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心を注ぎ出す

 

Ⅰサムエル1120「心を注ぎ出す」

 

2020510日(左近深恵子)

 

 

 

 聖書にはアブラハムやモーセのような、指導的立場にあった人々の祈りもありますが、リーダーでもない、王でもない者の祈りも伝えられています。先ほど聖書からお聞きしましたハンナも、その一人です。その名前が「恵み」を意味するハンナは、幾度も捧げた祈りによって、後の時代の信仰者たちにまでよく知られるようになった人物です。

 

 

 

 イスラエルの民を士師と呼ばれたリーダーが率いていた時代の終わりころ、エフライムという地域の山地にハンナは暮らしていました。ハンナの夫はエルカナと言い、不妊のハンナとは対照的に、エルカナのもう一人の妻ペニナには息子たちも娘たちもいました。ハンナを敵視するペニナはハンナを悩ませていました。子を何人も与えられていながら、夫からの愛情に自信が無かったのかもしれません。夫エルカナが、子どもが居なくてもハンナを愛していること、子どもがいないハンナを思いやって、特別な優しさを注ぐことに不安が掻き立てられ、その苛立ちをハンナにぶつけていたのかもしれません。聖書は、ハンナが悩んでいた、悲しんでいた、苦しんでいたと繰り返し伝えます。子どもを願いながら抱くことができない苦しみ、妻同士で対立してしまう悲しみ、そして子どもを与えられないということは神から祝福が与えられていないことを意味すると考えられていた世界で、子がいない状況は神さまのご意志であるとされ、神さまにつながる道を神さまから断たれるような苦しみを抱えていました。

 

 

 

エルカナ一家は毎年、聖所のあったシロに出かけることを大切にしていました。一家で主にいけにえを捧げる祭儀を守り、食事を囲みました。年に一度の特別な食事でしたが、ペニナやその子どもたちも同席するこの食卓はハンナにとって、苦しみの場でありました。ペニナやその子どもたちと食卓を囲むこと自体、心穏やかではいられなかったかもしれません。そのペニナから更に、主が子をお授けにならないことで悩まされるのは耐えがたいことでした。この年ハンナはあまりの辛さに食事が全く喉を通らず、泣いていました。ハンナを案じるエルカナは、慰めようと言葉をかけます。ハンナを気遣うエルカナの存在とその愛情は、ハンナにとって大きな支えであったでしょう。しかし「なぜ」と重ねて問いかけるエルカナの言葉にも、「私はあなたにとって10人の息子にもまさるではないか」との言葉にも、エルカナがハンナの抱えている苦しみを受け留め切れていないことを感じます。最も近くでハンナを知る相手であり、最もハンナの苦しみを理解したいと願っていたであろうエルカナであっても、ハンナの思いを全て理解し、受け止めることはできない現実があります。愛情はあっても埋められない距離がどうしても存在する現実の中で、ハンナはふさぎ込み、泣くばかりで、エルカナに対して言葉を返すことができずにいます。

 

 

 

エルカナとハンナの間に横たわる溝に、人と人との関係には限界があることを考えさせられます。エルカナは確かにハンナをとても大切に思い、ハンナの心に寄り添いたいと願っています。その姿勢は、今日の箇所以降でも明らかです。生まれてきた子を、その年は主の宮での礼拝に連れていかないとハンナが主張した時も、乳離れしたわが子を主に捧げるとハンナが決断した時も、エルカナはハンナの思いを尊重し、受け入れ、その行動を傍らで支え続けます。今日の箇所でもエルカナは、子どもを願うハンナの苦しみも、妻同士の対立も、神さまから顧みられていないのではないかと思う辛さも、理解し受け留めようとしています。しかしエルカナにはハンナの願いを実現させる力はありません。子を誕生させる力も、神さまからの祝福をもぎ取ってきてハンナに与える力もありません。勿論ハンナにもありません。そのような力は誰も持っていません。ハンナもエルカナが願いを実現させられると思って泣いているわけではなかったでしょう。人と人の関係は、互いの存在や言葉や行動に大いに助けられることが多々ある一方で、互いにすべてを満たすことのできない限界もあります。ハンナはどうすることもできない現実に阻まれて、沈黙してしまったのでしょう。ふさぎ込んで返す言葉も見いだせずに泣き続けるハンナの姿に、複数の妻を持つ社会の仕組みの中に置かれ、敵意と愛情が入り混じる人間関係に囚われ、同じように辛い日々を送っていた多くの人々が、自分の姿を重ね見たかもしれません。そして目に見えないウイルスの影響が広がる世界の中に置かれ、感染拡大への恐怖と、今まで以上に他者に対する敵意や無理解が露わになる人と人との関係の中で、他者の願いを満たすことにも、自分の願いが満たされることにも限界があることに気づかされている私たちの姿が、重なるのではないでしょうか。

