことではありません。親子の関係で辛い体験をしてきた人、今もその渦中にある人は、少なくありません。子を愛する親でも何が子にとって本当に良いものなのか分からなくなり、パンや魚を与えていたつもりが結果として石や蛇を与えていた、そのようなことも起こり得ます。親としての養育と教育の務めを全うできないあなたたちも、何とか親の愛を形にして与えたいと強く願うのだから、「天の父は、求める者に良いものをくださ」らないはずはないではないかと言われます。父なる神が、み子の命の値によって私たちに与えてくださる親子の関係は、人間の親子のような不十分なものでも不完全なものでもありません。与えてくださるのは石や蛇ではなく、私たちを養い、満たし、共に成長していくことのできるもの、神さまの国で私たちが与ると約束してくださっている宴を示すような良いものです。それらを、子煩悩な親のように、神さまは私たちに与えてくださるのです。

 

神さまはこの良いものを、関わりの中で与えてくださいます。親は、ものを与える機械ではないので、人間の親も日々の子どもとの関わりの中で、交わす言葉や子どもの様子を通して、今何を与えるべきか、何を与えずにおくべきか、あれこれ思い悩みながら与えます。神さまと共に生きるために、神さまにお応えすることのできる者として造られた私たちは、み言葉を通して語り掛け、聖霊の御業を通して働きかけてくださる神さまに祈りによって、言葉と行いによって、お応えする関わりの中に入れられています。神さまは私たちの心の祈りを求めておられ、私たちの心は神さまを求めます。この交わりを通して私たちは神さまにお応えして求め、探し、門を叩くのだと、主イエスは教えてくださるのです。

 

キリストの後に従って歩みたいと、そのためにこうなって欲しいと望む思いが募ると、私たちは孤軍奮闘しているような気がしてきます。求めることに息切れがしてきて、ふと気づくとあれほど願っていたことを祈らなくなっている自分に落胆します。こんなに求めているのに、こんなに門を叩いているのに、こんなに他者に対して言葉と行動を示しているのにまだ足りないのかと、自分の門を叩く強さや回数で門をこじ開けられるかのように思ったりします。そうかと思えば私たちは神さまならば私の願いは知っているはず、正しい道を与え、必要なものを備えてくださるはずだと、求めることも探すことも門を叩くことも無く、神さまが働くのをただ胡坐をかいて待っていたりもします。親子の結びつきを与えてくださる神さまに対して、ルカによる福音書の放蕩息子のように、親である神さまに要求だけはしながら、自分に親は必要ないと神さまの言葉に耳を傾けず、他人のような距離を置くことが自由であるかのように思って、神さまのもとから離れ出てしまうこともあります。求め、探し、門を叩きなさいとの主イエスの教えは、簡単なように見えてそうではないことに気づかされます。主イエスは私たちがそのような者であることを知っておられて、父なる神との交わりの中で求め、探し、門を叩きなさいと言われます。父なる神に子としてお応えする仕方が、求め、探し、門を叩くことだからです。

 

子どもである私たちは、親である神さまの助けと導きを毎日必要としています。思い通りにことが運ぶような日々ではないから、毎日神さまが与えてくださったこの結びつきに生きることを願い求めます。かつて預言者エレミヤは、捕囚とされ、故郷エルサレムからバビロンへと連れて行かれたイスラエルの民に手紙を書き送り、こう記しました、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる・・・わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。・・・あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」(エレミヤ291014)。神さまは旧約の時代から今に至るまで、平穏な時代においても、先が見えないような困難な状況に追い詰められた時代においても、ご自分の民に呼びかけてこられました。歴史を貫いて救いの御業を推し進めておられる主に信頼し、主の呼びかけに応えて、ご自分の元に来て、祈り求め、尋ね求め、心を尽くして主を求めることを、願ってこられました。人々が真にご自分と出会い、あらゆる力に勝る主のご支配の中を生きることを願ってこられました。

 

 

私たちはこの神さまに信頼します。私たちの罪を背負って死んでくださったほどに、私たちの天の父となってくださったほどに、私たちを愛してくださる神さまに信頼します。この神さまとの結びつきにおいて生きる者とされている私たちは、神さまの熟慮と救いの御業によって今日まで生かされてきたことを信じます。この神さまのなさることが、たとえ私たちにとって辛いものとなることがあっても、私たちにとって快いものではなくなることがあっても、子としての私たちの成長に必要なものであると、決して無駄になることはないと 信じます。この信仰を私たちは使徒信条の「我は・・・全能の父なる神を信ず」という言葉をもって告白しています。これからしばらくの間、礼拝の説教で、使徒信条の信仰告白に沿ってみ言葉に聴いてまいります今日はその一回目であります。「全能の父なる神を信ず」と、声を合わせて告白し、悩み多い日々を忍耐しながら生きねばならない時も、そこに全能の父なる神の深い御心がある限り、必ず私たちのために益としてくださることを信じて、主に祈り求め、共に祈り合いたいと願います。