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天からのパン

ヨハネ62240「天からのパン」

2020712日 左近深恵子

 

 ガリラヤ湖のほとりで、人々は主イエスを捜していました。その前の日も、人々は主イエスの後を追ってガリラヤ湖の対岸まで来ていました。主イエスが病人たちを癒やされるのを見たからでした。病人も、死に瀕している人までも救うことができる主イエスのなさることをもっと見たいと、大勢の人が目を輝かせて主のおられるところに集まって来ました。主イエスはその群衆の空腹を、5つのパンと2匹の魚によって満たしてくださいました。ぎりぎりではなく十分な糧で、人々が食べきれず残ったパンくずを集めると12の籠がいっぱいになるほど豊かな糧をもって、満たしてくださいました。病による苦しみから救ってくださる主イエスは、主イエスの元に集まってくる者の飢餓を案じ、一人一人を必要な糧で養ってくださる方であると人々は知り、主イエスのことを、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者」だと喜びました。ヨハネによる福音書はこれが過ぎ越しの祭が近づいていた時のことであったと伝えます。過ぎ越しの祭りは、神さまを礼拝し、人として生きる自由が奪われていた奴隷の地から、神さまがご自分の民を救い出してくださった出来事をお祝いする礼拝です。神さまが与えてくださると約束された地に向かって進む荒れ野の旅の間、ご自分の民を天からのパン、マンナで養われた出来事も思い起こし、祭りに備えるこの時期に、主イエスは山で、パンをもって人々を養われました。モーセを選び立て、モーセを通して道を示してくださった神さまは、主イエスによって人々に新しい出発を与えてくださったのです

 

 主イエスの御業を目の当たりにし、パンと魚を食べて満腹した人々は、その次の日も主イエスの後を追います。そして湖を渡りカファルナウムの町まで来て、とうとう主イエスを見つけます。「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言います。主イエスは人々がご自分を自分たちの王にするために、捜し出し、連れて行こうとしていることをご存じです。人々は、パンと魚で満たしてくださった主イエスの御業を見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者です」と、主イエスにモーセのような救済者を見出しました。ファラオの圧政からイスラエルの民を導き出したモーセ。水も食べ物も無い荒れ野の旅の間、モーセの祈りによって岩から水が噴き出し、天からマンナが降って来た。そのような偉大な救済者がいつか再び到来すると、モーセを通して神さまが約束されました(申命記18章)。その約束が、ローマ帝国の圧政下で苦しめられている今ここに実現するのだと、人々は思いました。病を癒やし、群衆を養うことのできるこの人こそ、帝国の支配から解放し、ユダヤ人の独立国を樹立する王こそ、自分たちの救済者なる王だと、この人こそ王となるべき人だと思った群衆が、自分たちの王として担ぎ出すためにご自分を捜していたことを、主イエスはご存じでした。

 

 人々は王の到来を喜びましたが、彼らにとって王とは、自分たちの願いを実現するためにその特別な力を発揮してくれる存在でした。だから自分たちは王を、願う時に、願う所へ連れて行くことができ、主導権は自分たちにあると思っています。この群衆に主は「はっきり言っておく」と、これから語られることに良く耳を傾けるようにと注意を促してから、「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではない。パンを食べて満腹したからだ」と告げられます。肉体の空腹は、食事をすればその時は解消されますが、やがて再び空腹になります。主イエスは、罪によって消耗し、滅んでゆく命を、自分自身で満たし養うことができない私たちを、ご自分の血と肉で生かし、養う方であり、パンの出来事にはこの神さまの御心が示されています。しかし人々は前日の出来事に神さまのみ心を表すしるしを見たからではなく、胃袋を満たしてくれる力を見、主イエスが王になることでもう飢える心配をしなくて良いと期待し、主イエスを捜しました。主イエスは肉体に必要な糧を「朽ちる食べ物」とも言われます。朽ちる食べ物を軽んじて、言われているのではありません。主イエスは、飢えの苦しみを深くご存じです。空腹の状態で石をパンに変えたらどうだと語り掛ける誘惑と闘われました。主の祈りにおいては、私たち自身のための祈りにおいて真っ先に日毎の糧のために祈ることを教えてくださいました。「朽ちる」と訳された言葉は、「失われる」とも「滅びる」とも訳すことができます。肉体が満足に達しても、その満腹した肉体があれば私たちは全てにおいて満たされた歩みを続けられるわけではありません。本当に自分が求めている善を為すことはできず、正しくないと知っている在り方から離れる強さも持ち切れず、他方で失ってはならないものを保つこともできない、彷徨いながら滅びに向かってしまう私たちを、朽ちない糧で養い、一時の満腹に留まらない主から溢れ出る恵みに、私たち自身が絶えず満たされ、私たちの内側からも主の恵みが溢れ出る者としてくださるのです。

 

 日々苦労しながら働いて朽ちる食べ物を得ており、だからこそ朽ちる食べ物を安定して与えてくれることをご自分に求める群衆に、主イエスは朽ちることも、失われることも無い、永遠の命に至る食べ物のために働きなさいと言われます。何のために働いているのか、何を求めて働いているのか、人々は主イエスの言葉によって、日々の営みの根本から丸ごと問われます。「働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われます。「働く」と訳された言葉は、「活動する」「とり行う」「遂行する」といった意味があります。存在全体で、日々の営み全体で、朽ちない食べ物のために生きなさいと言われます。