 

 

 

だからこそ私たちは、ハンナの変化を語る聖書の言葉に耳を傾けます。食事の時が終わると、ハンナは立ち上がり、主の宮に行きます。ハンナは決断したのです。人と人との関わりの中に沈み込み、ふさぎ込んでいるところから、神さまのみ前へ行こうと。他者との関係の中で理解されること、満たされることを願うだけでなく、自分を内側から丸ごと神さまのみ前に置こうと。その決断が、「立ち上がった」という言葉で示されています。ハンナを立ち上がらせたのは、全能なる神への信頼でありました。

 

 

 

 ハンナは祈るために、主の宮に行きました。これまで公の礼拝を一家で捧げてきたこの場所で、今は一人の祈りを捧げます。殻にこもったり、自分を装っている限り、触れずに済む、気づかずに済む自分の奥底にあるものを、誰かの目を気にするのではなく、あるいは誰かをはけ口にするのでもなく、神さまに自分の命も存在も丸ごと委ねるように、一つ一つ注ぎ出したのです。

 

 

 

それは僅かに唇が動くだけの、心の内でなされる祈りでした。「激しく泣いた」とありますので、泣く声だけは口から漏れ出ていたのかもしれません。祈りの中でハンナは、「子どもが与えられればその子の一生を主におささげします」と言います。頭にかみそりを当てない、特別に神さまに献身したナジル人としてささげると誓います。

 

 

 

ハンナのこの様子を柱のそばで見ていた人がいました。祭司エリです。エリはハンナがお酒に酔っていると誤解をします。非常に強い結びつきで成り立っている部族社会の女性が、一家でではなく一人で祈りに来ることが珍しかったので、誤解したところもあるかもしれません。しかし「いつまで酔っているのか」と咎めるエリの言葉から、ハンナがとても長い時間そうしていたことによってエリが誤解をしたことがうかがえます。ハンナは神殿の祭司からも理解されない、辛い状況を味わいます。けれどハンナは諦めて口を閉ざすのではなく、自分は主のみ前に心からの願いを注ぎ出していたのだと言います。長い時間一人でここで祈り続けていたのは、それだけ訴えたいこと、苦しいことを沢山抱えているからだと説明します。神さまと人々の関係を保ち、良い関係を祝し、そうでない関係を回復させるために祭儀を執り行う務めを担う祭司に、言葉を重ねて訴えます。ハンナの必死に言葉を重ね、食い下がるような訴えによって、エリはハンナを理解し始めます。そして「安心して帰りなさい」と、「イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と告げます。祭司エリは、ハンナのために執り成しの祈りを祈る者となったのです。

 

 

 

