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主による自由(6月17日浅原牧師説教)

 

出エジプト16:17-22、Ⅱコリント8:8-15

 

「主による自由」

 

 

 

「神の子なら、ここから飛び降りてみてはどうだ。神は天使を送ってあなたを助けてくれるだろう」。

 

これはイエスが荒れ野で悪魔から受けた誘惑の中で、二つ目(ルカでは三つ目)の誘惑である。この時悪魔は、イエスを神殿の屋根の上に連れて行って先ほどの言葉を語りかけたと伝えられている。この試みがどういうものであるのか。もう少し具体的に考えてみたい。「神殿の屋根から飛び降りる」。もしかしたらこの場合、それはその人自身がどれだけ神を信頼しているかを現す尺度となるのかもしれない。そんなことも出来なくて神を信じているなどと言えるのか。私の場合なら、そんなことも出来ないでそれでも牧師かとなじられてしまうのかも知れない。他の人ができなくても自分は出来る、それだけ自分の信仰は深いのだ、と証しすることになるのかもしれない。少なくともそのように見て取る人間は、教会の中であれ外であれ必ずいると思う。出来ると豪語する人がいる一方で、「私にはとてもできない。だからあの人はすごい」と、教会の中には特に、豪語している人間をいとも容易く褒めてしまうクリスチャンはいると思う。しかしイエスはこの誘惑を退けた。それは何故だったのだろうか。イエス自身、十字架への道を歩むということは、もしかしたら神殿の屋根から飛び降りることと似た意味を持っていたかもしれない。神によって受難の道を備えられ、その道をまっすぐに進みゆくことによって、十字架の死に至るまで神への従順を貫くことによって、神はイエスをよみがえらせる。高く引き上げられる。それはあなたが屋根から飛び降りても、たとえそれで命を失うことになっても神はあなたを助けてくれる、ということと同じような意味を持っていたのかも知れない。しかしイエスはこの誘惑を退けた。それは何故だったのか。通り一遍の答えではなくその奥底にある意味を、皆さんはお考えになったことがあるだろうか。お分かりになっているだろうか。申し訳ないけれども、お分かりになっているクリスチャンは少ないように思う。そしてそれは致し方ないことだと思う。世にある限り、クリスチャンと言えども、牧師であろうともその意味を見失ってしまっているのが現実だと思う。現実のこの世はそのように人の目を曇らせる、並々ならぬ力を持っているからである。それならばむしろ皆さんには、「自分は分かっていないのだ」ということを知っていただくというか、気づいていただくことの方が大切なことのように思う。

 

 

 

あの誘惑に対するイエスの答えは、「神を試してはならない」であった。更に掘り下げるなら、自分自身の為に神を試してはならない、ということである。私利私欲の為に神を引き合いに出してはならない、ということである。イエスが受難の道を歩むことも、その結果として十字架を背負うこともそれは神の意志であった。しかしこの荒れ野の誘惑の時点においては、まだその道は始まっていなかった。自分が神殿の屋根から飛び降りることで神の助けを、驚くべき神の救いの力を公に示そう、それで人々を信じさせようというのは、イエスが自分自身のために神を利用しよう、神をわがものにしようとすることと同じだった。或いは、イエスが自らの信仰の強さを世に知らしめるために神を引き合いに出そうとすることと同じだったのである。もしそれをしてしまったらイエスは、何の為に神が自分を世にお遣わしになったのか、その意味を履き違えてしまうことになっただろう。「神に従う」とはどういうことであるのか、神は何を自分に求めておられるのかを真剣に考えることもしないで、ただこの世で自分の満足や優越感に浸るために神を試す、ということになったであろう。もしそうならば、イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから悔い改めのバプテスマを受ける必要はなかったであろう。この荒れ野の誘惑を受ける前にイエスはヨハネからバプテスマを受けているが、それは自分自身に反して神のみを正しい方とする生き方を、つまり世にある限り悔い改めて神へと振り向かされる生き方を神の子自らが選び取る、その決意表明の意味を持っていた。そのイエスが自分の満足の為に神を利用しようとするならバプテスマを受ける必要などなく、勝ち誇った思いで、自分は神と共に正しいのだという思いに浸っていれば良かったのである。その場合イエスは、神の教えも聖書の言葉もすべて自分自身に役立つものとし、自分で自分を義と認める証拠に出来ると思ったかも知れない。そうして神の御心を踏みにじることになったかもしれない。屋根から飛び降りるほどまでに神を深く信じているのだという「見せかけだけの信仰」のもとに、神がイエスを通して罪人たちの味方になり給うのではなく、むしろそのように強い信仰を持つイエスにこそ神は味方するべきだ、ということを示すことになっただろう。もしそうであれば、それは神の子ではなくアダムがすることである。アダムの影響下にある人間が上り詰めるところは、自分が栄光を受ける為なら神への最高の奉仕をも厭わない、結局は自分の為に神を利用する、ということに他ならないのである。

