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棕櫚の主日礼拝説教「十字架の王」

 

「十字架の王」ヨハネ1917303842

 

202045日(棕櫚の主日礼拝) 左近深恵子

 

 

 

 新型ウイルスの感染が広がる中で、主の苦しみを最も思う受難週が来ました。

 

 

 

聖書には多くの出来事が記されています。私たちにはそれぞれ、聖書の中で思い入れの深い個所、自分の過去や現在と重ねて見える個所、何度も思い返す個所があります。それらは他の人と必ずしも同じ個所ではないでしょう。けれど受難週は私たちが共に、主イエスが十字架にお架かりになった苦しみに思いを向けることができる時です。今この場所に集っている一人一人とも、感染症に阻まれて今日ここに共に集うことのできない一人一人とも、この日、この時、主の十字架を思っているということにおいて一つです。私たちは、不安や焦りを抱えています。疲れや怒りをため込んでいます。もしかしたら、大切な誰かや大切な何かを失う悲しみを、悔やんでも悔やみきれない思いを抱えている方もいるかもしれません。そのような私たちが、今日、人が味わう苦しみと悲しみの全てを負ってくださったキリストに、人が背負いきれない苦しみと悲しみまでも負ってくださったキリストに、み前へと招かれています。他者に見捨てられることを恐れて他者を見捨て、神さまに見捨てられた死を死んでいくことを恐れて神さまに背を向ける人の罪を、人の代わりに背負って十字架にお架かりになったキリストに招かれていることの恵みを、今年は特別な思いで受け止めます。私たちはいつにも増して切実に、キリストを知りたいと願います。

 

 

 

 では今この時、私たちはどこから十字架の主を見つめているのでしょうか。渋谷であるのかどうか、教会堂の中か、家か、施設か病院かということではありません。神さまとの関わりを軸に考えた時、私たちは自分自身を、神さまとの関わりのどこに見出すでしょうか。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、主イエスの弟子たちの内数人が、「されこうべの場所」という意味を持つゴルゴタと名付けられた処刑場で、処刑される主イエスのそばにいたことを伝えています。主イエスの母マリアとマリアの姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア、名前は記されていない主が愛する弟子が立っていたと。主イエスはその者たちに、おそらく呼吸をするのも大変苦しい状態の中から、語り掛けてくださったことを、伝えています。

 

 

 

ではその他の弟子たちは、どこにいたのでしょう。彼らは主イエスから離れたところにいます。物理的に距離が離れているだけでなく、主イエスとの関わりから離れてしまっています。かつて彼らが主イエスの後に従って、過ぎ越しの祭りのために賑わうエルサレムにやって来た時、彼らは主が逮捕され、殺されてしまうのではないかと不安も感じていました。それでも、主イエスは特別な方だから殺されたりはしない、主イエスから自分たちを引き離し、弟子同士の交わりも断ち切ろうとしている力に、主イエスは決して負けはしない、自分たちだって主イエスと一緒に戦う、死んでも主から離れないと意気込んで、主の後に従ってきたのでした。

 

 

 

しかし実際に、主イエスが逮捕され、連行されるのを目の当たりにすると、彼らがそれまで必死で抑え込んできた不安はリアルな恐怖と結びつき、強大なものとなり、彼らを呑み込んでしまいました。神の民であるユダヤの民の指導者たちと民衆、ユダの地を支配しているローマ帝国の権力が、それぞれ自分が他者から見捨てられないために、自分のために、主イエスを見捨てることにおいて手を組んでゆく、その有様を彼らは震えながら遠くから眺めているしかなかったでしょう。彼らは人々の流れが十字架へと追いやってゆく主イエスの姿を見つめ続けることができたでしょうか。あるいは、次は自分に向かってくるかもしれないと、人々の流れを追うことでいっぱい、いっぱいだったのかもしれません。

 

 

 

主イエスから遠く離れてしまった弟子たちと、主イエスの傍にとどまり続けた弟子たちと、置かれていた状況は同じです。主イエスを十字架にかけた人々の思惑と無関心と力が、彼らにも及ぶかもしれないのは、そばにいた弟子たちだって同じであったでしょう。そこに居ても主イエスを十字架から降ろして助けられるわけでも、その苦しみを代わることができるわけでも無いのに、主イエスから離れまいと近くに身を置き続けたのは、普段は対立する立場に互いにありながら、主イエスの存在を抹殺することにおいては一致してしまう人々の思いや力よりも、彼らの内側から沸き起こってくる不安や恐怖よりも、主イエスを自分の王とし続けたからでありましょう。

 

 

 

この弟子たちは、主イエスが十字架を背負ってゴルゴタまで歩まれる姿を見つめました。そして、主イエスが成す術もなく、敗北者として、ゴルゴタまで追いやられたのではなく、これまでの大祭司や総督ピラトの尋問や裁判の場でそうであったように、ゴルゴタへの道行きの時を支配しておられるのも主であることを、知ったことでしょう。17節に「イエスは、自ら十字架を背負い」とあります。当時、死刑囚に十字架の横木を背負わせて刑場へと引いて行くのがローマの習慣だったそうです。しかし「イエスは十字架を背負い」と書けば状況が伝わる場面で、書かなくても良い「自ら」という言葉を敢えて用いて、主ご自身が背負われたことを強調しています。かつて「誰も私から命を奪い取ることはできない。私は自分でそれを捨てる」と言われた主イエスは、自ら人々の罪を代わりに背負う死を引き受けられました。人の力も死の力も、人々の罪を贖うために一歩一歩踏み出される主イエスに、勝利することはできないのです。