ハンナがこの日捧げた祈りは、エリに誤解を起こさせるほど、長い時間、絶え間なく訴えるような祈りでありました。ハンナはそれを「心からの願いを注ぎ出していた」と言います。新しい翻訳では「胸の内を注ぎ出していた」となっています。自分の内側に溜まってしまったものを全て、言葉にできるものは言葉で、言葉にならないものは呻きや涙となって注ぎ出しました。奥底にあるものまでも含めて全て注ぎ出したから、祭司エリが告げる、「安心して帰りなさい」との言葉、主にあって平安の内に帰りなさいとの言葉を、内側の奥底で受け留めることができたのではないでしょうか。公の礼拝の場であれば、説き明かされる聖書の言葉を受け留めます。一人の祈りの場でハンナはこの日、祭司エリによって執り成しの言葉を受けることができました。神さまに自分は覚えられて生きていくのだと、自分の祈りは神さまに受け止められるのだと知り、エリを通して告げられた神さまの言葉を深く吸い込んだハンナは、神さまから恵みを賜りますようにと、祈りと共にその場を離れます。

 

 

 

ここからハンナには更なる変化が離れます。それまで喉を通らなかった食事を食べられるようになります。表情もそれまでとは異なったものになります。自分の人間関係の中へと戻ったハンナは、次の朝には再び一家で主を礼拝し、そして自分たちの家へと帰って行きます。この時ハンナは、子どもが与えられる保証も、子どもが生まれそうな兆候も、何も手に入れていません。ハンナを取り巻く一家の状況も何も変わっていません。しかしハンナは明らかに祈る前のハンナではありません。力強い信仰者の姿がそこにあります。ハンナという人が取り立てて強いわけではありません。人間関係の中で深く傷つき、弱っていた、一人の女性です。自分は神さまの恵みの内に生きているのだと知り、新しい霊的な命を生き始めたから、ハンナの歩みは力強いものとなったのです。ハンナの強さは、自分のこの先を主の恵みに委ねる者の強さです。「恵み」という意味の名前を持つハンナは、祈りによって主の恵みに満たされたのです。

 

 

 

やがてハンナは男の子を産みます。主に願って与えられたので、「その名は神」という意味の「サムエル」という名前を付けました。乳離れしたサムエルをハンナはかつて神さまに誓った通り、主に委ねるためにシロの神殿に連れて行き、祭司エリに託します。この子はやがて成長し、主にも人にも喜ばれる者となり、更に大人になると主の言葉を与る人物としてイスラエルの民から篤く信頼される指導者となり、神が定められた人物を王として立てる働きを担うことになります。神さまに魂を注いで祈った祈りが、神さまによって、ハンナの思いも力も超えた仕方で、神の民の将来へとつながる仕方で応えられました。ハンナの家族は問題を抱えていました。ハンナに執り成しの祈りを祈る者となったエリも、家庭に問題を抱えていました。しかし主はそのような二人を通して、神民のために大きな御業を起こされました。士師でも王でもない、苦悩の中で弱り切っていたハンナの祈りも受け止めてくださる主に、私たちも祈ります。この方の恵みに私たちの今もこの先も委ねます。

 

 

 

 主は、私たちに肉体の死で終わらない霊の命を与え、ご自分との交わりに生き続ける道を切り開くために、独り子の命までも与えてくださいました。私たちがそれぞれに味わう苦難を既に誰よりも深く苦しまれ、私たちの悲しみも悩みを誰よりもよく知っておられるイエス・キリストが、私たちのために執り成しの祈りを捧げ続けておられます。聖霊において、御子は私たちと共におられます。この父、子、聖霊なる神との交わりの中心は、礼拝です。その礼拝が、今は皆で集まって行うことができない状況にあります。だからこそ、私たちがそれぞれの苦悩や人間関係の中で沈み込んでいるところから立ち上がり、主に向かうこと、主に祈ることが、霊において生きるために必要です。主のみ前で自分の全てをさらけ出し、主の恵みを受け留め、美竹教会に連なる一人一人のために、教会での礼拝の再開のために祈り合いたいと願います。そして今この時苦難や困窮の中にある人々のために、医療関係者のために、治療法や薬の研究に携わっている人々のために、介護や養育に携わっている人々のために、日々家族を支えている人々のために、主の支えと慰めと癒しと平安を祈ることで、主の恵みにお応えしていきたいと思います。