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復活の朝(イースター説教)

 

ルカ24112「復活の朝」 

 

201841日(イースター礼拝) 

 

 

 

 神の国の到来を告げる主イエスの言葉や癒しの業に、深く心を打たれた人々がいました。自分が存在の深いところから罪に汚れた者であることが分かり、主イエスはこのような自分のところに神さまの元から来られた方なのだと受け止めることができました。主イエスが「私に従いなさい」と招かれると、従った人々もいました。その中には女性たちもいました。誰でも、仕事や家族を後に残して主イエスに従うためには、大きな一歩を踏み出さなければならなかったでしょう。まして女の人たちが主イエスや他の弟子たちの活動に加わり、その旅に同行することには、厳しいまなざしが向けられたことでしょう。しかし主イエスに従って生きることを多くの婦人たちが喜びとしました。その中の数人については名前も伝えられています。ルカによる福音書には3人の名前が登場します。1人目は7つの悪霊に取りつかれていて、主イエスにそれらの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア、2人目はヨハナ、この人はヘロデの家令という、社会的地位にある人の妻、3人目はヤコブの母マリアです。第8章ではこの3人について、「悪霊を追い出して病気を癒していただいた婦人たち」であり、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と言われています。主イエスの伝道のお働きを経済的に支援し、主イエスと弟子たちの生活のお世話をしていた、この婦人たちの存在と働きをルカによる福音書は特記すべき大切な事として記しているのです。

 

 

主イエスはこの婦人たちに手を差し伸べ、神さまの愛の中に彼女たちもあることを示してくださり、神さまとの関わりの中へと招いてくださいました。この方こそ神さまが遣わされた救い主だと心から信頼し、たとえ困難が伴っても、この方に従う人生を歩みたいと、婦人たちは主の後に従ったのです。

 

 しかし主イエスはエルサレムで、十字架に架けられて死んでしまわれました。他の弟子たちは何も打つ手が無いまま主イエスを見捨てて逃げました。婦人たちも彼らと同様、このような逮捕や裁判は不当だと声を挙げることも、主イエスをその苦しみから助け出すこともできませんでした。けれど彼女たちは逃げ出すことはしませんでした。十字架の上で死んでゆかれる主イエスを見つめていました。アリマタヤのヨセフがその体を引き取ることを願い出て、ピラトから許可を得、十字架から主イエスの体を降ろす様を見つめていました。ヨセフの後についてゆき、岩に掘られた新しい墓に主イエスの体が納められるのも見つめていました。彼女たちの言葉は何も聖書に記されていません。状況を覆すような決定的な行動を起こせたわけではありません。言葉すら発することができない。それでも死んでゆかれる主イエスの苦しみを、そしてその体が行き着く先を、目に焼き付けようと後を付いていったことを記します。婦人たちはそうすることで、何とか主イエスと繋がろうとしているようです。主イエスの体が墓に納められるのを見届けた頃には安息日が迫っていましたので、もうその場を離れて家に帰る他ありません。しかし主イエスに繋がっていようとする婦人たちの思いは、その場を三日離れたからといって消えるものではありません。安息日が明けた日曜日の朝、それもまだ夜の暗さが深く残っている頃、待ちかねたように、再び主イエスの体が納められた墓へと向かいます。墓に行き、主イエスの体に丁寧な埋葬の仕上げを施さなければ、という使命感が、主イエスが死んでしまわれた喪失感の中で彼女たちを支えていたのかもしれません。

 

 

ではその目的を果たした後、どうするつもりだったのでしょう。彼女たちの人生はどこに向かえたのでしょう。何も無かったのではないでしょうか。主イエスの後に従う旅は、主イエスの死によって絶たれてしまった。人の罪深さと死の力が主イエスを奪ってしまった。自分たちの旅は、墓で行き止まりなのだ。主イエスが自分たちを愛してくださったこと、自分たちに福音を語ってくださり、従うようにと招いてくださったことは、主イエスが生きておられるからこそ生きた喜びとなるのであり、死んでしまわれたら、主イエスの存在も愛も福音も過去のものとなってゆくだけ。自分のこの先に主イエスと共に歩む道はもう無く、主イエスの道がそうであったように、自分の道の先にも死が待ち受けているのだ。死によって行き止まりになってしまうのだ。このような絶望の闇が、彼女たちの心の奥底に広がり始めていたのではないでしょうか。 

