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主の祈りを共に

 

マタイ6913「主の祈りを共に」

 

202053日(左近深恵子)

 

 

 

 新型コロナウイルスの影響が広がり、厳しい状況が私たちを取り巻いています。感染それ自体の問題と、感染によって浮き彫りになった、以前から私たちの中にあった様々な問題が、私たち自身や親しい人々にとって現実のこととなっています。

 

 

 

ある牧師が今回の状況に関して述べている中で、教会のために、教会に連なる方々のために、これまでこんなに祈ったことはないと書いておられました。私も一つの期間に、こんなにも多くの人のことを、こんなにも力を込めて祈り続けたことがこれまであっただろうかと思います。多くの人が捧げてくださっている心のこもったお祈りに、牧師たちが支えられていることに気づかされる毎日でもあります。

 

 

 

私たちは今、人との接触を極力控えることで、感染症予防に努めています。美竹教会に連なる方々と、大人から子供まで一緒に会堂で礼拝を守れる日は、まだ暫く先のことになりそうです。礼拝において、聖餐の恵みを共に口を通して味わう喜びも、互いに向き合って讃美をする楽しさも、共に聖書を学び、聖書の中に分け入っていく喜びも、礼拝の前や後に近況など話しながらお茶を飲む穏やかな一時も、テーブルを賑やかに囲む愛燦会も、今は望めません。

 

 

 

人との接点を減らしていることで、相手の今を知ることが難しくなっています。その人が今何を辛く思っているのか、何を求めているのか、なかなか知る機会が無いので、祈りで求めていることが、その人の今とずれてしまっているかもしれません。相手の状況とはちぐはぐな祈りをしていたり、互いにばらばらな思いで祈り合っているかもしれません。それでも私たちは互いのために祈ることができます。私たちが祈りに込める思いや言葉が空しく消え去ることは無いのだと、確信をもって祈ることができます。

 

 

 

祈ることができるということが、不安、焦り、怒り、疲れを抱え続けるこの日々において、私たちを支えています。どう祈れば良いのか分からない、祈りを祈ることができないのは、魂が正しい呼吸をすることができなくなる危機とも言えます。体にとって正しい呼吸をすることは生きるために必要なことです。十分に呼吸ができていなければ、息が詰まった状態になります。私たちの魂においても、息を吸うように神さまのご意志と恵みを受け留め、息を吐くように自分の全てを神さまに注ぎ出し、自分の全てを捧げて祈ることが、存在と命の全体をもって私たちが健やかであるために必要です。どのように息を吸ったら良いのか分からない、どのように息を吐いたら良いのか分からない、そもそもなぜ魂が呼吸をしなければいけないのか分からない、そのように迷う私たちに、主イエスは祈ることを教えてくださいました。

 

 

 

主の祈りはマタイによる福音書とルカによる福音書によって伝えられています。今日はマタイによる福音書から聞きました。ここで主イエスは祈りについて教えておられます。このように祈りなさいと言われる前に、祈りはこうであってはならないと、誤った祈りについて示されます。先ず、偽善者のようであってはならないと、次にくどくどと述べてはならないと、教えておられます。

 

 

 

偽善者のような者とは、なるべく多くの人に自分の敬虔さを見せたくて、定められた祈りの時間にわざわざ人の目に触れる場所に居て、人前で祈りたがる者だと言われています。彼らのように人に見てもらうためではなく、「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と教えられます。主は、偽善的な敬虔さが向かっている先は、神さまではなく人であることを明らかにされます。たとえ祈りの形式を取り、「神さま」と呼んでいても、神さまに向かっていないそれらの言葉は祈りになりません。自分の正しさを誇る場として祈りを利用したくなるこのような誘惑の力がいかに強いか、誰もが身に覚えがあるのではないでしょうか。

 

 

 

私たちは祈りにおいてさえ、他者にどう見られるかが最大の関心事となってしまい、自分を他者と比較してしまう誘惑から逃れることが難しい者です。主イエスはこの後75以下で、偽善者のことを、自分の目の中に丸太があることに気づかないまま、他者の目にある小さなおが屑を大げさに問題にする者として描き出されます。利己的で、他者を裁くことに熱心なこの人間の姿を醜いと感じますが、残念ながらこのような醜さから100パーセント自由な人などいないということ、この自分もその一人であることに気づかされます。偽善的であればあるほど他者の目を恐れ、他者を裁き、自分を飾ります。その人の視界に神さまがおられないからです。神さまはおられるのに、神さまがおられることを忘れているからです。

 

 

 