 

 

 

皆さんも似たような誘惑に曝されたことはあるのではないだろうか。これをしていればいざという時イエス様に助けてもらえる。逆にそれをしていなければ助けてもらえない。そんな思いに駆られることが今まで何度もあったのではないだろうか。教会に通い続けていれば、人よりも多くの奉仕をしていれば、何か困ったことが起きても何とかしてもらえるとか、クリスマスの意味を分かっている自分は、意味も分からずにクリスマスをはしゃいでいる世の人々よりも救いに近いのだとか、そういう誤った優越感を懐いたことがあったのではないだろうか。しかしそれは、神を真の神とは違う、偽りの神にしてしまうことなのである。偶像にしてしまうことなのである。神は宗教的に熱心な、敬虔な人々の神であって、命ある者すべてにとっての神ではない、ということにしてしまうことなのである。そうしてその人は、罪深い者たちや汚れた者達の交わりから自分は一線を引いて、私はあなたのような信仰のない人達とは違うのだ、という意味のないプライドの中に立てこもってしまうことなのである。それこそが、クリスチャンならではの罪だと私は思う。世の人々はそれが罪であるとは気づかなくても、神は気づいておられ、見抜いておられるクリスチャンならではの罪である。そしてそれは神に対して、自由とされていない者のすることである。本来、主の十字架によって罪赦され、復活の主に結ばれるバプテスマを受けることによって罪から解き放たれたクリスチャンでありながら、神を信じていると口では言いながら、実は神なしでも、自分の知恵や力でどうにかして生きていける、というアダムの思いに束縛されている者のすることである。自分の身を守ることしか考えられず、自分の楽しみや喜びしか追い求められない、人がどうなっても関係ないという偏見から解き放たれていない者のすることである。だからこそ、それが分かっているからこそイエスは、この誘惑を退け給うたのではなかったか、とこの頃よく思うのである。自分の身に危険が迫るとき、人は先ず安全を確かめたくなってしまうものだ。神に委ねることもできないで、目先の安全を求めて走り回ってしまうものだ。崖から落ちても天使に助けてもらえるなら、命が助かるならいくらでも神に祈ろうと、神を自分の為に利用しようとしてしまうものだ。

 

 

 

「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受けいれられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。『多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった』と書いてあるとおりです。」

 

 

 

これは二千年前、経済的に豊かであった当時のコリントの教会が、貧しさに苦しんでいたエルサレムの教会を助けることができるか、という問題であった。助けを必要としない教会が、助けを必要とする教会を助ける。それが、主があなたがたに求めておられることだとパウロは彼らに訴えていた。しかしコリントの教会には、その提案に賛同できない人々が多くいた。今風の言葉を借りて言い表すなら、エルサレムの教会が貧しいのは自己責任であると。我々が身を削ってそこまでする筋合いはないというのが彼らの言い分である。そしてそのような声に流され、同調してしまう人々がおそらく増え続けていたのだろう。

 

しかし、である。問題はそればかりではなかった。否、エルサレムを支えるべきだ。献金を送って助けるべきだ、と表面的にはパウロに賛同する者達もいたのである。パウロは喜んだだろうか。もしそうであれば、先ほどのような言葉を彼は残さなかったと思う。同じ援助をするにしても、「進んで行う気持ちがなければならない」。パウロはそう訴えていた。それをすれば救われるとか名声が広まるというメリット、打算と言ったような我欲に縛られてそれをするようなことがあってはならないということである。見た目には慈善事業と映っても、それを自分の利益のためにするような人間的な思いが彼らには漂っている。パウロにはそう見えたのではないだろうか。今、エルサレムを助けておけばいざという時、神に守ってもらえる。逆に今、エルサレムを見捨てたらいざという時自分も見捨てられるかもしれない。そういう思いからエルサレムに献金をした方がいいと判断する人間がいたのだと思う。「屋根から飛び降りても神に助けてもらえる」という、サタンの誘惑にはまってしまった人間の姿がそこにある。自分のように隣人を愛することが出来ないアダムの姿がそこにある。人を助けるのも結局は自分に見返りが帰ってくるから、としか考えられない、そういう因果応報思想というか、自分中心にしか物事を考えられない価値観というか、そういうものに束縛されてしまったままのアダムの姿がそこにある。主によって自由にされていないのである。本当の神の前で裸になることが出来ないのである。

 

 

 