 

 しかし墓に向かった彼女たちは結局、丁寧な埋葬をするという彼女たちの目的を果たす代わりに予想外の2つことを見出したことが、「見いだす」という意味の同じ動詞によって、伝えられます。先ず、墓穴の入口を塞いでいた大きな石が脇に転がされていたことを見出します。そして、墓の中に主イエスの遺体が無いことを見出します。あるはずの所に石が無く、あるはずの所に遺体もありません。かつて彼女たちは、主イエスという、自分たちの人生を全て委ねられる救い主を見出せたことを喜びました。しかし今はその方の名残とも言える遺体しか自分たちには残されていないのだと、その遺体を目指して墓に来ましたが、遺体というゴールも、埋葬の仕上げをするという、主イエスの名残につながり続けるための手段も見失い、途方に暮れてしまいました。「途方に暮れる」と訳されている言葉は、行き詰まってどこにも行けない状態を表します。主イエスの遺体だけでなく、進むべき道も、目的に向かって進むことのできる生き方も失ってしまったのです。 

 

 

 すると輝く衣を着た2人の人、つまり神さまの使いが突然そばに近づき、恐れて地に顔を伏せている婦人たちにこう言います、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。婦人たちが行き止まりだと思っているその先に、神さまは既に道を切り開いてくださっているのだと示しています。婦人たちが見出したと喜び、従ってきた主イエスは、主イエスの全てではありません。主イエスは死なれました。その死は確かなものです。けれど神さまは主イエスを死者の中からよみがえらせてくださいました。主は生きておられるのです。 

 

 

 このことを、婦人たちは既に知っていたはずでした。ガリラヤにおられる頃から主イエスは3度に渡って、ご自分は必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、3日目に復活することになっていると告げてこられていたからです。神さまの使いはそのことを聞いていた者として婦人たちに語り掛けています。彼女たちが12弟子たちほど主イエスのお側に常にいたわけではなく、彼らほど目立つ役割を担っていなくても、神さまは彼女たちの存在を福音の聞き手として受け止めておられ、その福音を思い起こすことを求められています。婦人たちは、促されてすぐに主イエスの言葉を思い起こします。墓の石が脇に転がされていることを見出したから信じたのでも、墓の中に主イエスの体が無いことを見出したから信じたのでもありません。ご自分の復活を告げられた主イエスの言葉を思い起こし、主イエスは復活されたとの神さまからの言葉を受け止めたから、主が今生きておられることを信じ、復活された主の後に従う道を見出すことができたのです。

 

 

 婦人たちから話を聞いた弟子たちは初めのうち、この信じがたい話を信じることができず、婦人たちがたわ言を言っているように受け止めます。しかしやがて弟子たちは、主イエスが復活されたことを信じるようになります。そして主の死と復活を宣べ伝える人生を歩んでゆくことになります。今こうして主イエスの復活をお祝いする礼拝をささげることができるのは、このような人々が、今に至るまでのそれぞれの時代で、福音を宣べ伝えてきてくれたことによって実現しています。その繋がりを遡ってゆくと、マグダラのマリアたちがいます。十字架の後、墓場で行き止まりになってしまったと途方に暮れていたこの婦人たちの人生を、神さまは、復活の主に従う道へと導かれました。不完全な理解ながらも、主イエスに従い続けようとしたこの婦人たちを、キリストの復活を最初に信じる者とされ、主の復活を最初に宣べ伝える者としてくださいました。キリスト者とは皆、マリアたちのように、今生きておられる主の後に従う道を旅している者なのです。