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焼き魚とキリスト

 

イースターの出来事は、新しい時の始まりを告げるものとなっています。この時期にふさわしく、葉桜の緑が柔らかく、若草萌える季節に、春眠を裂いて暁に目覚めるものとされながら。  あのアーモンドの枝に春の芽生えを見ながら、そこに神のまなざしを醒めて見出した預言者エレミヤのように、わたしたちの魂の眼も、時代を画するキリストの出来事を見る者とされるのです。

 

 イエスキリストの弟子たちの眼は、当初、閉ざされ、あたかも眠りの中にあるかのようであったことを先週の箇所も今日の箇所も記しています。夕暮れせまって陽が西に傾き、長く伸びた影を引きずるようにしてエマオに向かう途上で復活されたキリストに出会って、聖書(旧約聖書)の説き明かしを受け、鈍く麻痺していた心、しだいに燃え立つ思いに目覚めて、祈りをささげてパンを裂いて渡されたその姿に初めて復活のキリストを見る者とされた、と。その2人は今来た道をおそらく10数キロの道のりを取って返して、今日の場面、弟子たちの集まっているところに息せき切って駆け込んで、「こういうことを話していた」。そのところに、イエスキリストが、今度は他の弟子たちのただ中に立たれたのだ、とルカ福音書は証言するのです。

 

ここで福音書を読み、また聞いている者は、ことの一部始終を、エマオ途上の弟子たちの心燃える思いを共にして聞く者ともされつつ、それでもどうしても十字架に死んだイエスキリストを墓の中に探して見出せない常識も想像も超えた何かに思考停止してフリーズして、魂凍てつかせて、復活のキリストを亡霊と思い込み、思い誤った弟子たちと共に恐れ戦きもするのです。

 

そこに「あなたがたに平和があるように」と弟子たちだけでなく、読み手に向かっても、語りかけられるイエスキリストをルカ福音書は描くのです。もとのギリシャ語では、ここで動詞の現在形がつかわれて、過去に言われたことではなく今、「「あなたがたに平安があるように」とおっしゃる」と書いてあるのです。つまり今、このところで、聖書を紐解いてこのルカ福音書のキリストの復活の場面を共に聞いている私たちに向かっても「平安があるように」と語りかけられているのだ、とも読めるのです。

 

 ルカが語るこの出来事に招き入れられながら、イエスキリストの語られる弟子たちへの語りかけを、時代を貫いて、そして今日も聞き続けているのが教会の礼拝です。イエスキリストは弟子たちに、私たちの信仰の先達たちに問われる、「どうしてあなたたちの心に、そのような考えが起こるのか?」と。単なる疑いの思いというよりも、これまでの常識や凝り固まった考えの枠の中に、今起きている事柄を何とか納めて、手なずけて理解して神のなさる大いなることを小さくまとめて懐に納めるかのようにして安心したいという思い、死んだイエスキリストの体は墓場にあるはず、今見ているのは亡霊に違いないと思い込む考え、そのような考えがどうして、起こるのか、と。

 

そして十字架で釘打たれた跡の残る手と足を指し示されながら、たしかにあの十字架で死んだ、その「わたし」が今、死の力を打ち破って復活してあなたたちに語りかけている、「まさしく(ほかならぬ)私なのだ」(エゴーエイミー)、と。

 

あのヨハネ福音書20章で弟子たち、中でも、固く復活など信じない「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ」とかたくなに魂を閉ざしていたトマスに、近づいてこられて「信じない者ではなく、信じるものになりなさい」「見ないで信じるものは幸いだ」と語りかけられ、後の全ての信仰者たちへの招きを語ってくださったこととも重なり合うのです。

 

 さらにイエスキリストは、「何か食べ物がありますか、ここに」と問われ、焼いた魚を差し出されると、それを取って、召しあがったと。エマオの途上の宿で、パンを裂いて配られ、今ここで、魚を食べられる。弟子たち、そしてルカ福音書を読み、また聞いてきた人たちは、おそらく、思い起こしたことでしょう。あの5000人を超える人たちを前に、5つのパンと2匹の魚を、イエスキリストが、取って天を仰いで賛美の祈りをささげ、裂いて配り、皆が満たされた日の事(ルカ9:1017)を。あの日喜びがはじけたことを。

 

そして十字架につけられる前の晩、弟子たちにとっては、それが最後になるとは思いもしなかった食卓だった「最後の晩餐」。感謝の祈りをささげてパンを裂き、杯をわけられた夜のことを。その食卓のメニューは出ていませんが、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』には魚がお皿にのせられています。十字架につけられる前のイエスキリストと、復活のイエスキリストを結ぶ“パンと魚”。

 

因みにヨハネ福音書では、復活されたイエスキリストが、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちに向かって岸から呼びかけられて、言われたとおりに網を打つと大漁で、それを引いて岸辺までやってくると、炭火を起こして待っておられ、取った魚を何匹か持って来させて、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」とすすめ、パンを取って弟子たちに与え、魚も同じようにされた、と証しされています。

 

 パンを分け、焼き魚を一緒に囲まれるイエスキリストは、十字架につけられる前の最後の晩餐と、復活されて囲まれた最初の朝食のテーブルマスターとして、弟子たちを招かれました。「あなたがたに平安があるように」と言われて。そして今も語りかけられる。この主の食卓を、2000年にわたって教会は礼拝のたびに思い起こし、そして味わい続けるのです。その食卓に連なり、今は御許に召された信仰の先達たちと共に囲む終わりの日の食卓をも仰ぎ見ながら。