 

自分たちはこれまで一生懸命働いてきた、それは食べては失われ、また食べては失われてゆく食べ物のための働きであるが、朽ちる食べ物のための働きがこれほど大変なのだから、朽ちない食べ物のための働きとはどれほど困難な重労働なのだろうかと思ったのではないでしょうか。「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」と人々は尋ねます。主は、ご自分は「人の子」、つまり神さまが遣わされた救い主であるのだから、ご自分のこの言葉に生きなさいと呼び掛けられます。人々が用いた「業」という言葉には複数形が用いられています。労働の量と質に応じて報酬が決まるのだと、そうあるべきだと人々も世も日々思っていることでしょう。複数形の表現を用いて、どれだけたくさんの労働の対価として、その永遠の食べ物を手に入れられますかと問うているのでしょう。自分の行いの量と正しさによって、それらに見合った食べ物を得ることができると考えている人々に、主は言われます、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。主はこの時単数形で「業」という言葉を用いておられます。たった一つのその業は、信じるということです。神さまがお遣わしになった主イエスを救い主と信じる、自分の存在全体で、自分の日々の営み全体で、別々のものではなく存在と営みの丸ごと一つで信じることを求めておられます。

 

 ではあなたは、本当に自分たちがそのために働くのに、自分たちが信じるのに、ふさわしい方であるのかと、群衆は保証を求めます。かつてモーセは荒れ野で天からのパンを私たちの先祖に食べさせてくれたが、あなたはどんなことを私たちのためにしてくれるのかとせがみます。主は再び「はっきり言って置く」と群衆に告げてから、荒れ野でマンナを与えたのはモーセではなく、モーセを通して神さまが天からお与えになったのだと、パンの与え手がどなたであるのか先ず明らかにされます。そして主は、荒れ野で神さまに信頼しきれずに奴隷であった時の暮らしを懐かしむ民にパンをお与えになり、養われた神さまは、ご自分を拒み、自分に都合の良いものを自分の王とし、自分の命と日々の主導権を手放そうとしない人々に、命を養うパンを与えると告げられます。そのパンは、かつて天から与えられたマンナのように、天から降ってくるのかと、そのようなパンであったら絶えず私たちにくださいと要求する群衆に、主イエスは、「私が命のパンである」と告げられます。キリストによって人の根源的な飢えや渇きを神さまが満たしてくださると、人は自分が存在の丸ごとをもって生きることを願われる神さまの御心と、そのみ心のしるしであるキリストを通して、自分自身の命や存在をようやく受け入れて生きていくことができます。朽ちて行くわたしたちのために十字架で肉を裂かれたこの方が、私たちのために降られた天からのパンであるのだと、このキリストを信じるという働きに生きることが私たちの食べ物だと言われます。このキリストのもとには、性別も年齢も関わりなく誰でも来ることができ、キリストを信じる働きに誰でも生きることができるのです。

 

 新型コロナウイルスによって外出がままならない日々が続いています。行きたいところに自由に行き、身体を思う存分動かし、動き回ることで充実感を得ることが、当たり前のことではなくなりました。一か所に留まり、時間が来れば食べ物を食べ、時間が経ってまたお腹を空かせて食べる、その食べ物を手に入れることにも、様々な不安を覚える、そのような繰り返しの中で、朽ちる食べ物のためではなく、主イエスが救い主であると信じる働きに生きることがこんなに困難であったのかと、私たちは知ってきたのではないでしょうか。キリストという糧に生かされるということは、ただ受けることなのではないと、本当に自分の根底から受けることは、自分の存在と時間と生活を、主イエスに信頼することに捧げることと結びついているのだと、この業に苦闘したからこそ、キリストの恵みを一層深く味わってきました。主イエスが求めておられるのは、主のもとに行こうとする、主との交わりに中に身を置き続けようとする、霊的な業です。主の霊的な御業に参与することを通して、私たちは皆、ただ神さまのみ心によって、朽ちない永遠の糧が与えられているのだと、知ることができました。

 

 ご自分の元へと招かれるキリストにお応えして礼拝に集うこと、み言葉と聖餐の糧に与ることが、私たちの朽ちない命に生きる日々に必要だから、キリストは十字架の死をもって、命の糧を与えてくださいました。命の糧が必要であることは、私たちだけでなく、私たちの隣人にとっても同じです。だから私たちは、他の人々にもこのことを伝えます。パンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてから、人々に分け与えられた時、この驚くようなみ業に主イエスは弟子たちを敢えて関わらせてくださいました。ご自分を求めている群衆を養うために、どこから糧を得ることができるのか、人々は誰によって養われるのか、弟子たちに考えさせられました。全ての人に食べ物をお配りになる業に、弟子たちを参与させ、弟子たちの働きをみ業に用いられました。私たち教会は、主イエスの弟子の群れです。主イエスを求めて主のおそばへと集まり、イエス・キリストという命のパンを与えられ、キリストから、永遠の命に至る食べ物のために働くと言う食べ物を与えられている神の民です。キリストを信じるという神のみ業をそれぞれの日々の中で重んじ、この美竹教会の業を通して、一人でも多くの隣人と、主の恵みに共に与ることを、心から願います。