 

 

 

ヨハネのように他の福音書も、二人の罪人の間で主イエスが十字架にお架かりになったことを伝えています。イザヤ書53章で「自らを投げ打ち、死んで、罪びとの一人に数えられた」と語られる苦難の僕が、多くの人が正しいものとされるために自ら死へと静かに進んでいったように、その苦難の僕に神さまが約束されたように、罪びとの真ん中で死んでいかれる主イエスの死は、人々の罪を自ら背負い、人々をご自分のものとされる死でありました。ヨハネによる福音書が記している十字架に掛けられた罪状書きの言葉も、十字架の上で死んでいかれるこの時もまた主が支配しておられることを示しています。服を奪われ、鞭打たれた体を曝け出され、茨の冠をかぶせられた主イエスの上に、「ユダヤ人の王」という言葉をピラトが掲げさせたのは、ユダヤ人指導者たちを侮辱するためであったのでしょう。ローマ帝国が危険な人物とみなす罪状が無ければピラトに死刑の判決を下させることができないからと、主イエスが「ユダヤの新しい王」と自称して、人々を先導し、ローマ帝国に対する反逆の罪を犯したと、偽りの訴えをしたユダヤの指導者たちに、このぼろぼろになって悲惨な死を死んでゆく者がお前たちの王だと、侮辱したのです。主イエスが自分たちの王であることを否定する指導者たちが取り外すことができない、彼らが何度書き換えを頼んでも書き換えられることの無い罪状書きを、群衆の前で掲げ続けられる屈辱を味わわせて、お前たちの王は人を死刑にし、命と存在を抹消する力を委ねられている私だと、思い知らせようとしたのでしょう。

 

 

 

しかしピラトの思惑とは全く異なった仕方で、罪状書きは真理を宣言しています。人の命を奪う力が王なのではなく、その力と結託して命を奪わせる力が王なのでもなく、死への不安や恐怖を利用して人を操ろうとする力が王なのでもない。死にゆく時も、死の時も王であり続ける方、主イエスが王です。ユダヤの民を基として、全世界の王となられました。そのために十字架の上にお架かりくださいました。かつて主はご自分の死について、こう述べられました、「私は、地上から上げられる時、全ての人を、自分のもとへと引き寄せよう」(1232)。罪びとのただ中で死んでゆくために十字架に上げられ、死んで、死者としてお墓の中に葬られ、三日後に死者の中から地上へと上げられ、地上から天へと上げられる、人の自己中心的な思惑も策略も無関心も、死に呑み込まれることへの不安も死そのものも貫いて、神さまがなさったこの御業によって、全ての人はキリストのもとへと招かれているのです。

 

 

 

私たちは、主イエスを見捨て、主イエスではなく、人を死に追いやることのできる力の行方に目を奪われ、不安に飲み込まれている弟子たちと同じところに居てしまう者であります。自分の意気込みだけでは主の近くに居続けることができない者です。

 

 

 

マリアたちは、ご自分のもとへと招く主イエスの招きを受け止め、引き寄せられるように主の近くにとどまりました。世の人々から見れば絶望の地とも言える刑場で、主イエスを支配した気になっている人間たちの力ではなく、主イエスの力を王とし続けました。マリアたちの主イエスとの近さとは、距離ではなく、主イエスを見守ることのできる近さ、主イエスの言葉を聞き取ることのできる近さとも言えます。そのような弟子たちを主も見つめられ、「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」と語り掛けられます。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」と言われています。命を捨てるほどに自分たちを愛してくださった主イエスの言葉に従って、二人がこの後の人生を歩んでいったことが告げられています。お互いを新たに結び付け、新たな関わりにおいて生きる者としてくださる主の言葉が、これからも彼らの力となっていきます。十字架の足元は、絶望の淵ではなく、主が流してくださった血と、裂いてくださった体と、語り掛けてくださるみ言葉において、共に現実の中を踏み出す出発点となっています。

 

 

 

私たちも、たとえ次第に色濃くなってゆく死の影の中にあっても、たとえ死にゆく時であっても、主イエスのお招きによって主のもとへと引き寄せられ、主の近くで主を見上げることができます。死の恐怖が切実な時にこそ、主のみ言葉と、聖餐の恵みが私たちの力となります。主から離れてしまった弟子たちが恐れたものを、私たちも恐れないはずはありません。こんなにも大きな力が世で勢力を誇っている時、主のそばに身を置いていても何ができるわけでもない、そんな声に引きずられそうになります。死の力に自分を支配させてしまいそうになるかもしれません。キリストは、死の影を纏う罪の力を滅ぼされました。死を凌駕する言葉と糧で私たちを新たにし、私たちを養ってくださいます。み言葉による招きを受け、主のおそばで、主にお委ねできるものは委ねて、ただ畏れるべき方を畏れる歩みへと、主の導きを祈ります。