朽ち果てない希望(19年9月号巻頭エッセー)

 

   「朽ち果てない希望」           左近深恵子

 

 

 

 神さまは愛であること、愛そのものであることが、私たちの喜びです。「神は愛なり」、この言葉を思い起せば、内に温かな火が灯るようです。けれど神さまが愛であること、神さまが私たちに愛を注いでおられることを受け留める思いが揺さぶられるような時があります。神さまの愛の中で生きる者の人生は、このようなものだろうと思い描いていた情景と、自分の置かれている現実がかけ離れることがあります。神の子とされていることを喜んでいるはずの人々が争い、互いの名誉や尊厳を傷つけ合っている現実があります。なぜこの人が、この人々が、このような辛い思いをし続けなければならないのかと、胸が潰れるような思いを味わうことがあります。くっきりと見えていたはずの神さまの愛が、ぼやけてよく見えなくなってしまう時があります。

 

 

 

エリートコースを邁進していたパウロは、復活のキリストに道を示され、キリストに仕える人生を歩み始めました。その歩みを振り返り、苦労がとても多かったと、投獄され、鞭打たれ、死ぬような目に遭い、石を投げつけられ、難船し、昼夜海上に漂い・・・と、その困難を数え上げています(Ⅱコリント1123以下)。このパウロが真実に召された人であります。神さまに従う歩みにおいて、私たちは時に自分では思ってもみなかった困難に直面します。

 

 

 

 迫害という危機が差し迫り、苦しみ、不安に直面しているキリスト者たちに、ペトロの手紙Ⅰは神さまの愛を伝え、互いに愛し合うことへと招きます。神さまに従うからこそ、出口が見えない暗いトンネルの中で足掻くような日々を送っている人々です。自分の中に蓄えてきたものでは持ちこたえられなくなりそうな現実の中にあり、万策尽きたと望みを失いかけている人々に、キリスト者が与えられている希望を思い起こさせます。私たちは、自分や世の力で買える、しかしいつか朽ち果てる金や銀のようなものによって、罪と死に囚われた状態から贖い出されたのではない。キリストの貴い血によっているのだと(Ⅰペトロ11819)、私たちを救い出すために、神さまは最上の値を支払われたのだと。しばしばぼやける私たちのイメージによってではなく、聞き慣れた、地味にさえ感じてしまうキリストの贖いを告げる言葉によって、朽ちることのない私たちの希望が告げられています。私たちに注がれている神さまの愛は、御子によって切り開かれている祝福された道は、キリストの血の贖いの御業と、洗礼を受け、聖餐に与っているという出来事に礎があるから、希望なのです。