主は、共におられる神さまを忘れ、人に向かって祈ろうとするのではなく、神さまに対して祈りなさいと、み子であるご自分を世に与えられ、み子によって人をも神の子とされる神さまのみ前に進み出て祈りなさいと教えられます。私たちが仰ぐその方は、私たちが張り合ってしまう人間では無く、私たちをお造りくださった神さまですから、神さまのみ前で自分を飾り立てたり偽る必要はありません。神さまに捧げられる祈りなのですから、祈っている自分や祈っている内容を他者と比較する必要も、基準に到達できていないと蔑む必要もありません。神さまが私たちに祈ることを求めておられ、神のみ子である主イエスが、祈ることを教えておられるのですから、なぜ祈る必要があるのかと、自分の祈りは独り言なのではないかと、不安になる必要もありません。私たちが向かうお方は、私たちの祈りを喜ばれる方です。私たちが祈る前に、神さまが既に私たちが祈ることを待っておられる、その方に向かって祈る祈りですから、他者や自分の評価で誇ったり軽んじたりすることはできないのです。

 

 

 

主イエスがこうあってはならないとされたもう一つの祈りは、くどくどと祈ることでした。ここで問題とされているのは言葉数が多い祈りではなく、また神さまに食らいついていくような激しい祈りや、何度も思いのたけを訴える執拗とも言えるような祈りのことではなく、説明ばかりしてしまう祈りの根底にあるものだと思われます。まるで、全く分かっていない相手に解説するような祈りの根底に、神は自分に必要なものをご存じではないとの考えがあることを、主は明らかにされます。神さまは私たちに何が必要であるのか、私たちが自覚も認識もしていないところまでもご存じであると知っていれば、お願いごとのリストを読み上げて終わるような祈りや、それらが必要である理由をくどくどと説明するような祈りにはなりません。主イエスがここで退けておられるのは、自分は神よりも分かっている、自分の判断の方が神よりも優れていると、神さまに信頼していない在り方です。人は、「神さまは自分のことも、自分に必要なものも分かっておられると思ってきたけれど、本当に分かっておられるのかどうか、分からなくなってしまった」と思ってしまうほどの困難に、見舞われることがあります。今まさにそう思ってしまうような、厳しさと苦しみに直面している人が多くいます。「神さま」と祈り始めたものの、自分が「神さま」と呼ぶ相手は、本当におられるのか、そもそも誰かに対して自分は本当に祈っているのか、独り言をつぶやいているのかと、祈りが虚しく思えてしまう危機が、私たちの深い呼吸を阻み、神さまを仰ぐこと、聖霊なる神の恵みを深く吸い込み、自分の内側を神さまに注ぎ出すことから遠ざけてしまうのです。

 

 

 

だから主イエスは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものはご存じなのだ」と教えてくださいます。神さまがどのような方であるのか、再び思い起こさせえてくださいます。主イエスは主の祈りを与えてくださいましたが、それはただ文言を与えることではなく、祈ることができるように私たちに備えることをも教えてくださったのです。

 

 

 

主の祈りそのものも、私たちに祈ることができるように私たちを整えます。「天におられるわたしたちの父よ」との最初の呼びかけは、人間では無く神さまを仰ぐことへと導きます。「私たちの父」という呼び方は、私たちは神さまを父と呼ぶことのできる、親子の結びつきの中に入れられていることに目を開かせます。み子によって私たちを神の子としてくださった父なる神が、み子を通してご自分がどのような方であるのか教えてくださり、私たちの祈りの姿勢を整えてくださり、私たちがご自分に向かって祈ることを待っていてくださいます。神のみ心は、私たちが祈る前から既に私たちへと向けられています。だから祈ることができます。御子の死と復活によって、私たちの罪や肉体の死で断ち切られない復活の命に結ばれているから、危機に直面していても、恵みに信頼して祈ることができるのです。

 

 

 

主の祈りでこの先祈られることを一つ一つ取り上げていくことは、今日はできませんが、祈りの前半で祈るように教えられているのは、今ここに神さまのご意志が行われることを求める祈りであることを、覚えたいと思います。厳しく辛い状況の先が見えず、目覚めた途端、思い悩みに捕らわれてしまうような毎日に、私たちは置かれています。み子が降られたのも、まさに苦しみに満ちた世界のただ中でした。自分たちが手にしているものを獲得し続けるために、他者も神のご意志も救いの御業も、神が遣わされた救い主の存在と命さえも退ける人々のただ中に身を置き、「天の国は近づいた」と、神さまのご支配がこの世界にもたらされたと力強く告げて、福音を宣べ伝えてくださいました。このキリストが、「御名が崇められますように、み国が来ますように、み心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈るように、私たちに求めておられます。混沌とした闇のような世のただ中で、神さまが褒めたたえられるために、栄光が神さまに帰せられ、神さまのご支配が明らかになり、神のご意志がこの世で行われるために、自ら祈り続けられ、そのためにご自身の命を捧げてくださった主が、この祈りを与えてくださっています。祈りの後半では、日常のための祈りがなされます。困窮する全ての人の嘆きをご自身の嘆きとされたキリストが、生存のために祈ることを教えてくださいました。キリストは、生存のために戦い、敵対し、裁き合う世の只中で、神の国の到来を告げてくださいました。既に世にもたらされた神の国の民の一人として、生存のために戦う日常ではなく、生存のために祈る日常を、神さまのご支配に信頼して祈る日常を、私たちの日々としたいと願います。