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キリストの横顔(「十戒」説教)

 「盗んではならない」。実にシンプルです。だれが考えても至極当然のこと。ただ、この言葉と関係する他の聖書箇所を探りますと、気づかされることがあるのです。この言葉が元来想定していたのは、人を盗むこと、すなわち誘拐のことであったことが分かります。

 人を盗むこと、それはその人の自由を剥奪することが、おそらくは念頭におかれていると考えられています。禁じられているのは、自由な人を(誘拐という)暴力によって奴隷にすることであり、自家で使用するためであろうと、他人に売り渡すためであろうと、その点にかわりはない、と。「盗んではならない」との言葉において問題となっているのは他の人の生活を盗むこと、自由を奪うことだ、と。

 「盗んではならない」それはすなわち、人を人とも思わぬ扱い、人の生活を脅かすこと、その自由を奪い取ること、そのようなことを、苦楽を共にし、絶望から救い出されてきたあなた方の間では、よもやしないでしょう、ということです。それは、これまで聞いてきた一つ一つの十戒の言葉もそうでしたが、ただ行動を縛る戒律ではなく、危ないことに手を出さないように自己規制し、罰を恐れる生き方ではなく、むしろ果敢に隣人を生かし、守り、支えてゆく積極的な生き方へと向かわせられてゆくものです。

そのことが分かるのは、出エジプト記の十戒のすぐ後に続く「契約の書」と呼ばれる箇所で、「盗んではならない」と言う言葉に呼応する部分に表されているからです。たとえば221節から14節までを見てみますと、「盗み」に関する具体的な細則が刻まれています。牛やロバや羊などの家畜の盗難のケースに触れられていますが、これらは皆、当時、生活するのになくてはならない、移動や運搬のために用い、衣服のため毛を刈り、食糧として屠るのに必要な生活必需品でした。それらが何等かの理由で盗難や事故で失われれば、生活自体が立ち行かなくなる、命が危機に晒される、今で言えばライフラインに等しいものといえるでしょう。それらを自分が奪わないだけでなく、失われないよう、互いのライフラインを尊重し、維持し、守ってゆくことが求められています。

申命記にも「盗んではならない」の精神に基づいて隣人のライフラインを守り、支える生き方を指し示す言葉が出てまいります。申命記22:14節です。「同胞の牛、または羊が迷っているのを見て、見てみないふりをしてはならない。必ず同胞のもとに連れ返さなければならない。もし同胞が近くの人でなく、だれであるかもわからない場合は、それを家に連れ帰り、同胞が探しに来るまで手元に置き、探しに来たとき、その人に返しなさい。ロバであれ、外套であれ、その他すべて同胞が亡くしたものを、あなたが見つけた時は、同じようにしなさい。見ないふりをすることは許されない。同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ないふりをしてはならない。その人に力を貸して、必ず助け起こさねばならない」。

 旧約学者のパトリック・ミラーは、「ただ単純に街角で窃盗を働くことを止めるということにとどまらない。・・・・むしろ隣人の牛が迷い出て、明らかに隣人の生活が危険に晒されるであろうことが火を見るよりも明らかであるにもかかわらず、それを見て見ぬふりすることを止めるということ。その牛が失われ、結果として盗まれるのと同じ損失を隣人が蒙ることを未然に防ぐために、牛を家に連れ帰り、手元に置いて、隣人の手に戻ったときに、すぐに前と同じように牛が働けるように、隣人の生活が滞りなく維持できるように牛の世話をすること。それはロバにしても外套にしても何にしても同じだと。隣人の財産を安全に保護することで、隣人の生活と命を守る積極的な責任へと召されていることを(第8の言葉)示している」と。

 そしてこれと呼応するものが改めて出エジプト記に出てくるのですが、235節では、一歩進んで「もしあなたを憎むもののロバが荷物の下に倒れふしているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさなければならない。」となります。申命記のような「同胞」や隣人ではないのです。ここでは、あなたのことを憎んでいるもののロバが荷物の下敷きになって倒れているのに出くわす。その傍らに必死になって額に汗を浮かべ、ロバを助け起こそうと奮闘している敵がいる。自業自得、いい気味だと思うのが悲しいけれど人間の自然な感情かもしれません。それを踏まえてなお、一歩進めて「そのあなたを憎む者」の困窮を見て見ぬふりをせず、「盗んではならない」を敵対するものにまで適応する。

 ここには生々しい苦闘があり、葛藤があることが伺われます。それがこの一文にはにじみ出ているのです。この箇所を直訳するならば「あなたは彼を見捨ててその場を立ち去ることを必ずや思いとどまれるはずだ」となるのです。見棄てる、その場を立ち去る、という思いがあるのは当然だ。しかも相手はこちらに悪意をもっている。しかしあなたにはその思いを鎮め、これに終止符を打つことができるはず、というニュアンスです。憎しみをここぞとばかりに返して、困り果てている彼を見捨てたい気持ちがあるのは承知している。しかしそれを思いとどまる。憎しみの連鎖を断ち切ることがあなたにはできるはずだ、と言うのです。

この箇所について解説したアラム語の文献では、「捨て去れ、捨て去れ、あなたが彼について心に抱いていることがらを。そしてその重荷を下ろしなさい、彼と共に」と読むのです。かなりの意訳です。けれどもこの言葉の含みを確かに捉えた読みと言える。彼に向かって、ふだんの私に対する仕打ちをここぞと燃え上がる怒りにまかせて彼を見殺しにすることを、それでも思いとどまる、ただ思いとどまるだけでなく、思い切り捨て去り、脱ぎ去ることが、救いをしった今、一歩進みうるはず、との深い期待をこめて語られている文章なのです。

そして5節後半でこの期待は更に一歩推し進められるのです。「必ず彼とともに助け起こさねばならない」と。私を憎むものとともに、倒れ付しているロバの下にもぐりこんでこれを助け起こし、ともに額に汗して問題解決をすることです。見棄てないということは、そういうことだというのです。「盗まない」というのは、そういうことまで含むのだ、と。

敵を見棄てない、すなわち愛するということは、美しく聞こえます。確かに美しいことです。けれども、その美しさには多大な犠牲が伴うのです。盗まないだけではない、相手の生活を守るだけではない、むしろ自分が失うことさえも含まれてゆく。

 

そのときわたしたちは見ることになるのです。私たちの傍らで十字架を背負って、汗を滴らせておられるキリストの横顔を、わたしたち負い切れない罪のために血を流される主を。ご自分を失ってまで、わたしたちを生かした方を。ここに主イエスの見せてくださる新しい共同体の幻があります。身内や同胞、そしてそれを超えて見ず知らずの、けれども同じ神によって造られた人、否、むしろ私のことを憎み、嫌い、傷つける、そう誰にでもいる苦手な人、一緒にいたくない、できることならいなくなってほしい、そんな人とそれでも一緒に汗を流している私、そのわたしの傍らに、額に汗して私たちの十字架を背負っておられる主イエスがおられるのです。

「盗んではならない」と語りかけられたわたし達は、キリストの横顔に慰められ、力づけられ、生かされながら、今日から、あらためて、だれかの隣人となることへと招かれています。