過去の説教

過去の説教 · 15日 5月 2018
主イエスが十字架につけられる前の晩、弟子たちにとって、それが最後になるとは思いもしなかった食卓だった「最後の晩餐」。その食卓のメニューは聖書には出ていませんが、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』には魚がお皿にのせられています。十字架につけられる前のイエスキリストと、復活のイエスキリストを結ぶ“パンと魚”。 因みにヨハネ福音書では、復活されたイエスキリストが、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちに向かって岸から呼びかけられて、言われたとおりに網を打つと大漁で、それを引いて岸辺までやってくると、炭火を起こして待っておられ、取った魚を何匹か持って来させて、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」とすすめ、パンを取って弟子たちに与え、魚も同じようにされた、と証しされています。  パンを分け、焼き魚を一緒に囲まれるイエスキリストは、十字架につけられる前の最後の晩餐と、復活されて囲まれた最初の朝食のテーブルマスターとして、弟子たちを招かれました。「あなたがたに平安があるように」と言われて。そして今も語りかけられる。この主の食卓を、2000年にわたって教会は礼拝のたびに思い起こしているのです。
過去の説教 · 04日 5月 2018
主イエスが「私に従いなさい」と招かれると、従った人々もいました。その中には女性たちもいました。誰でも、仕事や家族を後に残して主イエスに従うためには、大きな一歩を踏み出さなければならなかったでしょう。まして女の人たちが主イエスや他の弟子たちの活動に加わり、その旅に同行することには、厳しいまなざしが向けられたことでしょう。しかし主イエスに従って生きることを多くの婦人たちが喜びとしました。その中の数人については名前も伝えられています。ルカによる福音書には3人の名前が登場します。
過去の説教 · 03日 5月 2018
「盗んではならない」。実にシンプルです。だれが考えても至極当然のこと。ただ、この言葉と関係する他の聖書箇所を探りますと、気づかされることがあるのです。この言葉が元来想定していたのは、人を盗むこと、すなわち誘拐のことであったことが分かります。人を盗むこと、それはその人の自由を剥奪することが、おそらくは念頭におかれていると考えられています。禁じられているのは、自由な人を(誘拐という)暴力によって奴隷にすることであり、自家で使用するためであろうと、他人に売り渡すためであろうと、その点にかわりはない、と。「盗んではならない」との言葉において問題となっているのは他の人の生活を盗むこと、自由を奪うことだ、と。
過去の説教 · 23日 4月 2018
 今年度、共に紐解いているルカによる福音書には、他の福音書が記していないイエスキリストの言葉やなされた事柄が刻まれています。「ザアカイの物語」もそうですし、ゴッホやレンブラントが自らの作品の題材として愛した「良きサマリヤ人のたとえ話」、「放蕩息子のたとえ話」もそうです。羊飼いたちの夜を記したクリスマスの出来事もそうです。そして今日の少年時代のイエスキリストの姿も、他のどの福音書にも出てきません。それぞれに、ルカによる福音書が、読み手である私たち、聞き手である教会の人たちに、どうしても伝えたい、そして出会ってもらいたいキリスト、そしてその言葉だからなのです。