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2020ペンテコステ

 使徒言行録2:14-32

 

 つい先日、ある新聞の文芸批評を興味深く読みました。ドイツ語と日本語の両方で詩や小説を世に問い続けてる多和田葉子という作家による『星に仄めかされて』をめぐるものでした(小野正嗣「文芸時評・境界も〈私〉も解き放つ星々」(朝日新聞2020527日朝刊))。この批評家によりますと、多和田氏の作品では、いろいろな言語を母国語とする登場人物の語りがつづられている。そこに、日本語の慣用句や同音異義語が駆使されて、言葉遊びがちりばめられている。ただ、登場人物たちが小説の中で本来語っているはずのデンマーク語やドイツ語が見事に言葉の壁を越えて、境界をやすやすと超えて読み手に語り掛けてくるというのです。そして評者は続けます。「これまで言語や国籍、人種、性差といった人々を遠ざけ分断する境界線に絡めとられることなく、(この作家の言葉は)歩を進めてきた。本書の言葉はさらに、私たちを閉じ込め自由を奪う〈私〉という牢獄からの解放を夢見させてくれる。」と。その言葉は、日本語でもドイツ語でもなく、地球上のどこからでも見える夜空よりも広大な言語と言語の〈あいだ〉にちりばめられた美しい星々のように輝いている」そう、批評を閉じられています。

 今年、新型コロナウィルスは、世界で数十万人の命を蝕んだけでなく、ウィルス感染への恐怖が、人との接触を遠ざけました。より深く社会を不安に陥れ、互いの関係に溝を穿ち、「私たち」をバラバラな「私」へと分解してきました。言語や国籍、人種、性差、持つものと持たざる者、といった人々を遠ざけ分断する境界線に絡めとられて、バラバラになった一人一人の「私」の間に隔ての中垣を作り上げてきました。くぐもった言葉の刃で執拗に他人を抉って、ついには死に至らしめる事件もありました。同じ言語を交わしているはずなのに、互いのすれ違いが人と人との関係に影を落としてきました。それは教会も例外ではありません。コロナ後の世界に癒えがたい傷を残しつつあります。それこそが、死の力がほくそ笑む世界の現実です。緊急事態宣言が解除されても、思い知らされているのです。私たちはこの2カ月余りの間に、はっきりと、私たちは見えざる死と隣り合わせに生きていること。突然襲われる場合も、ウィルスによるものの場合も、あるいは、しばし猶予を与えられてはいても誰もがまぬかれない、どんなに抗おうにもは人には撲滅できないことを。

ある若手音楽グループがこの時期に新曲を出しました。「新世界」、というその曲。「当たり前が戻ってきたとして、それはもう赤の他人。きっと同じ世界には、もう戻らない。『ただいま』と開けたドアの先は新世界。僕ら長いこと崩れる足元を「上を向いて歩けよ」と目を逸らしてきた」と(Radwinps『新世界』)。崩れる足元を見ないように目を逸らして生きていたことを突き付けられた世界のただなかに、ペンテコステを迎えています。

 ペンテコステは、キリスト教が、教会が、「言語や国籍、人種、性差といった人々を遠ざけ分断する境界線に絡めとられることなく、」「私たちを閉じ込め自由を奪う〈私〉という牢獄からの解放を」望み見させる、本当の言葉を聖霊に満たされて語り始めた日です。日本語でもドイツ語でも、ギリシャ語でもウガリット語でもなく、地球上のどこからでも見える夜空よりも広大な言語と言語の〈あいだ〉にちりばめられた美しい星々のように輝いている、そのような言葉を携えて語りだす証し人を生み出した日です。私たち一人一人も、その輝きを与えられた世の光であることを今日、思い起こして、歩みを新たにしたいと思います。

 煌めくみ言葉の担い手は、巧みに語る言葉の達人でもなければ、博学な知的エリートでもない。むしろ魂の語り手でした。キリストと出会った喜びに突き動かされた証し人でした。「知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください」9節)「これから話すことを聞いてください」22節)「はっきりと知らなくてはならない」36節)。そういいながら、旧約聖書預言者ヨエルの言葉(ヨエル書3章)や詩編16編(8-11節)を引きながら、語ったのです。神が、主イエスを死の苦しみから解放されたこと。復活させられたこと。主イエスが死に支配されたままでおられるなどと言うことはあり得なかったこと。それは詩編で讃えられ、望み見られていたことだったのだ、と。あなた、神の聖なる方を朽ち果てさせない、と歌い手のダビデが詠んでいる。これは死んで墓で朽ち果てたダビデ自身のことではなくて、別の方、それはイエスキリストのことじゃないか、と。なにより、「神はこのイエスを復活させられた。」私たちは皆、そのことの証人なのだ、と。さらに、今日、あなた方が見聞きしていること、それはこの復活の主が高く上げられ、神の右に座り、約束されていた聖霊を父なる神と共に遣わしてくださった出来ごとなのだ。あなたがたは、今、それを目の当たりにしている。まさにこのことの証し人とされているのだ、と。あなたがたが的外れな生き方で人と人、神との関係を遠ざけ分断する境界線に絡めとられ、あべこべに「私」を神として、神など取るに足らぬとうそぶき、その御子イエスキリストを嘲り、辱めて十字架につけた。その人の罪の極みを、神は贖いの救いの極みへと転じられたのだ、と。それがペトロの証言でした。そして今も使徒信条で私たちが、教会の告白として「主は十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目によみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と毎週言い表している言葉なのです。聖霊は、わたしたちを、ペトロの証言に聞き、生き、語る者とします。

 

このステイホームの期間、いくつかの本を読みました。その中で、朝岡勝という、私と同い年の、心から信頼している牧師が書かれた本の書評を頼まれて、丁寧に読む機会に恵まれました。朝岡先生がこんな言葉を書いておられたことが、心に刺さりました。

「この世界に対して死の力を突破する復活の喜びこそ、(教会は)語り伝えなければなりません。主イエス・キリストの復活をまともに信じる教会として・・・生きる希望と力をより高らかに宣言していかなければなりません」(185-6㌻)。主の復活を「まともに信じる教会」が、今こそなすべき務めは何か、明快に断言されるのです。私は、改めて教会、それもキリストの復活の命をまともに信じる教会が、このコロナ後の新世界で、一層高らかに宣言する希望と力の言葉、それは、死を含む何ものも、十字架と復活のキリストにある神の愛から私たちを引き離すことなど絶対にできない。恐怖で世界を支配し、あたかも神ででもあるかのように大手を振って闊歩する「死」の滑稽さを笑い飛ばし(詩2編)、愛するものを奪われて泣くものの傍らで涙を流し、死に対して怒る主を語り続けることだ、と。

ペンテコステ以来、ペトロの説教に語りだされた言葉を託された教会が、今の世界にとって希望の礎、とりなしの務めの担い手であることを魂に刻みます。この原点に立ち返らせ、立ち続けさせ、そして歩み出させる教会の信仰の足腰を鍛えられる時を与えられています。なまった体に筋肉体操が話題ですが、死の力に覆われて弱り、よどんだ魂に復活の主の命の息吹、汲めども尽きぬ命の泉を与え、健全な教えをもって真に人を生かすのは、教会の言葉に他ならないことを語る、「私」の信仰が「私たち」の信仰に連ねられて生きることの喜びと平安を噛みしめるのです。その時、わたしたちは、ペトロが「邪悪なこの時代から救われなさい」と励まし、パウロが言うように、(このよこしまで曲がった)時代の中で、非のうちどころのない神の子と(され)、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つものとされる(フィリピ2:15)のです。