過去の説教 · 10日 7月 2018
「神の子なら、ここから飛び降りてみてはどうだ。神は天使を送ってあなたを助けてくれるだろう」。 これはイエスが荒れ野で悪魔から受けた誘惑の中で、二つ目(ルカでは三つ目)の誘惑である。この時悪魔は、イエスを神殿の屋根の上に連れて行って先ほどの言葉を語りかけたと伝えられている。「神殿の屋根から飛び降りる」。もしかしたらこの場合、それはその人自身がどれだけ神を信頼しているかを現す尺度となるのかもしれない。そんなことも出来なくて神を信じているなどと言えるのか。しかしイエスはこの誘惑を退けた。それは何故だったのだろうか。
過去の説教 · 15日 5月 2018
主イエスが十字架につけられる前の晩、弟子たちにとって、それが最後になるとは思いもしなかった食卓だった「最後の晩餐」。その食卓のメニューは聖書には出ていませんが、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』には魚がお皿にのせられています。十字架につけられる前のイエスキリストと、復活のイエスキリストを結ぶ“パンと魚”。 因みにヨハネ福音書では、復活されたイエスキリストが、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちに向かって岸から呼びかけられて、言われたとおりに網を打つと大漁で、それを引いて岸辺までやってくると、炭火を起こして待っておられ、取った魚を何匹か持って来させて、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」とすすめ、パンを取って弟子たちに与え、魚も同じようにされた、と証しされています。  パンを分け、焼き魚を一緒に囲まれるイエスキリストは、十字架につけられる前の最後の晩餐と、復活されて囲まれた最初の朝食のテーブルマスターとして、弟子たちを招かれました。「あなたがたに平安があるように」と言われて。そして今も語りかけられる。この主の食卓を、2000年にわたって教会は礼拝のたびに思い起こしているのです。
『信音』掲載エッセイ · 07日 5月 2018
「一羽のすずめ」という讃美歌を聞いたことがあります。スウェーデン出身の歌手、レーナ・マリア・ヨハンソン(結婚して今はクリングヴァル)さんが日本公演で歌っているのを聴いた時です。レーナ・マリアさんは生まれつき両腕がなく、左足が右足の半分の長さしかなかったのですが、水泳でパラリンピック(1988年ソウル)のスウェーデン代表に選ばれ、背泳ぎ、平泳ぎ、自由形でそれぞれ入賞した経験をもっている方です。選手引退後は音楽大学に進み、歌手として世界を飛び回ってコンサートを開き、日本にも何度か来られてCDも販売されています。その中に日本語で歌われた曲が数曲あり、その一曲がこの「一羽の雀さえも」だったのです。 心くじけて、思い悩むこともあった、さみしく、天を仰ぐこともあった。けれども主イエスが私のまことの友であることを知っている。一羽の雀にさえ目を注いでおられる神が、このわたしを支えてくださっている。だから声高らかにうたう。ああ、一羽の小さな雀さえも守ってくださる神が、この私に目を注いでくださっている、と。

過去の説教 · 04日 5月 2018
主イエスが「私に従いなさい」と招かれると、従った人々もいました。その中には女性たちもいました。誰でも、仕事や家族を後に残して主イエスに従うためには、大きな一歩を踏み出さなければならなかったでしょう。まして女の人たちが主イエスや他の弟子たちの活動に加わり、その旅に同行することには、厳しいまなざしが向けられたことでしょう。しかし主イエスに従って生きることを多くの婦人たちが喜びとしました。その中の数人については名前も伝えられています。ルカによる福音書には3人の名前が登場します。
過去の説教 · 03日 5月 2018
「盗んではならない」。実にシンプルです。だれが考えても至極当然のこと。ただ、この言葉と関係する他の聖書箇所を探りますと、気づかされることがあるのです。この言葉が元来想定していたのは、人を盗むこと、すなわち誘拐のことであったことが分かります。人を盗むこと、それはその人の自由を剥奪することが、おそらくは念頭におかれていると考えられています。禁じられているのは、自由な人を(誘拐という)暴力によって奴隷にすることであり、自家で使用するためであろうと、他人に売り渡すためであろうと、その点にかわりはない、と。「盗んではならない」との言葉において問題となっているのは他の人の生活を盗むこと、自由を奪うことだ、と。
『信音』掲載エッセイ · 23日 4月 2018
 あなたがたは「世の光」「地の塩」である、とイエス・キリストは語っています。それは今居る場所で光として塩として生きることを促す言葉と言えるのです。では「塩」として生きるとは?  数年前のこと、伯方の塩で有名な瀬戸内海に浮かぶ大三島に行く機会があり、食塩がどうやって作られるか、工場見学をしました。

過去の説教 · 23日 4月 2018
 今年度、共に紐解いているルカによる福音書には、他の福音書が記していないイエスキリストの言葉やなされた事柄が刻まれています。「ザアカイの物語」もそうですし、ゴッホやレンブラントが自らの作品の題材として愛した「良きサマリヤ人のたとえ話」、「放蕩息子のたとえ話」もそうです。羊飼いたちの夜を記したクリスマスの出来事もそうです。そして今日の少年時代のイエスキリストの姿も、他のどの福音書にも出てきません。それぞれに、ルカによる福音書が、読み手である私たち、聞き手である教会の人たちに、どうしても伝えたい、そして出会ってもらいたいキリスト、そしてその言葉だからなのです。