それこそ、神を試すことであった。自分を助けてくれるから信じているのであって、そうでなければ信じないという自己中心的な信仰、打算的な信仰のままであった。赦される値打ちのない者を赦し、値のない者を我が目にあなたは値高いと呼んで下さる神の恵みによって信仰が与えられたということ、信仰が偏に神の恵みによるものであることに全く気づかない、気づこうともしないで今のままで自分は正しいのだと間違った安心感に浸ってしまうことであった。イエスはなすべきことをしたから復活したのだとか、罪なき生涯を全うしたから神は高く引き上げられたのだとか、神の恵みを、人間に対する単なるご褒美程度にしか考えられず、十字架の死からよみがえらせる神の奇跡、後の者が先になり、最も低い者をこそ高く引き上げられる神の恵みに心を閉ざしてしまうことであった。その昔、神がイスラエルの民をエジプトから贖い出して荒れ野へと導かれた時、そういう考え方しか出来ない者達が、あのマナを人より多く集めようとしたのだろう。彼らも、マナという神の恵みの賜物を自分の身の安全の為に私物化しようとしたのである。もしかしたら、マナを人より多く集めたら、その分神にご褒美をもらえるとか何とか考えた者もいたかもしれない。彼らは信仰とは無縁のところで、恵みとは全く関係のないところで、神に気に入られたいとか救いを確実に手に入れたいとか、そのようにしか考えられなかったのである。そしてそれは、今も昔も、神を信じると言いながら過ごしている者達の中に漂い続けている思いなのだと思う。しかしそれが、主の貧しさによって豊かにされることなのだろうか。世にある限り、私自らに向かっても問い続けたい。それが主によって豊かにされるということなのだろうか。むしろ主の恵みを踏みにじって自分の手で豊かになろうとしているのではないだろうか。私達に命を与える為に十字架の死を選ばれた主イエスの意志を、私達を豊かにする為にこれ以上の貧しさはないというところまで貧しくなられた主イエスの思いを、困った時、苦しい時にだけそのことを教えてもらえれば良いかのように、受け取るも受け取らないも自分のその時の都合次第と考えてしまっているところが我々の中にも、否、我々クリスチャンの中にこそあるのではないだろうか。

 

 

 

それが神の御前で裸に過ぎない者の姿と言えるだろうか。裸の姿に徹しきれずに、またもやアダムのように何か余計なもので身を隠そうとしているのではないだろうか。取り敢えず目先の安全だけは確保しておこうと思い煩っているのではないだろうか。それは主を信じているといいながら、信じ切れないで未だに主を試している信仰なのだと思う。しかしイエスはその誘惑をはねのけられた。そしてすべてをイエスは捨てられた。故郷からも締め出され、人々からは嘲笑われ、弟子たちにも裏切られて、一人孤独に惨めな死を遂げられた。しかし最後の最後までイエスは神を疑うことはしなかった。神に問いかけ、神に祈り求めることはあっても、嘆きの叫びを上げることはあっても、神を疑うことは決してしなかった。更に、イエスは自分を十字架へと追いやった人間を恨むこともしなかった。憎むこともしなかった。むしろ彼らを、裏切った弟子たちをも赦していた。人を疑い自分の正しさに固執しようとする人間と、このイエスと、どちらが罪から解放されているだろうか。死にたくない為、目先の良い暮らしにしがみつきたい為に人を思いやることの出来ない人間と、たとえ自分が余命いくばくかとなっても最後の最後まで人の為に祈り、人への感謝の心を忘れない人間と、どちらが罪から解放されているのだろうか。他者を憐れむ思いを、進んで行動に移せるのはどちらであろうか。見返りを計算しないで、ただ純粋に相手のことを思えるのはどちらであろうか。だからこそ初めのところでパウロは、これは命令ではなく、「他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです」と言っていたのである。

 

 

 

ここで、若い頃放蕩の限りを尽くしながら悔い改めへと導かれたある人間の言葉を紹介したい。それはこういう言葉である。

 

「目先しか見えない人間は、選択をしなければと思い込み、その危険にふるえおののく。選択が怖いのだ。しかし選択に意味はない。信頼して慈悲を待ち、感謝して受ければ良い。いずれにせよ選んだものはすべて与えられ、失ったものは取り戻せる。」

 

 

 

これは今から30年ほど前、アカデミー賞外国語部門賞をとった、バベットの晩餐会というデンマーク映画の中に出て来る、年老いた将校が語ったセリフである。これこそ主によって自由とされた者の叫びだと思う。神を試そうとはしないで、信頼して神から示される答えを待つ者、神に委ねきっている者の叫びだと思う。そのような信仰へと神は我々一人一人を導こうとしておられることに気づいていただきたい。その為にイエスが先立って、誘惑をはねのけられ、誘惑にはまりがちな我々一人一人の手をしっかりと握っておられること、イエスが身を挺して我々をサタンから守ってくれていることを忘れないでいていただきたい。